憎しみの連鎖を断ち切る


信仰心なき科学者ほど危険な存在はない。
なぜなら、真理は神の側にあるからである。
人の側にあるのは、相対的認識である。
科学とは信仰である。

神に背を向けてはならない。

自由が経済の拡大や成長、技術革新などを前提としていたら経済成長や市場の拡大、技術革新が限界に達した時、自由は失われる事になる。しかし、自由がその真価を問われるのは、むしろ限界に達した時である。
数学は、拡散、拡大、無限のみを前提として成り立っているわけではない。むしろ、数学の本質は、収束、収縮、有限に置かれるべきである。
成熟は、衰退を意味するわけではない。成熟は、繁栄の極みである。成熟が衰退に変質するのは、状況の変化を見誤り、適切な政策がとられないからである。借金の働きも成長期と成熟期とでは違う。つまり、衰退するのは、政策の過ちによる。
成長や拡大は、量的な要素に支えられているが、成熟期になると市場は飽和状態になり、量的な拡大は期待できなくなる。つまり、量から質への転換が求められるのである。成熟期が衰退に転じるのは、量から、質への転換する事に失敗したからである。

極端な規制緩和は、市場の規律を乱し、結果的に市場の寡占、独占を招き、あるいは、保護主義をよぶ事になる。
公平、公正な取引を実現するためには、統一的なルールを築く必要がある。

なぜ競争をする必要があるのか。なぜ、競争をさせる必要があるのか。意味もなく競争を煽り、競争を原理として絶対視する事は危険である。無原則な規制緩和は、過当競争を招く。市場経済は、適正な利益によって成り立っている。適正な利益が上げられない状態になれば、寡占、独占状態に陥るのは必然的帰結である。

適正な利益は、適正な収益と適正な費用によって成り立っている。
廉価で輸出できるには、輸出できる理由がある。一つは、輸出国の通貨が輸入国に比べて相対的に安い事である。次に原価が安い事である。原価が安い最大の要因は、人件費である。

安い労働力の代償として貧困や格差、劣悪な労働環境を輸出していないかが問題なのである。

なぜ、安い人件費が実現するのか。不当に安い人件費で働かせているか。劣悪な労働環境で働かせている場合が考えられる。
同じ前提に立たなければ、公正な競争は保たれなてのである。公正な競争を実現するためには、労働条件はどうか、生活水準はどうかは、労働環境はどうか格差や差別はないか等を検証する必要がある。その上で必要に応じて規制するのである。

不公正な競争が横行したら市場を守るために、保護主義的にならざるをえない。

個々の国を関税によって閉ざすのではなく。同一の条件で競争ができるようにする事なのである。それは、無原則な規制緩和を意味するわけではない。

海外から部門と交易せずに、人口も一定で、生活環境や様式も変化せず。生活に必要な資源の生産の一定で、通貨量も変化しなければ、物価も一定している。ただ、人、物、金の何かが不足すると物価は、変動する。物価は、極めて繊細な均衡の上に成り立っている。
人、物も、「お金」も一定ではない。絶えず揺れ動いている。

先ず人口の問題である。全人口が必要とする資源を調達する為にどれくらいの人間が必要か、その人口が確保されているかが問題となる。そして、人口動向や人口構成の変化。生活水準や生活様式の変化等が物価にどう影響するかである。人口は、長期的な周期で変化する。しかし、生活の様式や水準は、急速に変化する事がある。電気やガスが普及していない時代と今日とでは、生活必需品の質も量も格段の差があり、その需給が物価に与える影響は、格段の差がある。
次に、生産量の問題である。全人口が生活する為に必要とする資源を国内で生産調達する事が可能か。もし自国内だけで生活に必要な資源が調達できなければ、海外から不足している資源を調達しなければならなくなる。
その為には、不足する資源があったらどのような手段でどこから調達する手段が問題となる。
調達する手段には、交易以外に、強奪や戦争という暴力的手段も含まれる。根本が死活問題だからである。生きていくために、必要な資源が確保されなければ、生存できなくなるからである。
今日、一国だけで経済を成り立たせようとすること自体無理がある。一国で経済が成り立たない要因は、軍事的問題が絡むからである。

そして、最後に、「お金」の問題である。「お金」が人や物と違うのは、第一に、「お金」は、分配の手段だという事である。第二に、「お金」は、予め満遍なく配分されていなければならないという点である。第三に、「お金」は循環させなければならないという点である。
お金を循環させるためには、単に、「お金」を配分するだけでなく。それを回収すると同時に、再配分しなければならない。過不足が生じたら、貸し借りという手段を講じる事になり、貸し借りは、ストックを形成するという事である。このストックとフローの関係が物価に決定的な影響を与える事になる。
貸し借り以外の手段として税がある。税は、強制的に資金を市場から回収し、それを再分配し、資金を循環するのが役割なのである。

資金の流れには、収入と支出、借入と返済の二つの流れがある。借入金だけがストックを増加させるわけではない。
単位期間の負債と、収入は一致している。なぜならば、借入は収入でもあるからである。
収入と支出、借りと貸しはゼロ和である。借入と収入もゼロ和である。
収入の中で消費に回されない資金は、貯蓄としてストックに積み上がる。貯蓄は、金融部門の借入である。
ストックが拡大している間は、資金は市場に供給され続ける。資金を減少させるためには、負債を清算する必要がある。清算する手段の一つが資本化である。
民営化とは、期間損益主義を導入する事を意味している。
貸方と借方はゼロ和であるが、収益と費用、資産と負債はゼロ和である。
ストックが拡大し続けると資金の供給量も増え続け、時間価値も上昇していく。借入だけがストックを拡大するのではなく、貸出も借入と同量、ストックを拡大するのである。
過剰負債は、過剰資産でもある。レバレッジを聞かせるとストックは、さらに拡大する。信用取引を考えればわかる。損失が拡大したら追証がかかるのである。その時、水面下にある元本は何倍にも膨れ上がっている。名目的な担保は、保証金でも、実質的借入は、元本であり、それが現実の収支を支配するようになる。信用取引を基礎とした経済の落とし穴である。

全ての人は死ぬ。聖人も、賢人も、哲学者も、悪党も、君主も、独裁者も、富豪も、貧者も皆死ぬ。
イスラム教徒も、キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、仏教徒も、無神論者も、皆死ぬ。それが神の意志である。死は宿命である。
死は、行いを正当化しはしない。しかし、死は、動かしがたい現実である。真実は生き様にある。

神が憎しみを煽っているわけではない。憎しみを煽っているのは、人である。
憎しみの連鎖を断ち切る事である。

神は何も仰らない。しかし、神はなしとげよと命じられる。私は、深い闇に埋もれていくのかもしれない。それでも私は構わない。私は神の僕である。
死の前に人は皆平等なのである。

神に背を向けてはならない。神と対峙して時、神に愧じる事をしてはならない。




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