経済の根本は人である。


 今の経済学は、競争、競争と言うばかりで制御について何も語っていない。競争も制御の仕組み、手段の一つなのである。

 経済を構成する要素は、人、物、金である。
 人、物、金の中でも経済の仕組みの基礎は、人である。金でも、物でもない。なぜならば、経済の主体は、人を基本とした単位だからである。人というのは、労働と所得である。
 人間の社会において特に経済の仕組みでは、主体が何であるかが、重要なのである。経済主体によって金や物は、働きを発揮する事ができる。経済主体が機能しなければ、物も金も機能を発揮する事ができない。故に、経済主体が経済の仕組みの基盤となるのである。
 経済的な主体は、第一に、個人である。第二に、何らかの集団、組織である。
 集団、組織の主体は、第一に、家計主体。第二に、経営主体、第三に、財政主体、第四に、海外主体である。
 物や金の動きを見ているだけでは、経済の仕組みの本質は理解できない。
 経済の根本は、所得の有り様であり、雇用である。その上に、物の生産と消費、さらに、生産と消費を結びつける手段として「お金」の問題が生じるのである。ところが、現代の経済は、最初に「お金」ありきになっている。それが経済問題の本質を見失わせる結果を招いているのである。

 支出の全ては、最終的に、個人所得に還元される。

 経済の仕組みも会計の仕組みもフラクタルな構造を持っている。

 問題なのは、債権と債務は非対称だという点である。
 債権、すなわち、実物価値と債務、すなわち、名目的価値は、連動して変化しているわけではない。この債権と債務の非対称性が、資金の流れる方向を左右しているのである。

 債権と債務は、非対称である。
 実物価値は、経営の状態、景気の動向に左右されるのに対して、名目価値は、資金を調達した時点における約定に制約される。
 そのために、債権価値が消失しても債務残高がなくなるとは限らないし、逆に、債務が清算されても債権価値が残る事がある。

 期間損益主義は、貸借と損益から構成される。貸借は、貨幣の長期的な働きによって形成され、損益は、貨幣の短期的な働きを表している。
 見方を変えると貸借は、資金の調達と運用、すなわち、市場に対する資金の供給量を示し、損益は、資金の効用、すなわち、流通量を表しているといえる。
 市場全体における貸借の総量は、資金の供給量を表し、損益は、単位期間あたりの資金の流通量を表す。
 貸借は基礎数であり、損益は、資金の回転数を表す。回転数は、回転期間に置き換える事が可能である。
 費用は、実績を表し、収益は原資を意味する。費用と収益の関係は、費用は過去の実体を表し、収益は、将来の状態を示している。費用より、収益が大きい、すなわち、利益が計上されている時は、経済は拡大しているが、費用より収益が小さい時は、経済は縮小していると考えられる。

 つまり、貸借(総資産、総資本)の増減は、貨幣の流れる方向を表し、損益の増減は、市場の伸縮を表している。

 たとえば、旅館やホテルのような宿泊業を始めようとした際、自分の土地に、自前の資金で建物や設備を建て家族で経営をした場合と借金をして土地を購入し、建物を建て、人を雇って経営をした場合では、どのような違いが出るかを考えると解る。
 利益は、自前であろうと借金であろうと会計上は、大差がないような仕組みになっているのである。
 なぜならば、会計上は、負債と資本は総資本として同じ扱いがされているからである。自前の資金で建てようと、借金で建てようと資産価値は、同じ方程式によって償却される。つまり、費用として計上される額は同じなのである。違うのは金利の部分である。ただし、自前の資金といっても配当はしなければならない。
 また、利益に差が生じ一方が過剰な利益を上げたとしても税金によって調整されてしまう。
 問題は、資金繰り上の問題である。
 なにが違うのかというと借入金は、返済義務を負っているという点であり、収益が悪化した際、回収圧力がかかるという点にある。しかし、回収圧力がかかるにしても約定があるという事を忘れてはならない。収益が悪化したからといってすぐに元金を返済しなければならないというわけではない。
 気をつけなければならないのは、借金と自前の資金といっても資金調達という点おいてには変わりはないという事である。違いは、借入金の元本は、返済が義務づけられているという点にある。
 現金主義ならば、元本の返済分だけ収支に影響が出る。ところが、複式簿記ではこの長期借入金の元本の返済が計上されていない。会計制度は、借入金によるか、自前の資金であるかの差を基本的には、緩和し、あるいはなくしているのである。
 これが資本主義という思想なのである。
 そして、借入金の元本の返済をどう処理するかが、鍵を握っているのである。なぜならば、借入金の元本の返済の原資は、償却費と税引き後利益にあるからである。この部分が確保されないと負債は、膨れあがっていく。これは、企業会計でも、財政でも、家計でも同じである。ただ、財政や家計は、現金主義であるから、より硬直的だという事である。

 経済を裏で支えているのは、負債と費用である。そして、負債を調節する働きをするのは、損益である。償却費と利益が上がれば、負債は圧縮され、償却費と利益が確保されなければ、負債は増加する。
 そして、負債と費用の関係を調節しているのが収益なのである。つまり、期間損益において基本は、収益にある。

 収入には、波がある。支出にも波がある。
 収入は、景気の動向やはやり廃りといった不確定な要素に影響されるのに、支出は、約定や契約と行った確定的な要素によって定まっている場合が多い。
 収入がないからといって支出は待ってくれない場合が多い。そして、景気の動向を実際的に決めるのは、資金の流れなのである。
 その収支の波を緩和し、資金の流れを調節する目的で期間損益は、成立したのである。金融機関の役割もこの期間損益主義の目的に基づいている。
 ところがこの目的が昨今見失われている。

 長期借入金の返済額は、収入に関連して決められるのではない。借入をする際の約定よって決められている。また、資産の償却費も収入によって決められるのではない。故に、余剰の収入があったからといって借入金の返済を増やしても利益に直接関係するのではなく、資金繰りにのみ影響を与える事になる。

 貸し借りは、社会全体では、ゼロサムとなる。需要なのは、赤字にするか、黒字にするかではなく。どの経済主体を赤字にし、どの経済主体を黒字にして、社会全体の均衡を保つかにある。そのためには、いかにして累積債務を解消するかが、課題なのである。

 収益や資産は良くて、負債や費用は悪いと短絡的に片付けたら、経済全体の均衡は保てなくなる。重要なのは、収益、資産、負債、費用の働きである。
 貸しは、借り。借りは貸し。収益は、費用。費用は収益。資産は負債。負債は資産なのである。取引の過程で生じる時間差が、利益や資本の本なのである。

 資金の流れを決めるのは、資産の水準と負債の水準の見合いである。資金の流れる方向を加減するためには、資産価値の水準と累積債務をどのようにして調整するのかにかかっている。累積債務は利益によって調節される。利益が上がれば、累積債務は減少し、利益が上がらなければ、累積債務は上昇する。利益は、費用の拡大と収益との見合いで決まる。
 債務と費用は、必要だから存在するのである。債務と費用を無駄だと決めつけてひたすらに削減する事ばかりを考えたら、お金が回らなくなるのである。
 資金循環で重要なのは、流量と回転数、方向である。

 景気が悪化して、個々の企業の収益力が落ちた時に、収益の悪化を理由にして金融機関が金融機関から見ての長期貸付金、借り手側から見れば長期借入金を回収しようとすると最悪の事態を引き起こす。
 まず収益力の向上を計り、その上で、資産水準をどの程度に落ち着かせるかを考えるべきなのである。

 本来は、全ては皆違うという事を前提としている。ところが、数というのは、その違いを削ぎ落とす事によって成り立っている。個々の要素が持つ、違いを削ぎ落とすと数だけが残る。数値とはそういう物なのである。そして、数は、認識上の必要性から成立した。その数を素として貨幣は成り立っている。この点を忘れてはならない。

 産業や個人を同じ物として一律に規制するのは、重大な過ちである。この世にある物は、基本的に違うのである。違う物から共通の要素を抽出し、それを象徴させる事によって言葉や文字、数というのは成り立っている。ただ、根本は違うのである。同じ人間はいない。同じ人間はいない事を前提にして、人間とは何かを識別しているのである。

 規制というのは、一律にかけるものではない。規制を緩和して、競争を促した方がいい、産業もあれば、競争を抑制すべき産業もある。
 何でもかんでも、競争をさせればいいというわけではない。
 成熟した産業や償却資産が大きい産業を、無理矢理、競争させれば、雇用が喪失され、尚且つ、市場の寡占、独占が促進されてしまう。
 だいたい過激にな競争主義者の意見を聞いていると、規制緩和というが、実際は、規制は悪だとしているようにすら聞こえる。
 期間損益主義は、貸借と損益から構成される。貸借は、貨幣の長期的な働きによって形成され、損益は、貨幣の短期的な働きを表している。
 見方を変えると貸借は、資金の調達と運用、すなわち、市場に対する資金の供給量を示し、損益は、資金の効用、すなわち、流通量を表しているといえる。
 市場全体における貸借の総量は、資金の供給量を表し、損益は、単位期間あたりの資金の流通量を表す。
 貸借は基礎数であり、損益は、資金の回転数を表す。回転数は、回転期間に置き換える事が可能である。
 費用は、実績を表し、収益は原資を意味する。費用と収益の関係は、費用は過去の実体を表し、収益は、将来の状態を示している。費用より、収益が大きい、すなわち、利益が計上されている時は、経済は拡大しているが、費用より収益が小さい時は、経済は縮小していると考えられる。

 つまり、貸借(総資産、総資本)の増減は、貨幣の流れる方向を表し、損益の増減は、市場の伸縮を表している。

 貸し借りは、社会全体では、ゼロサムとなる。需要なのは、赤字にするか、黒字にするかではなく。どの経済主体を赤字にし、どの経済主体を黒字にして、社会全体の均衡を保つかにある。そのためには、いかにして累積債務を解消するかが、課題なのである。

 収益や資産は良くて、負債や費用は悪いと短絡的に片付けたら、経済全体の均衡は保てなくなる。重要なのは、収益、資産、負債、費用の働きである。
 貸しは、借り。借りは貸し。収益は、費用。費用は収益。資産は負債。負債は資産なのである。取引の過程で生じる時間差が、利益や資本の本なのである。

 資金の流れを決めるのは、資産の水準と負債の水準の見合いである。資金の流れる方向を加減するためには、資産価値の水準と累積債務をどのようにして調整するのかにかかっている。累積債務は利益によって調節される。利益が上がれば、累積債務は減少し、利益が上がらなければ、累積債務は上昇する。利益は、費用の拡大と収益との見合いで決まる。
 債務と費用は、必要だから存在するのである。債務と費用を無駄だと決めつけてひたすらに削減する事ばかりを考えたら、お金が回らなくなるのである。
 資金循環で重要なのは、流量と回転数、方向である。

 景気が悪化して、個々の企業の収益力が落ちた時に、収益の悪化を理由にして金融機関が金融機関から見ての長期貸付金、借り手側から見れば長期借入金を回収しようとすると最悪の事態を引き起こす。
 まず収益力の向上を計り、その上で、資産水準をどの程度に落ち着かせるかを考えるべきなのである。

 規制を整備することと保護主義は違う。規制を整備するというのは、関税障壁を設けたり、罰則を設けることではない。仕組みを整えることを意味しているのである。労働条件を悪くしたりや低賃金で競争力を維持するのは、邪道である。
 規制を整備するのは、不公正な競争をなくすことを意味しているのである。
 スポーツのルールが、特定の選手に利するようなものであってはならないのと同じである。特定の国や人種を差別するようなルールは認められないのと同じ事である。
 ただ、男と女が同じ条件で競うことは公平といえるであろうか。何に差をつけ、何を同等に扱うか、それが問題なのである。



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