現金の流れ
通貨は、流れることによって効用を発揮する。この点が重要なのである。
他国に資金を供与したり、貸与することは、冨の移転を意味するわけではない。通貨を通貨が不足しているところに流すことを意味しているのである。又は、自国の通貨が流通する範囲を拡大したことを意味するのである。
供与したり貸与した先の通貨制度が違う場合は、信用を供与したに過ぎない場合もある。
問題は、通貨量の増減と供与した資金や貸与した通貨が自国に環流するかどうかなのである。
供与や貸与をしない場合、自国の通貨の流通する範囲や量を限定したり、又、通貨の働きを制約することを意味する。
その是非は、供与先や貸与先に対する自国の通貨の働きで何を期待するのか、供与する目的、貸与する目的によって決めるべきなのである。
自国の冨を転移するのではないかと言った皮相な考え方で判断すべき事ではない。
報酬が労働に見合っていなければ、豊かさを享受することは出来ない。
この事は、労働人口の在り方が、社会の生産力の機関を形成していることをも意味する。
少子高齢化は、社会全体の生産力と個々人の報酬との関係を不釣り合いなものにしてしまうかもしれない。不労所得者と勤労所得者の割合が不均衡になると所得、生産、支出の均衡が崩れてしまう。この事によって社会全体を貧しくする原因となるのである。不労所得人口を増やすことで、生産と分配の不均衡を招くのである。
また、生産性という観点ばかりを問題とするという事は、所得の費用性という事に所得を特化してしまうことを意味する。
そうなると労働に対して報酬が見合っているかどうかと言う視点を欠くことになる。
報酬が見合っているかどうかの基準は、生きいく上で必要な物資を調達できるだけの報酬が保証されているかどうかがによって定まる。報酬の基準の最低線は、生活必需品の価格の総和によって形成されるのである。
現代経済学では、報酬の費用性ばかりが問題とされ、分配や必要性という視点が抜け落ちている。報酬は、言い替えると人件費である。人件費の生産性ばかりを重視すれば、人件費を必要最小限に抑え込もうという動機が働く。結局、報酬を最低限の水準にまで収斂させてしまう。つまり、年齢とか、経験とか、生活と言った部分は一切合切削ぎ落とされてしまう。つまり、労働における人間性の否定である。それが労働の規格化である。費用という観点だけで労働を突き詰めると最終的には、機械と人間は競争することになる。
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