財政について
商売が成り立たなくなったり、腕のいい職人が生活できなくなることが問題なのである。それは、文化を否定する事でもあり、生活を否定する事でもある。
その地に住む人々の生活の息吹の様なものが感じられない無機質な街を望むというのか。人は物ではない。
極端な話し、世界中の料理屋の食事の味が均一となり、総て工場で生産されている状態を理想的というのであろうか。
私の知り合いが、バブルと言われる時代に縁があって地方の中堅都市に家を買い。彼は、秋に盛大な祭りが催されるので祭り見物に、毎年行くのが、恒例になっている。今年、行っておどろいたと彼は、言っていた。
彼が、何におどろいたかと言うと、この一年で街の様相がすっかり様変わりしている。
運転してきた車のガソリンがなくなったのでガソリンスタンド給油しようと思ったら去年まで開いていたガソリンスタンドの多くが店じまいしいた。以前、長いこと住んでいて土地勘があるはずだったのに、どこで給油したらいいか解らない状態になっていたと嘆いていた。
夜になって近くスーパーに食料を買いに行ったら、去年まで開いていたスーパーが、閉店していて歩いて二十五分もかかる隣のスーパーまで行かなければならなくなった。そのスーパーも店の中が暗いので不審に思った
スーパーの敷地の中で百円ショップが広い部分を占めているが、その百円ショップが近々撤退する事になっているとの由、このスーパーもいつ閉店に追い込まれるか解らない。
それ以前に、八百屋や魚屋は成り立たなくなり、商店街は、シャター街と化している。
商店街だけでなく、うち続く円高攻勢によって町工場街も衰退し、先日も浜松の部品街がシャター街になっていることがテレビで報道されて話題になっていた。
買い物難民と言われるが、自分の身に降り掛かってきてはじめて実感したとこぼしていた。車の運転ができない年寄りには住み難い街に変質してきている。
かといってバブル期に買った高額の資産を売却することもままならない。家の価格は、バブル期からみると十分の一になっていて売ったとしてもローンの支払いが残るだけである。
小売業や個人事業主が成り立たない市場が本当に効率的な市場といえるのであろうか。
商店主や個人事業者は、贅沢な生活や派手な生活を望んでいるわけではない。堅実で、地道な生活を望んでいるだけである。そう言った人々のささやかな幸せを奪い取ってでも生産性や効率性を追求すべきなのか。また、商店主や個人事業主を賃金労働者に追いやるべきなのか。先ず、人間の幸せとは何かを再認識する必要がある。
小売業は為替の変動に対して、本来、中立的であるべきなのである。為替が変動するたびに安売り業者が跋扈し、利益率を圧迫するようでは小売業は成り立たなくなる。
独占を許すか、協定するか。それは、独裁か、連立かの問題である。自由を重んじるのならば、規律を無視することはできない。乱れれば、独裁の道を拓くだけなのである。
流通業は、流通の効率化を計るべきなのである。流通の効率には、物流の効率化だけでなく、所得の効率的配分と雇用の促進が含まれている。
その意味で、無原則な競争は、流通の効率を阻害する。
又、市場の形態や市場を構成する取引の形式、形態、規則、手段も違う。市場を一様に捉えるのは間違いである。市場は、地域性や歴史性を色濃く反映する。市場の仕組みは、地域住民の思想や社会の風俗、文化、宗教、価値観を基盤としている。経済とは、文化活動の一種なのである。経済の仕組みを変えることは、文化を変える事なのである。
資金調達、即ち、収入という局面からみると負債と資本と収益が問題となる。負債と資本は、長期的周期の資金の流れを規制し、収入は短期的資金の流れを規制する。負債と資本は、資産と連動し、或いは費用に還元される。収入は、負債や資本に連動し、費用に還元される。
収益の分配という局面からは、労働分配率と装備率、利益率が問題となる。
生産の効率は、製造業で図られるべきであり、分配の効率は、流通業、消費の効率は、家計とサービス業の分野で図られるべきなのである。効率の基準を一様に考えるべきではない。
現代経済は、変化を前提としている。変化とは動きである。動きによって個の位置を絶えず調整することによって現代経済は、成立している。変化がなくなれば、社会全体が硬直化し、環境や状況の変化に対応できなくなる。そして、現代の市場経済は、市場の拡大、成長、発展、上昇を前提としている。なぜならば、費用が下方硬直的だからである。
現代の日本はゼロ金利時代が長く続いている。ゼロ金利時代が長く続くと、時間価値が作用しなくなる。金利はゼロでも、生活にかかる経費は、上昇する。人件費も上昇する。それは、家計や企業利益を圧迫し、景気の頭を抑える。財政赤字における一番の問題は、国債の残高が蓄積されは、金利を硬直的にすることにある。
経済は拡大均衡と縮小均衡を繰り返す。拡大均衡だけを前提とすれば財政が破綻するのは必然的な帰結である。
拡大均衡と縮小均衡は、一定の波動となる。波動には、短期の周期の波動と中期、長期の波動がある。
経済変動、即ち、インフレーションやデフレーションは、時間価値の変動によって引き起こされる。時間価値を構成する要素は、金利、所得、物価、地価等がある。時間価値の働き、長期、短期によって差がある。また、社会全体に一様に働く作用と社会を構成する要素に個別に働く作用がある。
例えば金利は、社会全般に一様にかかる。それに対して、所得は、個人所得に及ぼす影響以外に、雇用等及ぼす影響がある。また、物価は、財によって時間価値の変動に差が生じる。
時間価値がどの様な作用を社会や個々の要素に及ぼすかを考慮して経済政策は立てられる必要がある。
財政を考える上でも、貸借が均衡することを前提としなければならない。借金、即ち、負債や費用のことを考えると悲観的になりやすく、逆に、収益や資産のことばかりを考えると有頂天になりやすい。
しかし、実際は、貸借は、均衡しているのである。問題は比率である。負債と資本、資産と負債、資産と資本、収益と費用、費用と負債、利益と負債、資産と費用、収益と資産の比率が重要になるのである。そして、これらの比率に対して、長期、短期の資金の働きがどう関わるかが重要になる。
故に、財政や経済政策は、これらの比率が経済にどの様な意味を持つのか正しく知った上に、どの部分にどれくらいの量をどの様に流すかの問題だといえるのである。
資産は、流動資産と固定資産に区分される。流動資産は、貨幣性資産と非貨幣性資産に区分される。貨幣性資産は、現金と金融資産に区分される。固定資産は、担保性資産と費用性資産からなる。
費用は、固定費と変動費に区分される。固定費を大部分を占めるのは、人件費と償却費である。人件費は、所得となって消費の源となる。償却費は、長期借入金返済の原資となる。
負債は、期間損益の基準に従って長期と短期に区分される。又、負債は、元本と金利からなる。
収益は、費用と利益に区分される。そして、単価×数量、或いは、利益率×回転率と数式化に表すことができる。
資本は、出資金と利益とから成る。又、準備金と株主持ちに区分される。
キャッシュフローは、運転資金と投資資金に区分される。運転資金は、短期の資金の流れを、投資資金は、長期の資金の流れを形成する。短期、長期の資金の流れが経済の変動の周期の素となる。
投資には、人的投資、設備投資、在庫投資がある。
現代の産業は、期間損益を基礎としている。期間損益では、貸借は、均衡する。貸借の均衡は、資金の長期的働きと短期的働きとを区分することによって成立している。長期的働きは、ストックの部分を形成し、短期的働きは、フローの部分を形成する。重要なことは、ストックとフローの均衡であり。ストックとフローは資金の流量と回転を制御していると言う事である。
負債の規模の適正度は、収益力によって測られる。
現代の市場経済は、成長を前提として組み込まれた経済である。それは、時間価値の働きを前提としているからである。
時間的価値を決めるのは、比率と回転である。現代経済で重要な意味を持つ概念にレッパレッジがある。レバレッジの根本も比率と回転である。
資金のフロー、即ち、回転が悪くなると正のストック、即ち、資産価値の時価が減少し、負のストック、即ち、負債の残高の水準が上昇する。その為に、ストックの均衡が破れ、資金の回収圧力が強まることになる。
大切なのは、均衡である。回転率が低下した時、ストックの水準を抑制しようと思ったら、利益率を上げる施策を採る必要がある。
期間損益から経済に与える影響を読みとるためには、資金の流れ、キャッシュフローに置き換える必要がある。経済の変動は、収入と支出の時間的ズレに起因すると言われているからである。
初期投資が収益に転化するためには一定の時間がかかる。その間の費用対効果を算定するために期間利益が考案された。期間損益によって初期投資は、一定の期間、収益の中から回収される。
初期投資は、固定資産と長期負債、そして、資本の一部を形成する。固定資産の中の費用性資産を分割し、一定の期間で長期負債の元本は返済される。担保性資産は、収益と収入との空白期間の資金調達を裏付けするための働きをする。
また、収益の中から、費用が支払われる。費用の中の人件費は、所得に転化され、個人消費の源となる。
長期資金の働きは蓄積される。蓄積されることによって市場に流通する通貨の総量の水準を維持する。
収入を構成する要素は、負債と資本と収益だと言う事である。そして、負債とは、長期的資金の流れ、資本は、恒久的資金の流れ、収益は、短期的資金の流れを意味する。
収入には、一定の形がある。形は時間によって決まる。即ち、不定期の周期による収入と定期的収入の二つがある。定期的な収入には、日単位、週単位、月単位、半年単位、年単位、複数年単位の周期がある。更に細かく言うと一日の動きにも午前、午後による周期がある。又、一生を単位とする収入もある。
例えば、月給取りの収入は、月に一回と年に二回、月単位と半期単位の二つによって構成される。この様な収入の形は、結果的に、支出の形を規制する。
収入は、月に一度、年にすると十二回支給される。さらに、年に一度、一生に一度という収入もあり、これらの収入に基づいて生活設計、人生設計がされる。
収入は、生活費、借金の返済、地代家賃、預金などに分配される。この様な支出が経済の動向を決めている。
長期的支出には、結婚資金、家の建設資金、出産育児資金、教育資金、老後の資金などがある。
収支の形によって収益の形が決まり、又、借入の技術が発達し、消費が形作られ、費用が構成され、資産が形成される。又、収支は、現金の流れによって成立する。
資金の長期的働き、短期的働きに差がある以上、長期的、短期的資金の働きを考慮して計画的な経済運営が求められる。
計画にも二種類ある。一つは、統制的計画であり、もう一つは、構造的計画である。前者が結果を重視するのに対して、後者は状況や環境に対する適合、効率を重視する。統制的計画は、前決めで確定的、硬直的な計画なのに対して、構造計画は、人と物、金、時間を効率的に組み立てることを目的としている。統制的計画は、予め結果を設定するが、構造的計画は、予測に基づいて要素、要因を組み立てる。
一般に、計画経済や国家予算は、前者を言う。それに対して、プロジェクトの様な計画は後者を言う。
これからは、期間損益、収支予測に基づく構造的計画が経済政策の根幹に位置すべきなのである。
財政問題では、国債の資本化も視野に入れる必要がある。
民間企業と政府との決定的違いは、権力の有無である。
財政は、民間の基準である期間損益に基づいておらず、現金主義に基づいている。その為に、会計と財政との整合性は取られていない。会計上の規律が財政上に於いて守られないのは、財政が会計制度に従っていないからである。民間に於いて不正と見なされる行為も財政に於いては不正とは見なされない。民間企業が破産すれば、責任を問われるのに対して、財政や公益事業に於いて破綻しても責任を問われることはない。それは、公益事業は、営利を目的としていないと言う理由である。しかし、これは欺瞞である。公益事業でも働く者は事業によって報酬を得ているのである。
自分の理論は、誰かに認められるなどという事は期待できない。誰からも受け容れられずに闇に葬り去られる覚悟もしなければならない。
何も見えない闇の中を彷徨い。誰からも顧みられ事もない。
それでもなぜと問われれば、信仰としか言いようがない。祈りのようなものかもしれない。
神の栄光のために・・・。
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