神と経済2

人は、パンの為に生きているわけではない。お金は人間が創り出した物であって、神が与えた物ではない。お金は生きる為に必要ではあるが、お金の為に生きているわけではない。その事を忘れたら、人間はお金の奴隷になってしまう。

経済の話というのは、お金儲けの話ではない。経済というのは生きる為の活動である。生きる物全てに経済はある。人の経済は人の数ほどある。
お金が正常に機能しなくなったら、お金の仕組みを捨てればいいのである。経済は生きる為の活動である。だからお金が儲からない仕事もある。経済には、環境と資源の保護、防災、治安、国防、教育、研究といった本来的に金儲けとは無縁な仕事もある。金儲けにはならないけれど、生きる為には不可欠な仕事はいくらでもある。金が儲からないからと言って卑しい仕事というわけではない。俗にお金が儲からないけれどやらなければならない仕事を金食い虫と言って蔑む人がいる。お金が儲からなくても社会にとって不可欠な仕事に就いている人達は、崇高な精神に基づいている場合が多い。金持ちが、お金儲けにならない仕事に従事する人々をお金も儲からないのに、馬鹿な連中と蔑む資格はない。

神は、常に人に問うているのである。何を求めているのかを・・・。
人は争いを求めているのか。平和を求めているのか。平和を求めているのならば、争いを避ける為に全力を尽くすべきなのである。
もし仮にこの世から争いが絶えないとしたら、それは神の意志ではない。争いを求めているのは人である。

現代経済学の間違いは、経済の根本を人間の利己心においている事である。経済にとって最も重要なのは理性である。利己心に経済を委ねてしまえば、経済は制御不能な状態に陥る。なぜならば、経済を動かす原動力は、人間の欲望だからである。欲望を人間の利己心の支配下に置けば、結果は火を見るより明らかである。
人間の欲は、経済の原動力になる。しかし、それを抑える事を知らなければ暴走する。経済は、理性によってのみ制御できる。理性を根本にできない経済は、それ自体危ういのである。欲望が昂じると理性を保てなくなる。理性を保てるような仕組みがあって欲望を活用する事が出来るのである。

現代の経済学は、人に対する洞察力が欠けている。だから金が全てとなってしまうのである。
金は、人間が作り出した物なのである。人は自分の影に怯えているのである。

経済は、現象論的に捉えて対処療法ばかりを講じても根治する事はできない。現象の背後に潜む仕組みを明らかにしないかぎり根本的な解決はできない。

仕組みは、仕組みの機構と仕組みを動かすエネルギーと仕組みを操作する人によって働きを発揮する。
仕組みの機構は、物理的な機構と観念的機構の二種類がある。
物理的機構を動かす力は、石油、電気、ガスなどによってもたらされる。それに対して観念的機構を動かす力は、お金や情報によってもたらされる。

通貨が市場に出回らないのは、蛇口を閉めておいて水が出ないと怒っているようなものである。その一方で蛇口を開けたら、あっけぱなしで閉めら方が解らなくなって垂れ流し続けるのは無責任の極みである。これでは、水量、通貨量を調節することはできなくなるのも無理ない事である。

会計の目的は、利益にあるわけではない。経営活動を経営目的に沿って監視(モニター)する為にある。利益を会計や経営の目的とすると経済本来の目的を見失う事になる。

利益を目的とするから理性を働かす事ができなくなる。利益さえ上げれば、善良な経営者と見なされるからである。
経営の目的は利益ではなく。企業の社会に対する経済的働き出にある。だからこそ、場合によっては損失を出しても許容されるのである。
利益は、経営指標の一つである。利益は、経営目的にも、経済の目的にもならない。
会計の目的は、利益にあるわけではない。経営活動を経営目的に沿って監視(モニター)する為にある。利益を会計や経営の目的とすると経済本来の目的を見失う事になる。

所得とは何か。第一に、所得とは収入である。収入とは、生活を営む為の費用を賄う原資である。
第二に、所得は、支出の範囲を特定する。基本的に、支出は、収入の範囲内で行われる。収入の主たる部分を占めているのは、所得である。所得は、固定的一定的な部分と、変動的、不確定な部分からなる。固定的、確定的な部分が占める部分が大きくければ大きいほど、生活は安定し、計画的になる。反面、働きに対する評価が硬直的となる。
第三に、所得は、報酬である。何らかの対価である。つまり、所得は何らかの働きに対する見返りである。何らかの働きの代表的なものが労働と資本である。いずれも生産手段である。
第四に、所得は貨幣によって支払われる。貨幣は、市場で資源を調達する権利である。調達する権利とは、欲する財と交換する権利を言う。
第五に、所得は、分配の原資であり、相対的なものである。所得は、個々の経済主体と全体とを結びつける手段である。
所得の重要な働きの一つが個人と経済社会全体とを関連づけることにある。財政はこの働きが稀薄である為に、部分を構成する経済主体と経済全体との関係が社会の構成員全員に浸透しにくいのである。

なぜ、所得に差が生じるのか。それは第一に、人が置かれている状況が違うからである。寒冷地で生活する人と熱帯で生活する人では、必要とする物が違うのである。必然的に物価をも違ってくる。第二に、人は皆、価値観が違うのである。価値観の差は、その人の嗜好の差にもなる。第三に、立場の違いである。大体、労働年齢というのは限られている。第四に、個体差がある。人は、一人一人、能力や体型に違いがある。一律に同一の服を着せるわけには行かない。第五に、家族構成が違うと言う事である。第六に、所有資産の差である。第七に、人は人だと言う事である。人間は、ただ生きているわけではなく。生きる意義、自己実現を求めている。それは働きに反映し、働きは報償に反映される事によって人は自分を位置づける事が可能となる。
労働に価値が見いだせないような経済は、堕落している。

数値の動きは、キャッシュフローに良く現れる。キャッシュフローを抜きに経済政策は語られるべきではない。全産業、産業毎、規模別、金融機関のキャッシュフローを見ると数値がいかに正直かがよくわかる。
日本経済が現在置かれている状況は、ニクソンショックが根本にあると考えられる。ニクソンショックによって世界経済は、新たな段階に入り、そして、リーマンショックは、ニクソンショックによって構築された新たな秩序が根本から覆されたと言える。

ゼロ和という概念が、現代経済を考える上で重要な鍵を握っている。但し、ゼロ和と言っても何に対してゼロ和となるのかが解らないと、ゼロ和の働きを理解する事はできない。

経済は、生きる為の活動であり、利益を上げる事ではない。利益は金銭取引の指標である。金銭取引は、生産財を分配する為の手段、仕組みである。生きる事は経済の目的となっても、利益を上げる事その事を目的化することは間違いである。
故に、生活を金銭取引の逢わせて変えるのではなく、金銭取引のあり方仕組みを生き方に合わせるべきなのである。この原則を違えると、本末を転倒する事になる。
金銭取引は、売買取引と貸借取引から成る。生産財の分配の手段の実際は、売買取引にある。貸借取引は、売買取引に使用する貨幣の過不足を補うことを目的とした取引である。資金は、資金の過不足の差を補うように循環する。資金は、循環する必要があるのである。故に、売買の差と貸借の差は、常に均衡している。これが期間損益の前提となる。
売買は分配を実現し、貸借は、売買を準備する。
売買取引が成立する前提は、売買に必要な資金が、売買取引によって生きる為に必要な資源を手に入れようとする人達に、行き渡っていることである。その為に貸借取引がある。貸借取引は、資金の過不足を補う事を根本的目的としている。

売買取引の働きと貸借取引の働きを区分し、経済全般の働きを明らかにしようというのが期間損益の考え方である。

経済を動かす運動のキーワードは周期、振動、回転の三つと時間である。
重要な事は、現在の経済はお金が循環することで成り立っているという事である。
一方向のお金の動きでは、お金は循環しなくなり経済は停滞し偏る。

経済は、不可逆な現象であり、絶え間なくエントロピーが増大していて、市場は均衡へと向かおうとする力が働いている。

お金を循環させているのは、お金の過不足である。お金を過剰に持つ主体とお金が不足する主体があってお金は循環する。過不足の総和はゼロとなるように設定されている。

お金が不足する主体があれば、お金が余っている主体が存在する。お金の過不足を調節しているのが貸し借りである。貸し借りの働きがお金を循環させるのである。問題は、貸し借りの偏りである。極端に貸し借りの関係が偏るとお金が循環しなくなる。

産業構造に決定的な影響を及ぼすのは固定費である。固定費をどの様に処理するかによって、経済現象の基盤は形成されるのである。
固定費は、貸借上においては資産を形成し、その対極として負債と資本の根拠となる。
損益上においては、減価償却費の元となり、利益を制約する。又、利益を創り出す要因ともなる。
又、生産と収益を関連づける要因ともなる。

固定費は、生産手段に関わる出費である。実際の現金収支は、貸借や資本に基づいて為される。損益上は、減価償却費のような評価勘定に密接に結びついて計上される。減価償却費の基にあるのは、固定費である。生産手段に関わる収支は、操業度によって変化する。操業率が高まり、販売数量が増加するとそれに比例して固定費は低下する性格がある。また、原価計算は、計算の仕方によって在庫との関連も含め固定費の利益に対する負担が変わる。
又、この様な固定費の性格は、成長型経済を基盤として成り立っている。
大量生産、大量販売、大量消費、高度成長が約束されていないと現在の経済体制は維持できないのである。
この事は、大量生産、大量販売型の生産構造にする動機を形成する。大量生産大量販売は、結果的に大量消費、そして、浪費型社会の形成を促す。
いずれにしても、固定費を如何に処理するかが、経済の有り様を規定しているのである。
故に、固定費が資産に占める割合や利益や費用に与える影響を明確にすることが公正な経済体制を構築する為の鍵となる。
固定費は、長期的資金の働きの核となる。固定費は、実質的資産の根幹を形成しているのである。長期的資金は、時間価値に密接に関係している。つまり、付加価値の基でもある。支出を時間的に平準化することが可能となったことが巨額の設備投資をする誘因となった。その背景には、金融技術の革新が隠されている。

人は、信仰によってでしか自らの限界を超える事はできない。
神を侮る者は、自らの限界と傲慢によって滅びるのである。



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