経済政策は、相対的であり、合目的的である。規制緩和も相対的で、合目的的な施策である。絶対的な原理ではない。
なぜ、規制を緩和するのかと言うと、一つは、草創期で企業が乱立状態の時、企業を淘汰する目的で規制を緩和し、競争を促す目的で規制を緩和する。二つ目は、市場が停滞し、成長が鈍化した時、技術革新などを促すために、規制を緩和する。三つめは、規制によって既得権益が派生し、余剰利益が過大になった時。四つ目は、組織の効率が低下し、組織が肥大化した時。五つ目は、相互牽制が働かなくなり自浄機能が働きが低下した時。六には、仕事が慢性化し、組織が保守的になり、革新を受け入れなくなった時。変化に対応しきれなくなった時等である。
逆に規制緩和の弊害は、一つは、過当競争が激化し、適正な収益が上げられなくなる。最終的には価格が全てになる。第二に、組織が生産効率ばかりを追い求めるようになり、分配や労働条件、雇用といった面が疎かになる。第三に、雇用の標準化、平準化が極端に進められる。第四に、余剰人員の捌け口がなくなる。第五に、独占も寡占が進む。第六に、貨幣的価値観が優先されるようになる。第七に、市場が荒廃する。第八に、組織の効率化、合理化が極限にまで求められる。第九に、競争力がすべてに優先される。第十に、質より量が優先される等である。
故に、市場が成熟期になった場合、成長期と同じ規制では市場を制御できなくなるが、かといって規制を闇雲に緩和すればいいという訳ではなく、況や、なくしてしまえというのは暴論である。
高度成長期、あらゆる産業が独占を怖れていろいろと制約を受けていたのが、今は、嘘のようである。その結果、石油も、金融も、電気も、寡占独占状態に陥りつつある。
寡占、独占状態にしたのが競争原理主義者だから皮肉なものである。なぜならば、独占は、競争を全否定した状態だからである。
市場は、規制があって成り立っている事を忘れてはならない。規制がない状態が自由だと錯覚している者がいるが、それは無法状態を意味する。スポーツは、ルールを前提とする事で自由が保障されているのである。だからこそ、スポーツマンには遵法精神が求められる。
問題は、規制の在り様であって時代や状況、環境の変化に適合しなくなった規制は、改廃すべきではあるが、規制そのものをなくしてしまえとか、ひたすら緩和すればいいというのは暴論である。
規制の目的には、経済的な目的。安全性を保つ目的。治安を維持する目的。国防的目的。国民の権利を守る目的、環境保護の目的等がある。
経済的な規制のなかで、市場の機能に最も関係していると思われるのが独占禁止法である。
独占禁止法には、二つの中心となる概念がある。一つは、文字通り、独占寡占の禁止である。もう一つは、不当廉売である。
そして、市場に規制を招く一番の要因は、過当競争である。
過当競争の一番の弊害は、市場が荒廃させる事である。市場を荒廃させるとはどうい事かと言うと第一に、財、商品やサービスの質を低下してしまう。第二に、販売員のモラルを低下させる。モラルハザードの問題である。第三に、労働の質の低下である。第四に、結果のためには手段を択ばない風潮が高まり、不正や犯罪を誘発しやすい環境になる。第五に、利益中心主義になり、拝金主義に陥る。第六に、市場の傾向が一定方向に傾き、流されやすくなる。赤信号皆で渡れば怖くないという状態になり易い。リーマンショックやバブルの時代は、収益第一主義に陥り、営業員のモラルの低下を招いたと言われる。第七に、質の低下によって仕事が没個性的になり、マンネリ化する。財の標準化が進むのである。第八に、寡占独占状態では、適正な利益が維持できなくなるという事である。回転率や販売数量を大きくする人によって規模を大きくする事で利益を上げようとした場合、どうしても利益が圧縮される傾向がある。大量生産、大量販売、大量消費を前提としすると商品の持つ本来の価値を損なう事にもなりかねない。つまり、質より量が求められる事で結果的に質が低下し、経営が成り立たなくなるのである。過当競争は、悪化が、良貨を駆逐するという状態を招きやすい。
規制と言うのは、宴会に水を差すような事と言われるが、常軌を逸した宴会を抑制する者がいなくなれば、群衆は制御する事が出来なくなる。とかく、規制する物は嫌われる。
制御できない状態に陥った時。
適正な収益が維持できないような状態に陥った時は、不当廉売を規制する必要がある。
独占、寡占状態になってしまう場合である。かつては、石油業界も金融業界も建設業界も寡占独占には過敏なほど制約されてきたが、いつの間にか寡占状態に陥ってしまった。独禁法の精神などどこ吹く風である。これは、将来に禍根を残す事になる。
経済的規制の中には、産業保護を目的としたものもある。産業を保護する事はないというのは、反体制主義者の常道である。しかし、産業を規制によって保護しなければ、個々の企業は、自力で自分たちの権益を守らざるを得なくなり、その結果、横暴になる。それは法を否定する事であり、法による支配を否定すれば暴力による支配にとって代わられる事を理解していないだけである。
資産価値が下落し、流動性が低下した場合には、何らかの規制が求められる。リーマンショックが好例である。
急激な為替の変動は、産業をの経営基盤を直撃する事がある。プラザ合意後の急激な円高は、バブルを引き起こし、その後の日本経済の本質を変えてしまった。
為替だけでなく、金利や地価、物価の急激な変動は、企業の経営、特に中小企業の経営を不安定なものにする。この様な変化から残業を守るために、一時的に競争を抑制するような規制は必要とされる。バブル崩壊後無防備な状態に置かれた多くの企業が、通常の営業以外の理由で淘汰されてしまった。
法や制度の変更も一時的に企業経営を窮地に追い込むことがある。バブル崩壊等が好例である。
地震や洪水と言った災害や事故、テロ、戦争等による急激な変化の際に規制が必要となる場合がある。好例がオイルショックや東日本大震災の時である。
経済活動には、危険はつきものである。火災や事故、公害などから国民の安全性や保安が維持できなくなる事が予測される場合は規制すべきである。
環境が著しく汚染され、国民の健康に被害が及ぶことが予想された場合は、規制する必要がある。
競争力の基礎的条件に極端な格差があって公正な競争が阻害されている場合である。
貧困の輸出等と言うような事態も引き起こす。現在の市場は、世界に開かれている事を前提として成り立っている。公正な競争を実現するためには、各国の市場が同じ条件でなければならない。同じ条件を実現しようとしたら市場を閉ざすしかなくなる。
開かれた市場で公正な競争を実現するには、国家間の差が違い過ぎる。各国の市場の前提条件を一致させようとすれば、政治体制も、経済体制も、また、宗教や生活水準、経済政策や、為替制度、貨幣制度、思想や教育水準にまで及ぶからである。故に、も何らかの規制をかけて極力同じ条件に近づけるようにしないと公正な競争は維持できない。
中には、劣悪な労働条件によって低賃金を実現している国や地域もある。かと言って直接その国の労働条件を改善できないとしたら貧困を輸出していると言われても仕方がない場合がある。
労働環境を劣悪なものにしないためには規制が必要となる。
また、安全規制や薬などの認可にも国家間に違いがあり、その差を埋めるためには、時間がかかる。野放図にしてしまえば、国家の自主独立にもかかわる問題に発展してしまう。
伝統的な技術や知識などが維持できない、あるいは海外に流出してしまう恐れがある場合も規制が求められる。
これらの中には、国防上に重大な危機を及ぼす場合がある。現在の日本人は、この問題にあまりにも鈍感で、国際問題、外交問題を引き起こす要因にもなっている。
平等という言葉を都合よく使う傾向があるが、なにもかも同じする事を平等と言うのではない。平等と言うのは、人間本来の在り方、存在の問題であり。その点からすれば個々人の差、国家の差を前提として成り立っている。皆、同じだとするのは、かえって不平等を招く。
子供、若者は違う。女性と男性は違う。寒い国と熱い国は基盤が違う。資源を持つ国と持たない国とでは違う。体制が違えば政策も違う。その差を前提としなければ平等など成り立たないのである。
先ず違いを正しく認識する事から平等は始まるのである。
市場均衡は、水平的均衡、垂直的均衡、部門間の均衡、時間的均衡の四次元からなっている。
経常収支で重要なのは、水平的均衡を保つ事が求められる。
市場経済を動かしているのは、部門間の資金の過不足による。基本的に家計部門と民間法人部門の短期的では、交互に資金不足部門と余剰部門とを入れ替わり、通常は、財政部門は、中立的、即ち、均衡した上に置かれるようにし、資金を供給する時に財政部門を資金不足部門とするよう調節する。財政部門は、期間損益(プライマリーバランス)を視座に入れて運用する。海外部門は、国際分業の観点に立って経常収支と資本収支が均衡するように調節する。金融部門は、中立的立場を維持するように制御する。
絶対に赤字は悪いと決めつけるのではなく。資金と損益の関係をよく見て判断するように心がけるべきである。
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