市場を一つの統一された場と見るか、複数の独立した場が複合された場と見なすかが、重要となる。また、統合された場を目指すべきなのか、それとも独立された場を維持すべきなのかが問題となる。
統一的な体系を有する法や規則は一つの場を形成する。
場を構成するのが、場に一様に働く力だとすれば、場に働く力の根源とそれを一様に保つ仕組みが何に依存しているかが鍵を握る。市場が一様な働きを保つためには、貨幣制度、金融制度、会計制度、経済制度が一体である必要がある。
特に、貨幣制度は、他の制度の基盤となる制度であり、一つの貨幣制度は、一つの通貨圏を形成する。故に、通貨制度を基盤として市場は形成されると考えられる。即ち、通貨圏毎に独立した市場が複合されて国際市場全体は形成されていると見るべきである。
市場の境界線は、障壁、防火壁の役割も果たしている。
やがては、市場は統一される方向に向かっていくことが望ましいのかもしれない。しかし、今日のように経済や市場構造が多様であり、価値観も多様である世界を強引に統一しようとすれ事は、リスクが大きすぎる。第一に、環境や前提条件、生活水準や所得水準に差がありすぎるのである。やはり、個々独立市場を前提として全体を構築するのが望ましい在り方である。
この様な市場は、閉ざされた場であり、有限だという事である。即ち、市場には、範囲があり、境界線があるという事を意味する。市場は、際限のない、開かれた場ではない。市場は無制限な場ではないのである。
貨幣は、経済的価値を数字に置換するための手段、道具である。貨幣は、基本的に物を使用する。故に、貨幣は、物としての制約を受ける。表象貨幣は、急速に、情報化、即ち、記号化、電気信号化している。即ち、無形化している。その為に、物としての制約から開放されつつある。しかし、それでも本質的な部分でまだ物としての制約を受けている。
表象貨幣を構成する要素は、量と数、数字、貨幣である。数量は、数と量によって構成されている。量とは、長さとか、体積、面積、質量、温度、時間と言った何等かの実体を持つ全体からなる。量は比である。数というのは、他と明確に区別できる部分の集合である。数字は、数を表象した記号である。数量は、数字化されることによって演算が可能となる。貨幣は、経済的価値を数字に置き換えた物である。数値的価値を物に置き換えることによって交換が可能となった。
反面、物に置き換えた事で貨幣は、物としての制約を受ける。即ち、貨幣は、物であることによって貨幣が表象する価値は、自然数と言う制約を受けることになる。そして、貨幣を基礎とした会計は、結果的に残高計算が基本とならざるをえなくなる。それが複式簿記会計の成立要件となるのである。
単位とは、任意の量である。当初、単位は、今日の様に定められた一定の量ではなく。必要に応じて任意に定められる量である。今日でも、貨幣単位にその名残がある。
貨幣は、貨幣単体で価値を形成する物ではない。貨幣価値は、取引によって生じる。取引とは、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣を交換する行為である。
この様な、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣から生じる権利や責務、即ち、債権と債務が貨幣価値を構成するである。
故に、貨幣の量が問題なのではなく。貨幣が生み出す貨幣価値の総量が問題なのである。貨幣価値を生み出すのは取引である。つまり、取引は媒介する物として貨幣には、重大な役割があるのである。
故に、貨幣の総量も重大だが、より重要なのは取引の量である。
経済現象は、人の経済、物の経済、金の経済が複合して起こされる現象である。インフレーションにもインフレーションを引き起こす、要因が、人の経済、物の経済、金の経済、各々にある。
物の購買力を決めるのは、貨幣ではない。人の消費意欲である。人の消費意欲は、必要性から生じる。人が必要だと思えば、購買力は高まり、必要でないと思えば、購買力は低下する。故に、貨幣の流通利用を増やしただけでは、消費は高まらず、貯蓄ばかりが積み上がってしまう。つまり、根本は人の経済である。
必要な物資が不足すれば物価に上昇圧力かかかる。物が過剰になれば物価には下降圧力が働く。物が不足すれば物の値段が上がるこれは当然の理である。
個々の国家は、経済的に自律している事が要求される。生産に偏ったり、消費に偏ることは好ましくない。その為には、自給できる物資は、極力自給できるようにするのが妥当な政策である。
生産拠点、輸出拠点が特定の地域や企業に集中したり、偏ることは、経済の公正上、望ましくない。
輸出可能な物資と輸入しなければならない物資(必要物資)とを明確に区分しておく必要がある。
経済的に不安定な要素を安定化するのが金融や企業、政府と言った経営主体の役割なのである。
市場が機能するためには、市場を適度な数の企業が競合している状態に保つことが要求される。
競争を促すために、規制を緩和すべきだという議論そのものが矛盾している。競争に対して順、即ち、競争を促す働きをする規制と競争に対して逆な作用をする規制があるという事である。競争を促すために規制を撤廃してしまうというのは、狂気の沙汰である。競争を促すにせよ、抑制するにせよ規制によって競争は保たれているのである。
競争を促進するような規制(規制緩和策)に変更することは、市場取引を活性化させる反面、企業の利益率を低下させる。競争を抑制するような規制(規制強化策)に変更することは、利益率を向上させる反面、市場取引を沈静化する。
現在の会計の仕組みは、先進国を根拠地とする企業にとって資金的に甚だ不利であるという事を認識しておく必要がある。なぜならば、長期資金の扱いに問題があるからである。
長期資金というのは、企業では長期借入金であり、銀行では預金に相当する。
長期資金というのは、家計で言えば、住宅ローンに相当する。この様な資金の危険性は、短期の負担が目に見えないという事にある。それでも、住宅ローンのような場合は、収支によって把握できる。
しかし、長期資金は、期間損益主義では表に現れない仕組みになっている。つまり、目に見えない負担が恒常的に累積すると言う事である。つまり、先進国のように成熟した市場では、徐々に収益を圧迫するようになる。また、平常時においては、問題とならないが、収益が悪化すると命取りになる。
不況期において企業が倒産するのは、収益が悪化した時、不良債権を問題として、長期資金を一斉に引き揚げようとすることが原因なのである。不良債権というのは、本来は長期資金の問題である。不況期で問題とすべきなのは、収益構造なのである。
財政が破綻する原因の一つは、長期資金の増減が直接財政収支に影響を与えるからである。民営化が効果的に見えるのは、長期資金が直接、財政に影響を与えなくなるからである。
積極財政は、通貨の流通量を増やす反面、財政支出を増加させる。
緊縮財政は、通貨の流通量を減少させる反面、財政支出を減少させる。
公共投資は、雇用を創出し、雇用を高める。反面、財政支出を増大させる。又、公共投資に支出された資金も再投資に向けられないで返済に廻されれば、乗数効果は期待できない。単に負債を民間から国家に移転したに過ぎなくなる。
購買力は貨幣が生み出す力ではない。購買力を生み出すのは、人と財である。それに対して貨幣は、購買力を裏付け、発現させる。
財政政策は、その時の前提条件、即ち、景気動向や資産の動向を確認し、収入と支出両面に与える影響を考慮に入れて判断すべき事である。増税が収入の増加に繋がるとは限らないし、減税が収入の減少に繋がるとも限らない。
緊縮財政を敷いて、規制を緩和するのは、市場を最も収縮させる政策である。なぜならば、収益を悪化させる上に資金を回収側に向ける政策だからである。デフレ期のこの様な政策をとればデフレを加速させる。
金融政策は、通貨の流量を加減する。
市場が拡大している時は、通貨の流量を増大し、市場が縮小している時は、通貨の流量を減少させるように調整するのが原則である。
貨幣が不足すると物流に支障、齟齬が生じ不況となる。
金利の上昇は、企業の収益力を圧迫するが、時間価値を上昇させる。金利の低下は、企業の収益力を向上させるが、時間価値を下降させる。
金利を下げ、量的緩和策をして、規制を緩和すれば、過剰流動性が発生する。
流量を増やして栓を閉めれば破裂する。
自己資本規制は、資金を回収側に向ける政策である。なぜならば、総資産の規模に一定の枠を設定する施策だからである。この様な施策は、総資産の増大に一定の歯止めを掛けることになる。
時価会計は、その時点での景気の動向を加速させる作用がある。
デフレーション下の時価会計は、デフレーションを加速する。
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