投資と効果
投資と効果を分析する手法には、第一に、収益面から分析する手法がある。収益とは、単位期間内の費用対効果に基づいて分析する手法である。第二に、費用面から分析する手法。第三に、負債と回収から分析する手法。第四に、資産価値、キャピタルゲインから分析する手法。第五に、資本、即ち、利益から分析する手法。第六に、資金収支から分析する手法がある。
投資と効果は、いずれにしても時間価値に関わっている。
その好例が現在価値法による投資効果の測定である。
収益面からの分析は、単位期間内における費用対効果の測定による。
又、費用面から分析は、投資に要した費用とそれに対する効果から投資の是非を解析するのである。
負債面からの分析とは、金利プラス資金の回収を基礎としている。
資本は、配当の計算方法を基礎としている。
資産は、投資した資産の現在価値と将来価値の差に着目している。
資金収支は、最終的な現金収支に還元することで投資の効果を測定しているのである。
これらは、投資家が、時間価値が何によって形成されるかを考えているかを知るための良い参考資料となる。
現在、用いられている手法には、どの様な手法があるかというと、例えば、キャッシュフローによる分析、限界利益に基づく手法、或いは、回収期間法、会計的投資利益率法、現在価値法などがあり、現在価値法には正味現在価値法、内部利益率法の二つがある。
ただ、現在の投資対効果の測定方法は、個々の事業体、経営主体を基本としたものであって社会全体にとっての投資対効果を測定する目的ではない。
投資の経済効果を測定する手段はないことはない。しかし、その結果に基づいて投資をしたからと言って所定の効果が得られるとは限らない。むしろ、公共投資に対する経済効果の測定が、為にすることを目的としているのは歴然としている。あからさまだ。投資が社会全体に対する経済的効用を土台としているものはでない。
投資の経済的効果を測る上で鍵を握るのは、資金が流れる方向と量をどの様に測定するかなのである。
資金の流れる方向や量を測定するという観点からすると現行の会計制度だけでは不備である。特に、公共事業には、期間損益という発想すらないのであるから、測定以前の問題である。
期間損益において投資効果を測るのに鍵を握っているのは減価償却費である。減価償却と言っても実際に資産の価値が減価しているわけではない。減価するのは、あくまでも会計上の話である。減価する部分が費用計上されるからと言って現金支出があるわけではない。反対に、借入金の元本の返済金が計上されるわけでもない。つまり資金の流れとも一致していない。
会計的現実と物的現実、資金的現実は、一致しておらず、乖離している。この事を熟知していないと経済現象や経営実体について惑わされ、結局、帳尻合わせに終わってしまうことになる。
会計というのは数学の一種なのである。
法人税率の上昇は、負債の水準の上昇を招く。なぜならば、借入金元本の返済は、税引き後利益と減価償却の中から支払われるからである。税率が上がれば借入金の元本の返済原資が圧迫されるのである。
自己資本率が高ければ、経営主体にとって有利かと言えば、必ずしも有利とは限らない。なぜならば、結局、利益配分によって利益が分配されてしまうからである。経営主体内部に蓄積される資金は、基本的に認められていないのである。
問題は資金が流れていく先である。公的分野に流れていくのか、家計の方向に流れていくのか、投資の方向に流れていくのか。流れていく先と量によって働きが決まるのである。
資金の流れには、循環的資金の流れと固定的資金の流れがある。
循環的資金の流れは、運転資金を指し、短期的資金の流れを形成する。それに対して、固定的資金の流れは、投資資金を意味し、長期的資金の流れを形成する。
循環的資金の流れと固定的資金の流れは、家計にも、企業にも、財政にもある。そして、各々が資金の流れを形成する。
資本主義は、固定的資金の流れが確立されたことで成立した。固定的資金の流れが確立されることで、期間損益主義が成立したのである。
資金の働きは、資金の流れる経路によって決まる。故に、資金の働きを知るためには、資金の流れる経路を明らかにする必要がある。
景気を悪化させる原因には、循環的資金を原因とした場合と固定的資金を原因とした場合が想定される。景気の悪化は、一過性である場合が多いが、それが長期にわたることになると経済の基盤構造を破壊してしまう事がある。
景気の悪化を長引かせる要因の一つに、固定的資金を原因とする事象が考えられる。それは、景気の悪化に伴って固定的資金を回収しようと言う動きである。
総資本は、貨幣の供給量を意味し、費用は、貨幣の流量を形成する。つまり、総資本とは、固定的資金の量を表し、費用は、循環的資金の量を表す、故に、社会全体化に見ると総資本の総量は、市場に供給されている資金の総量を意味し、費用の総量は、市場の流通している貨幣の流通量を表している。
固定的資金は、投資によって生じる。
では、投資とは何か。
投資とは、現在の価値よりもより高い経済的価値や効用を将来獲得するために、資源を提供、或いは、投入することである。
投資には、設備投資、資本投資、住宅投資、人材投資、研究開発投資、不動産投資、在庫投資などがある。
金融機関に対する資金の調達は、主として預金の側からと貸付金の側から為される。預金の側は、預金の獲得として負債の増加を意味する。
金融機関にとって外部に対する資金の供給の主たる手段は、貸付金の増加させるか、預金を払い戻すかにある。
貸付金の側はからは貸付金の返済として資産の減少をもたらす。つまり、預金の増加は固定的資金の増加を貸付金の減少は、固定的資金の減少を意味する。
金融機関に置いて、貨幣の流量を表で主導するのは、預金であり、裏で支えているのが、負債である。
故に、借金の元本を返済されれば貨幣の供給量は圧縮され、預金に廻されれば、供給量は拡大する。
ある企業が銀行から一億円を借りて設備投資を実行した場合、借り入れた一億円は、設備を購入した相手の銀行の当座預金に振り込まれる。設備を売った相手は、設備を製造するためにかかった費用の支払を支払先の銀行口座に振り込む。この様な過程を経て資金は循環するが、資金の多くは、金融システムの中で処理され、現金として金融システムの外部に流出する資金は、循環している資金の総量に比べると相対的に少ない。
市場環境によって収益が悪化したからと言って長期的資金の回収を一斉に計れば、健全な収益力を持つ企業まで破綻させてしまう。収益を悪化させている原因が何か、一過性の要因なのか、それとも、恒久的な問題なのか、また、外的要因なのか、内部構造の問題なのか、それを明らかにしない限り、効果的な対策は立てられない。
ところが、現在の金融機関の経営者や為政者は、競争力を収益力と取り違えている。そして、収益が悪化すると固定的資金、即ち、長期資金の回収を計る。その為に、市場に対する固定的資金の供給が滞ることになるのである。
結局、日本の金融機関の投資評価は、資産価値、担保価値につきてしまう。事業収益にに依らず、残存価値、回収価値に価値を見出すのである。しかし、残存価値は、幻影に過ぎない。
また、担保価値も残存価値も清算価値であることを忘れてはならない。
民間企業において通常の営業活動による資金の供給は、収益によって為される。故に、景気に与える企業業績の是非は収益力によって左右される。
そして、収益を何に還元するかによって資金の流れは決まる。即ち、費用に向ければ分配が促進され、資産に向けられれば投資が増える。負債に向けられれば、回収の方向に資金は流れる。資本の側に流れれば、配当が増える。
ただ、投資に対する資金の流れは、負債と資本に依る手段によっても為される。
景気を悪化させる最大の原因は収益力にある。収益力で一番重要なのは、費用対効果の問題である。
収益を悪化させる原因には、競争力と費用の問題がある。単純に人件費を比較した場合、10対2くらいの賃金格差があったら、とても競争にはならない。しかも、労働環境は内政問題である。必然的に賃金が低い地域に生産拠点、労働拠点が移転することになる。賃金格差は、労働条件や雇用環境に直結している。極端に格差があるという事は、劣悪な労働環境に置かれているという事が充分に予測される。
つまり、劣悪な労働環境に置かれている生産拠点の方が競争力がある事を意味している。その結果、悪貨は良貨を駆逐するというように、生産拠点は、良好な雇用環境の拠点が排除され、劣悪な労働環境にある方が生き残ることになるのである。それが貧困の輸出という現象である。
単純に競争力だけを目的にして規制を緩和することは、労働条件の悪化を容認することにも繋がるのである。
自由経済の仕組みの目的は、労働と生産財とを貨幣を媒体として結び付けて適正な配分を実現する事にあるのである。
ただ安ければ良いというのは、安易で、短絡的な発想に過ぎず。行きすぎると経済体制の根幹を破壊してしまうことにもなりかねない。無法な安売り業者を意味もなく英雄扱いしたり、泥沼のような安売り合戦を推奨することは、戒めるべき事である。
設備には、ライフサイクルがある。商品にもライフサイクルがある。人にもライフサイクルが。つまり、寿命があるのである。
物や人のライフサイクルは、資金の流れに対して決定的な影響を及ぼしているのである。
ライフサイクルはその時々の投資を生み出す。喩えは、設備投資、住宅投資、在庫投資、教育投資等である。だから、資金の流れに対して決定的な影響を及ぼすのである。
故に、物や人のライフサイクルを熟知しないと景気の先は読めないのである。
公共投資における投資対効果の測定ほど当てにならないものはない。元々、公共投資には、利益という概念が欠落しているのである。利益という概念が欠けていて投資対効果を測定するのであるから、為にする効果しか期待できない。
為にするというのは、公的な意味での経済的効果ではなく。政治的効果や利権、既得権と言った私的な経済的効果でしかない。これは、本来の意味や目的から逸脱した行為である。
公共事業というのは、国家経済の基盤を構築する事業である。故に、公共事業の根底には国家構想がなければ有効に機能しない。私的な分野に資金を流し続けることは、公共の富を私的な富に転移しているに過ぎないのである。
自由経済の仕組みは、労働に応じて資源を配分する事が目的である。
公共事業の重要な役割には、資金の環流と資源の配分がある。
故に、公共事業において重要なのは、資金の流れる量と方向である。
投資で重要なのは、資金が流れる方向と量である。闇雲に投資をしても投資した資金が、市場の側に流れていくとは限らないのである。
投資というのは、投資が発生した時点と投資が実行された以後では流れる方向が違う。
例えば、設備投資は、設備に投資する際は、設備の製造や設置業者の側に資金が流れるが設備が運転を開始したい後は、返済の方向に資金は流れる。
公共投資も事業初期の投資は、市場の側に資金を流すが、投資が実行された以後は、資金は回収の側に流れる。
故に、公共事業の経済的効果を測るためには、資金の流れる方向を見極めることが重要となるのである。
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