現金主義と期間損益主義の二重構造
現金主義と期間損益主義の二重構造によって市場経済は制御されている。
近代経済は、借金から始まっている。なぜならば、借金はお金の元だからである。
ただ、現代人には、借金に対する錯覚がある。その第一が、借金を返さなければならないという思い込みである。第二に、借金に実体があるように思う事である。
借金を何に使うのかが大切なのである。借金は、何に使うかによって実体をもつ。その実体がある限り、借金は必ずしも返す必要がない。しかし、借金を使った物に実体がなくなれば借金は働いて返さすしかない。
借金をすると金を手にする。金を手にすると金持ちになった錯覚をする。そして、気が大きくなって虚しく使ってしまう。そうすると借金は、負荷となって重くのし掛かかり、返済圧力が強まるのである。
借金は実体をもたない、虚である。そのままで負の価値にしかならない。
借金は「お金」である。「お金」は何にでも化けると言われている。しかし、そこが曲者なのである。「お金」には、実体はない。
「お金」を手にすると人は変わる。何か特別な力を手にしたような錯覚に陥るからである。
しかし、借金は特別な事ではなく。虚しい事なのである。借金を実体のない事に使えば虚しくなる。
ただ、消費だけ、使う事だけを目的としてお金を借りることは虚しく、自滅的行為である。それは強盗と同じ効果しかもたらさない。
借金を問題にする場合、借金だけを取り上げて問題とする場合が多い。しかし、借金は、借入金だけで成り立っているわけではない。お金を借りる人、お金を貸す人、お金の使い道、お金の返済計画といった複数の要素によって構成されている。借金を成り立たせている構図が重要なのである。
借金が成り立つ為には、お金がなければならない。次に貸し手と借り手の存在である。その上で返済を保証する、担保する物である。
お金を借りる為には、返済を担保する物が必要となる。担保する物がなければ金は借りられない。担保する物が成立する為には、私的所有権が確立されていなければならない。つまり、自分の物でしか担保する事はできない。返済の保証は他人がする事はできるが、その場合も保証した人が持つ物を担保する必要がある。
何らかの裏付けがなければ金は借りられない。
担保する事が可能な物は、将来の収入か、資産である。
借金は、支払い準備である。借金は、前受金でもある。本来の支払は後回しにされる。
借金はあくまでも借り物である。実体があれば返済はできるが、実体がなくなれば返済ができなくなる。
現在問題となっているのは、総所得が横ばいだと言う事である。
所得が横ばいだと過去の借金のツケが実質所得に重くのし掛かる。即ち、可処分所得を減らすのである。それは物価の上昇と同じ効果を所得にもたらす。
それ故に、所得が横ばいだと実質的可処分所得が所得に占める割合が低下する。
所得の上昇が物価の上昇を上回っている場合は、物価が上昇しても所得によって物価の上昇分を吸収することができる。お金の現在価値を低下させるから金利負担も軽減される。
資産価値が上昇している場合は、名目的価値である負債の実質的価値は下がる為、元本の返済は軽減される。又、未実現利益も派生する。
所得が上昇することで、負債の軽減を前提としていると所得が横ばいになると実質可処分所得は減少するのである。
貸し手側にとっても資産価値の上昇は逆鞘が派生しないかぎり悪い事ではない。なぜならば、貸し手側にとっても元本は、金融資産であり、裏返してみれば有利子負債だからである。
逆に資産が下降し始めると資産の担保価値が低下し、つなぎ資金の裏付けが失われ、マイナス投資が生じる。マイナス投資とは、資金の調達源を内部資金に求めることを意味し、経費の削減、主として人件費や雇用の削減、遊休資産の取り崩し、借入金の返済などを指す。
資金調達を多くの企業が内部に求めるようになると経済は、拡大均衡から縮小均衡へと向かう。
借金で怖いのは、借金に対する感覚が麻痺することである。そして、借金と実物が乖離する事にある。
借金と実物が乖離するとお金が勝手な動きをする。
借金の実体が失われれば虚しくお金が舞い上がる。
それは、国の借金も同じである。
国債は、国の借金である。
国家が他の経済主体と違うのは、国は、「お金」を生産することができると言う事である。しかし、借金の本質は、国家といえども変わりない。
借金を増やせば増やす程「お金」の価値は下がるのである。
借金をして得たお金を虚しい事に使えば借金しか残らない。その様な借金は、働いて返す以外に手はない。
借金というのは返さなければならないというのではなく。虚しい事なのである。
なぜ、借金をする必要があったのか。借金の目的を忘れたら借金は、抑制できなくなる。
財政生産や金融政策は、市場に資金が循環しないかぎり、効果を発揮することはできない。
市場に資金を循環させる為には、市場を経由して資金を供給する事が最も効果的な手段である。
公共投資は、拡大再生産に結びついているかぎり有効であるが、ただ需要を喚起する為にだけならば効果に限りがある。
経済政策の目的は、金融機関以外の企業が本来の働きを、即ち、拡大再生産を繰り返しながら、資源の配分ができるように市場環境を整える事である。それは、経済の民主化を促すことである。
市場経済というのは、適度な格差と私的所有権を前提としている。
市場経済は、極端な格差や硬直的な格差は嫌う。しかし、何もかも均等にすればいいという思想も受け付けない。
全てを均等に分配できれば平等が実現できるというのは、幻想に過ぎない。第一に、均等というのは、量的なことを言うのであり、質的な部分は含まれない。含めない。なぜなら、質というのは主観的なことだからである。そして、主観的だからこそ平等を実現する為に決定的な働きをしている。平等とは認識であり、認識は主体的な事だからである。
EUは、横断的投資センターと横断的国際プロジェクト機関を設立すべきなのです。
そして、横断的投資センターと横断的国際プロジェクト機関によって共通のインフラストラクチャーを整備するのである。
横断的投資センターと横断的国際プロジェクト機関に財政に変わる働きをさせる。投資センターは、公的な機関とし、プロジェクト機関は、私的機関が行う。それによって経済的合理性を保つことです。
人生は借り物に過ぎない。死ねば何もかも全てを神様等お返ししなればならない。
どんなに地位や名誉や富を得てもあの世には持って行けない。
大切なのは、自分の真実である。
経済とは、生きる為の活動である。
所詮この世の物は神からの借り物に過ぎない。
その事を忘れた時、人は、真実から遠ざかるのである。
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