中国人と日本人

中国人と日本人



 華夏。
 私には、中国人に対する思いがある。
 私にとって中国人とは大人である。何事も鷹揚にかまえ、細かいことには拘らない。物事を長い目で見て、大らかである。信義に篤く。義侠心に富み。どんな時でも礼節を護る。
 今それは幻想だと言われる。しかし、幻想でも良い。私にとってそれが中国人なのである。

 中国人は、今でも、陰陽、虚実、表裏、寒熱の世界で生きている。故に、中国人が求めるのは、中庸である。
 それに対して、日本人は、真偽、善悪、美醜の世界に生きている。故に、日本人が求めるのは是非である。
 今の中日間の問題は、中国人の中庸が保たれず、日本人の是非の判断が下せないことにある。
 更に、現代は、両者の価値観の上に損得、利害が加わったから事態がややこしくなっている。
 表面に現れている中国人の言動だけを見ても日本人には、中国人の本心は分からない。なぜならば、表面に現れている中国人の言動には、虚実があり、その裏を知らなければ、中国人が何をいわんとしているかは理解できないからである。裏を読むためには、中国人が何に熱くなり、何に醒めているかを読みとることである。そして、陰陽の機微を理解する必要がある。
 この様な中国人の生き方が正しいか、間違っているかと言う考え方は日本人的な発想である。中国人の言動を是非善悪だけで単純に割り切ろうとしても中国人を理解することは出来ない。日本人は、何でも是非善悪で割り切ろうとするが、中国人の言動だけでなく、世間には、是非善悪、理非曲直だけで割り切れない部分がある。そこに政治の必要性がある。
 今、共通している価値観は、損得、利害だけであるが、損得計算、利害だけで物事を片付けようとしたら、自ずと限界がある。
 大切なのは、その先に何があるかである。

 是故形而上者。謂之道。是故形而下者。謂之器。化而裁之。謂之変。推而行之。謂之通。挙而錯之天下之民。謂之事業。(繋辞上伝)

 君主や天を国家や国民に置き換えれば、儒教は、民主主義の根本理念に変化する。
 仁義礼智忠信孝悌は、働きである。形が変われば、形に合わせて働きも変わる。
 体制が変われば、仁義礼智忠信孝悌の働きも変わる。
 民主主義には、民主主義の仁義礼智忠信孝悌がある。

 中国人と日本人は、もっと、お互いを理解するように努力すべきなのである。
 日本人は、中国人を解ているつもりになって、中国のことを勉強しなさ過ぎる。その典型的な事が、中国の民間信仰や死生観である。日本人は、宗教というとキリスト教やイスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、神道ばかりを研究して、中国人の民間信仰のことをあたかも迷信のようにしか捉えようとしない。しかし、中国の民間信仰はきわめて哲学的なのである。しかも、最も、日本の神道に近い宗教である。中国人の信仰を迷信としか捉えないようでは、中国人を理解しようなどと言うのは、土台無理である。
 中国の文化は、何も、漢文や古典だけではないのである。
 日本人は中国の神についてしらなすぎる。
 風水にしろ、漢方にしろ中国の人々の生活に息づいている考え方を理解しなければ中国を理解することはできない。
 中国人は、日本人を理解するためには、先入観や偏見が多すぎる。少なくとも政治的思惑で反日的な教育をするのは止めるべきである。
 中国と日本、韓国は、アジアの要なのである。

 近代的個人主義の根本は、自他の分別にある。則ち、自己を確立し、他を受け容れる事である。自他の分別を身につけるためには、自己を超越し、他に中立した存在を立てる必要がある。
 自立し、他を受け容れるから進歩発展がある。

 民主主義が成立するためには、自己を超越した何物かを国民が信じる必要がある。

 なぜ、日本人は、謝れば済むと思っているのか。それは、日本人が自己を超越した存在を信じているからである。本来、中国人も自己を超越した存在を信じていた。それが天である。

 中国は、他を必要とし、欧米は、自を必要とする。だからこそ、両方を併せ持つ日本は鎹となれるのである。そこに日本の天命がある。

 反中だ、反日だと声高に叫ぶ人々に言いたい。戦争をする気なのかと・・・。
 私は、日本人である。私は、日本人として自国の国益を重んじる。
 中国人には、中国人の言い分がある。
 意見が違うからと言って反中か、反日かと色分けするのは愚の骨頂である。
 確かに、両国民が合意に達するのが困難なのは明らかである。
 だからといっていきなり拳を上げての罵りあうのは、児戯に等しい。
 合意な困難な事であればあるほど、感情的な問題にすり替わることを避けるように努力すべくなのである。
 中国人と日本人の間には、容易には越えられない溝がある。
 仮に戦うことが避けられないのならば、死力を尽くして私は戦う。
 しかし、無益な争いは避けるべきである。それが、真の政治である。
 政治とは妥協の産物である。
 政治家は、誠心誠意妥協するのである。
 戦うにせよ、戦わぬにせよ、互いを尊重するのが士である。
 それを国民感情を弄び、政争の具にするのは言語道断である。
 今は、冷静に両国の未来を考えるべき時なのである。
 歴史に学ぶべき時なのである。




                      



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