経済原理
先ず、明らかにしなければならないのは、経済とは何かである。
現在の多くの人は、経済と言う事の意味もわからずに、経済について語っている。
それが根本的な間違いなのである。 (66-2)
経済は、決して金勘定の事を言うのではない。経済を語る時、儲かるか、否かが一義的に問題とされるのではない。一義的に問題とされるのは、生きるか死ぬかの問題である。そして、次に問題となるのは、如何に、人間として生きるかである。その上で、貨幣的な事象が問題となるのである。お金の問題が真っ先にあるわけではない。(66-3)
働いて、報酬を得て、生活に必要な物を市場から手に入れ、家族を養うそれが人としての生きる道である。そのためにお金が必要なのである。金のために人は生かされているわけではない。(66-4)
しかし、だからといってお金が卑しいわけではない。お金に汚い人が卑しいのである。(66-5)
経済的手段で解決できない場合は、政治的手段によって解決を図り。政治的手段で解決できない場合は、暴力的手段で解決を図る。暴力的手段は、最終的手段なのである。(66-7)
経済というのは、生きる為の活動である。経済は、貨幣的事象ではない。貨幣は、生きる為の活動に必要な二義的な手段である。貨幣は、本来、一義的な手段ではない。経済の一義的な手段は、生産、貯蔵、分配、消費、労働である。(66-8)
重要な要点は、貨幣経済は数値的経済だという点である。対象に単価を掛け合わせる事で価値を貨幣価値に統一した体制が貨幣経済である。価値は、定量的情報に還元される。即ち価値は数値として表現される事を前提としている。(66-9)
数学は、手段であって、本来、数学は、合目的的な事なのである。
数は抽象であり、数が指し示す対象によって数の性格も違ってくるのである。(67-1)
人口、高齢者、家の着工件数、所得と言った数の性格は、数が指し示す対象によって決まる。
対象というのは何らかの全体を持っている。全体を構成する要素の数は、全体のとらえ方、認識の仕方によって決まる。(67-2)
数というのは、抽象的な事で、手段であり道具である。抽象的で、手段、道具である数は、その基となる対象、目的、扱い方や処理の仕方で、いくらでも姿形を変え、性質にも違いが生じる。故に、自然数、整数、実数等の差が生じたのである。
我々が数値を扱う時は、前提条件や目的を確認すべきなのである。(67-3)
数は認識の問題であり、了解可能性の問題である。
これは大前提である。(67-4)
特に、経済では、数そのものが単体で機能しているわけではない。
数は、数が指し示す何らかの対象と組み合わさる事で機能を発揮する。
数の本質は、抽象であり、働きであり、情報であり、性格である。(67-5)
数を数えるという行為は、共通の要素や性格を持つ対象を選ぶという働きを隠し持っている。
即ち、数は、同じ要素や性格を持つ事象の集合の存在を前提として成り立っていることを意味している。
数には、選ぶ、分ける、数える、集める、測る(比較する)、記録する、保存すると言う働きがある。
この働きは、貨幣価値にも受け継がれている。
そして、この数の働きは、経済的行為の根底を形成している。(67-6)
経済を構成する要素には、人の要素、物の要素、金の要素がある。人は、人数、物は数量、金は価格によって数値化される。貨幣価値は、人数と価格、数量と価格の積として表現できる。(66-10)
人数の基礎は人口である。経済変動は、時間の関数であり、分配によって引き起こされる。故に、経済で重要なのは差と比率である。(66-11)
経済を構成する要素には人、物、金がある。人と物は、伝統的な要素である。それに対して金銭的要素は、歴史的な産物だと言える。つまり、人が長い期間かけて定着した要素、後天的、人為的要素である。(66-12)
経済を考える時、経済を構成する要素や流れが重要になる。(66-13)
認識の三つの要素は、位置と運動と関係である。(66-1)
経済は、第一に、場に働く力と第二に、組織や制度、法、仕組みといった構造的な働き、そして、第三に、個々の主体、部分、単位の働きの三つの働きによって成り立っている。(67-10)
三つの働きの原動力は資金の流れであり、収入と支出という形で現れる。(67-11)
貨幣は、物の価値と貨幣が表象する数とを結びつける事で成り立っている。物の価値を数値化する事である。数値化する事で、価値の働きを数式として表現する事が可能となる。
量化する事は、質的な性格を際立たせる効果がある。人口を年齢で区分するとそれぞれの世代の違いが際立つ。表に現れた貨幣価値だけで物事を判断しようとすると経済の持つ質的側面を見落とす事になる。(67-9)
貨幣経済の仕組みは収入と支出の振動によって動かされている。収支は資金の流れを創り出す。資金の流れが場の働きや構造の動き個々の主体の動きを制御している。
(67-12)
貨幣経済を構成する貨幣的要素には収入、貯金、借金、支出の四つがある。貨幣経済を構成する物的要素には生産、貯蔵、分配、消費の四つがある。貨幣経済を構成する人的要素には、労働、所得、財産、生活の四つがある。人は、貨幣経済下では、働いて、売って、買って、養うと言うのが原則なのである。労働は、報酬となり、所得になる。生活は欲求を生み出す。生産手段は供給力を制約し、欲求は、需要を形成する。(66-14)
収入、生産、労働は相互に結びつき。支出、消費、生活も相互に結びついている。収入と支出、生産と消費、労働と生活は非対称である。また、これらは時間的にも非対称である。この非対称性を解消する手段は、貯金、借金、貯蔵、分配、報酬、欲求、時間である。又、資金の流れによってこの非対称性は解消される。(66-15)
これらの要素は、表裏の関係となってお互いに連結している。物事には、表裏がある。生産と消費、需要と供給、労働と分配、収益と費用、投資と回収、調達と返済。これらの事象は表裏となって経済を動かしている。例えば、生産量は、供給力となり。供給力は分配の元になる。消費量は、欲求を導き出し。欲求は、需要を喚起する。労働に基づいて報酬は支払われる。報酬は収入となる。収入は欲求に基づいて支出される。収入から支出を引いた余りは、貯金となる。貯金は貸し出され、貸し出された資金は借入金になる。投資した資金は計画的に回収される。投資の基本は、資金の調達と返済である。(66-16)
所得と生産と収入は等しくなり、生活と消費と支出は等しくなる。収入と借金の和は、支出と貯金の和と等しくなる。生産と輸出入の和は、在庫と消費の和と等しくなる。(66-17)
生産と消費、収入と支出、報酬と生活とを測る基準は必要性である。必要性が過不足を原因となる。(66-18)
人の経済の基本は、生活である。生活は消費である。人の経済の基礎は、生活手段と生活費である。生活費の中には、扶養家族の分も含まれる。人の経済の基礎を構成するのは人口である。(66-19)
人の生産手段は労働である。故に人の生産性は労働によって決まる。しかし、労働ができる期間は限られている。勤労期間が人の経済を制約する。(66-20)
物の経済の基本は、生産である。故に、物の経済の基礎は生産手段と生産物によっている。生産手段とは、土地や労働力といった事を指す。生産物には、有形の物と無形な物がある。生産物は、生産手段を組み合わせて製造される。生産手段には、物的な物と人的な事がある。(66-21)
経済の基礎となる物的要素は、生産手段と生産物に区分される。経済の基礎となる人的要素は、所有と労働である。所有と労働は、権利と義務の根拠となる。生産手段と生産物、所有と労働が経済の一義的要素を構成する。(66-22)
生産手段と生活手段は、投資によって形成され、ストックを構成する。生産物と生活費は、消費に結びついてフローを形成する。生活は、生産物を消費する事で成り立っている。(66-23)
資金は、収入と借金によって調達され、支出と貯金(貸出)によって放出される。資金は、調達から放出の方向に流れる。(66-24)
現代の経済は、労働を基礎としている。この点は、社会主義も共産主義も同じである。基本原則は、働かざる者食うべからずである。そして、労働に対する報酬はお金で支払われる。これが鉄則なのである。問題となるのは、働かなくても贅沢な生活ができる人間やどんなに働いても生活できない人間がいる事である。そして、不労所得は、生産手段の所有から発生する。その事をどう捉えるかが、資本主義と社会主義、共産主義の根本的な違いとなるのである。しかし、資本主義も、社会主義も共産主義も私的所有権には何らかの制約を設けるべきだと言う事に関しては一致している。(66-25)
働いている者が生活できなくなる最大の原因は差別である。故に、いかにして差別をなくすかが問題となるのである。(66-26)
貨幣は、物の価値や労働の価値を測るための手段である。その上で、生産物を人に分配する手段である。(66-27)
貨幣の流れで基本となるのは、収入と支出である。そして、前提は、収入と支出は対称的ではないという点である。収入に対して支出が上回れば資金不足が生じ、収入が支出を上回れば余剰資金が生じる。この過不足を補うのは、借金と貯金である。(66\28)
貨幣的な要素から経済行為を見た場合、基本的に売買と貸借しかない。売りと買い、貸しと借りは、表裏を為す行為である。それ故に市場取引は均衡するのである。(66-29)
収入と支出は売買と貸借によって対称化する。収入と支出の働きは、生産物と生産手段を売買、或いは、貸借する事で実現する。期間損益主義では、収入と支出を単位期間に分解して、収益と費用を算出する。収益に対して費用に対応させて費用対効果を測定する。費用対効果は、資金の流れの働きに相当する。(66-30)
国防、警察、消防を費用対効果で測定する事が難しい。それ故に、公共事業が設定される。公共事業は税金によって賄われる。(66-31)
これが大前提である。
利益に対する間違った認識が、現在の経済をおかしくしているのである。利益をどの様に定義し、設定するかによって市場経済は、まったく違った様相を呈する。利益を利己主義的に捉え、肯定したり、否定したりするのはお門違いである。利益は、設定の仕方で利己主義的な事にも個人主義的な事にも変わるのである。そして、経済の目的を明らかにすれば、利益が目指す目標も定まるのである。闇雲に利益を上げなければと言っても意味がないのである。問題はどの様に利益を設定するかにある。利益は所与の事象ではない。利益こそ思想を代弁した事なのである。どの様に利益を設定するのかは、思想の問題である。偶然の所産ではない。
利益の設定の仕方で資本主義も変質するのである。そして、利益は、本来公共の福祉を目的として設定されるべき事なのである。利益は、自由や平等、博愛を実現するための手段、指標なのである。(66-32)
構造は、何らかの全体を意味し、個々の主体は部分を意味する。(67-13)
収入の手段は、会計上、負債的手段、資本的手段、収益的手段に支出は、資産的支出と費用的支出、そして、金融的支出に分類される。資産的支出は投資であり、費用的支出は、消費でもある。ただ、金融的支出は、会計上計上されない。金利は費用的支出である。(67-14)
収入と支出は、経済主体の内と外という観点から見ると表裏の関係にもなる。但しこの関係は、支出は収入であるが、収入は必ずしも支出ではない。収入と収益とは違う。収入は基本的に収益によって賄う物だが、収益で不足した場合は、負債的手段、或いは、資本的手段によって補わなければならない。(67-16)
経済に働く力の源泉は、第一に名目的価値と実質的価値の相互作用がある。第二に、フローとストックの相互作用がある。これらの相互作用を生み出すのは、資産、負債、収益、費用の相互作用と収入と支出、即ち、資金の流れの働きである。(67-17)
場に働く力は、名目的価値と実質的価値の関係から生じる。名目的価値と実質的価値の相互作用が場の力の性格を決めている。又、場に働く力の基礎はストックにある。(67-18)
現在の経済の問題は、経済政策が、市場から乖離し、なかなか効力を発揮できない事である。なぜならば、経済政策は、現在の経済学を基礎として立てられているのに、現在の経済学は、実務と直結していないからである。
それ故に、実務家は、経済学を信用しないのである。(59−5)
経済を構成する要素には、人の要素、物の要素、金の要素がある。実質的価値は、物の要素を反映した事であり、名目的価値は、貨幣的要素を反映した事である。(67-19)
会計では、実質的価値は、資産、費用に分類される。名目的価値は、負債、資本、収益に分類される。利益は資本に蓄積される。
名目と実質の違いは、名目的価値とは、貨幣としての価値しか持たない事象をさし、実質的価値とは、物としての実体を持つ事象の持つ価値を言う。(67-20)
名目的価値は、表面に現れた価値と実体的な価値が一致している、のに対して実質的価値は、表面に現れた価値と実体的の価値が一致していない場合がある。例えば、地価は、会計上計上される価値と実際に取引されている価格とは必ずしも一致しているわけではない。地価のように実体的価値と帳簿上の価値が違う事象を実質的価値がある物とする。(67-21)
また、ストックとフローは、流動性の問題でもある。
会計上、ストックに属するのは、資産と負債、資本である。フローに属するのは、収益と費用である。(67-22)
実質的価値には、フローとストックがある。実質的価値は、フローの部分では名目的価値と基本的に一致している。問題は、ストックの部分で実質的価値は、実体と乖離しているという点である。
そして、ストックの部分の実質的価値と名目的価値との差が資金の流れる方向を定めるのである。(67-23)
市場が拡大傾向がある時は、実質的価値が名目的価値を上回る事で、成長を促す。それがインフレーションの一因となる。(67-24)
国内の生産の総和を国内総生産というように、国内の収益の総和を国内総所得、国内の費用の和を国内総費用、国内の総資産の総和を国内総資産、国内の負債の総和を国内総負債、国内の総資本の総和を国内総資本、純資本の総和を国内総純資産とする。
資金の調達力が何らかの原因で、抑制されると収益力が急速に低下し、相対的に総費用の比率が上昇し、国内総資産が圧迫され、国内総負債の負担が相対的に増加する。
その結果、実物市場に資金が流れにくくなるのである。
最大の問題は、実物市場への資金の供給が遮断される事である。(67-25)
貸借対照表は、基本的に残高表だと言う事である。それが貸借対照表、損益計算書から現金収支を掴みにくくしているのである。
しかし、貸借対照表も損益計算書も根底に流れているのは、現金収支である。
景気が悪くなり、社会全般の収益力が低下すると必然的に負の負担が大きくなる。(67-26)
社会全般の収益力がなくなると資産の担保余力が失われ、負債の返済圧力、回収圧力も強くなり、投資や費用に回す資金の余力がなくなる。しかも、往々にして不況になると過当競争に陥り、収益力を更に低下させる。負のスパイラルが始まるのである。不況時に過当競争に陥るのは、市場自体が飽和状態になり、拡大する余地がなくなるからである。少なくなった余地を巡って多くの企業が取り合うからである。こうなると実物市場に資金が流れる経路が狭くなり、資金が金融に滞留するようになる。この様な資金は捌け口を求めて資産市場に流れ込む。それがバブルである。
問題は実物市場に資金が流れなくなり、分配の機能が働かなくなっている事なのである。
この様な状況では、競争を抑制して市場の収益力を取り戻すようにすべきなのである。
いくら公共投資をしても市場が資金を吸収できなければ、かえって公共投資も弊害である。
資金量が不足しているのではなく。資金が流れにくくなっている、或いは、逆流しているのである。(67-27)
経済は、生きる為の活動である。経済の始まりは、自給自足にある。つまり、生きる為に必要な物の全てを自分達で調達し、或いは生産する事である。この時点で行われるのは、分かち合う事、即ち、分配であり、まだ、貨幣は必要とされていない。そして、必要とされるのは使用価値である。
貨幣が発生するのは、交換という行為が成立することによってである。交換という行為は、余剰生産物や不足な物が発生した時、余剰な生産物と不足な物とを交換する必要が生じることによって成立する。その端緒は物々交換である。この時点で物、財には、使用価値の他に交換価値が生じることになる。そして、物々交換が更に発展すると交換価値だけが特化されて貨幣が生じる。ただ、この時点でも貨幣は物としての価値を持ち、尚かつ使用価値も併せ持っている。
初期の物々交換は、物自体に使用価値がある。(37-2)
問題は貨幣価値の根源にある。つまり、貨幣価値の根拠である。それを知るためには貨幣の生い立ちを明らかにする必要がある。(37-1)
貨幣としての働きは、交換の媒体である。この貨幣の交換という働きから貨幣の性格が形成される。その第一は、お互いが貨幣、即ち、交換の媒体としての価値を認識し、合意している事。第二に、単位化できる事。第三に計量化できる事。第四に価値を保存できる事。第五に、持ち運び、或いは、移動できる事。(37-3)
貨幣経済というのは、貨幣価値に貨幣という実体を持たせることによって貨幣価値を数値化し、流通させることを可能とした。
この事によって物の流れに対して反対方向に流れる貨幣の流れを作る出したのである。そして、貨幣の流れによって物の流れを促す働きを成立させたのである。この事が貨幣経済の根本的活力である。
一度貨幣経済が成立すると経済は、貨幣によって表現され計られることになる。(61-1)
貨幣経済というのは、ギャンブルに似ている。胴元がチップをプレイヤーに配分するところからゲームは始まり、チップがなくなればゲームオーバーとなる。そして、プレイヤーは基本的にチップを借り、必要に応じて物と交換するのである。
最初、プレイヤーは、チップを胴元から借りることになる。謂わば、中央銀行は胴元のような存在なのである。そして、貨幣の本質は借金が元となっている。この事は、貨幣経済の本質を象徴している。(61-3)
今日の不換紙幣が成立する前提条件は、第一に、貨幣が市場に浸透していて、貨幣が循環するのに必要な一定量、流通している事。第二に、貨幣の働きや価値が社会的に承認されている事。第三に、貨幣の流通量が制御できる仕組みを持つ事である。(37-4)
まず第一の要件を満たすためには、貨幣が何等かの形で事前に市場に供給されている必要がある。その役割を果たしたのが、金貨、銀貨、銅貨と言った鋳造貨幣、或いは、秤量貨幣である。鋳造貨幣や秤量貨幣は、物としての価値、貨幣の素材の貨幣価値が貨幣価値と同量の価値を併せ持っている事を前提としている。そして、回収を前提とせず単に決済手段として一方的に権力機関から市場に放出される。
しかし、この様な貨幣は、貨幣の製造力による限界があり、貨幣の素材を調達することが困難になると財政は逼迫する。
この様な財政状態を補う形で信用貨幣が流通するようになる。
又、一方的に貨幣を供給し続けると貨幣の流通量を制御できなくなる。(37-5)
その為に、過剰流動性が起こり、インフレーションが昂進する怖れがある。それを制御するためには、行政機関の外に中央銀行を設定し、紙幣の発行権を行政から切り離す。行政は、借入を起こすことを前提とし、貨幣の回収と供給という機能によって貨幣を市場に循環させる仕組みを構築する。
この時点で貨幣は、基本的に負債の部分を形成するようになるのである。
兌換紙幣から不換紙幣へと変換し、最終的には貨幣価値を情報化する。その前提は、国家が借金をし、且つ、その借金の保証をして、中央銀行が発券する事なのである。(37-6)
一般に貨幣制度が導入された当初は、貨幣その物が持つ価値に基ずく必要がある。その場合は、貨幣その物に価値があるから貨幣に発行益が生じる。それがシニョレジである。
市場が飽和状態なるまでは、通貨発行益(シニョレッジ)が生じる。ただし、シニョレッジの効果は貨幣が市場に浸透するまでの間である。市場が過飽和な状態になると過剰流動性となりインフレーションが発生する。
行政費用は、シニョレッジが成立する段階ではシニョレジに依存することは可能であるが、一旦、貨幣が飽和状態に達したらその後は、貨幣を回収循環することによって行政費用を賄わなければならなくなる。
その段階になると貨幣は、行政に対して負の働きを持つようになるのである。この負の働きが下部構造となって正の働き、即ち、実物経済が機能するようになる。(37-7)
負の経済は、今日の経済の半分を形成している。故に、負の経済の確立も重要であり、不可欠なことである。
そして、正の経済に基づく社会と負の経済に基づく経済とは、まったく異質の経済社会なのである。(37-8)
通貨が一定方向に流れると通貨が流れた量と同量の債権と債務が生じ、逆方向に流れると債権と債務は消滅する。
通貨が負(負債、資本、収益)の方向から正(資産、費用)の方向へ流れる時、債権と債務が発生し、正から負の方向に流れる時、債権と債務は清算される。(37-9)
貨幣とは、負の価値なのである。貨幣価値は、財の価値を貨幣価値に写像する事によって成立する。即ち、貨幣価値とは影であり、貨幣価値を表象する貨幣は、負の存在なのである。この前提を理解しないと財政を理解することは出来ない。(37-12)
経済の実質、実体、正の働きは、物と人にある。金は経済の影、負の働きである。物の経済の基本は生産と消費であり、人の経済の基本は生産手段と分配にある。労働は、生産手段の一種である。(61-3)
経済の根本は、分配にある。経済の本質的な規模を決めるのは、生産財と人口の分布である。金ではない。故に、貧困は相対的な事象であり、双方向の力が働かないかぎり経済は均衡しない。(59−4)
貨幣経済は、貨幣価値の集合として見なすことができる。(61-4)
貨幣経済を有効に機能させるためには、貨幣価値の働きを知る必要がある。
貨幣価値の働きを知るためには、貨幣の属性を明らかにする必要がある。貨幣は、第一に価値を表す数値情報である。第二に、物質化することが可能である。第三に、交換が可能である。第四に、所有することができる。第五に、移動することができる。第六に保存することができる。退蔵することが可能である。第七に、基準を統一する事によって価値を一元化し、異質な物の演算を可能とする。第八に、任意の機関が、製造することが可能である。第九に、任意の単位によって独自の体系を構築することが可能である。第十に、取引のための手段、道具である。第十一に、物や用益の流通を促す働きがある。第十二に、分配のための手段である。第十三に労働を評価する手段になる。第十四に、信用制度の基づく権利である。第十五に人造物である。(61-5)
集合というのは、何らかの前提や条件に基づいて集められた点や数と言える。点や数の根底には、何らかの素材がある。と言うよりも集合を構成する点や数は、何らかの対象を象徴している。
そして、集合を構成している点や数には、何らかの偏りや特性がある。
一見、平らに見える数の集合にも凸凹がある。しかも、その凸凹には特性や偏りがある。集合を構成する点や数、即ち、要素は、現実の事象を反映したものである。(61-6)
集合を構成する要素は、その働きが重要であり、働きの方向も重要となる。(61-9)
経済の動きを理解するためには、表層に現れた現象のみでなく、背後にある仕組みを知る必要がある。(59−6)
経済を考える上で次の点を留意する必要がある。(59−7)
第一に、現在の市場経済は、借金経済だという事である。
そして、第二に、経済主体を動かしているのは、最終的には現金だという事である。(59−8)
国も、企業も、家計も、更に、中央銀行も借金を前提として成り立っているのである。国が借金をし投資をすることで、企業も収益をあげることが可能となり、尚かつ、人件費として所得を分配できる。その様にして、企業が借金をして資金を廻すのである。家計も借金をすることによって家を建て、自動車を買うことが可能となる。
この様な経済の仕組みから見て借金をすることが、悪いと断定してしまうと、経済は廻らなくなるのである。借金が悪いのではなく、貨幣の流量を制御できなくなるのが障害なのである。(37-10)
国は、家計や企業から借金をし、家計や企業は、金融機関から借金をし、金融機関は、中央銀行から借金をする。金融機関が中央銀行から借金をすることによって貨幣は市中に流通するのである。
では、中央銀行は、どこから借金をするのか。それは市場信認、言い替えると、国民から借金をするのである。この最後の部分が肝腎なのである。つまり、中央銀行はどこから、どの様な名目によって借金をするのか。それが貨幣経済の本源を明らかにすることなのである。
中央銀行が貨幣を生み出す絡繰り(からくり)、仕組みこそ今日の経済を制御する装置が隠されている。銀行の会計の仕組みこそ、又、複式簿記の構造こそ貨幣経済を制御する装置なのであり、また、財政を動かす鍵が隠されているのである。(37-11)
現金の流れが生み出す振動によって市場や経済主体を動かされている。
現金の流れから派生する働きでは、特に、負の働きが重要になる。負のはたきは、マイナスや裏、陰という意味がある。
期間損益では、負債と赤字の働きが半分の働きを担っている。(59−9)
今、問題なのは、物の経済ではない。人の経済でもない。貨幣経済なのである。だから貨幣経済が重要なのである。(19)
貨幣の流れを見極めないと経済を理解することはできない。そして、今日の中軸的貨幣は、不兌換紙幣である。
貨幣には、実物貨幣、兌換紙幣、不兌換紙幣があり、各々性格が違う。それを一緒くたに取り扱うから経済がおかしくなるのである。(19)
貨幣経済は、貨幣価値、即ち、数が貨幣という物的対象によって実体化されることによって成り立ってきた。(19)
実物貨幣や兌換紙幣は、数量に制限があり、貨幣その物が商品相場を形成する。不兌換紙幣は、基本的には物理的数量の制約がない。又、為替相場はあるが、商品相場の影響は受けない。(19)
紙幣は、貸出と公共投資によって市場に供給される。その元は、いずれも借金である。最初から紙幣が存在しているわけではないのである。(19)
公共投資は、大量の紙幣を市場に供給する。供給された紙幣は、初期投資以後、長い時間を掛けて回収される。回収の手段は、税金ではなく、返済である。返済の原資は、基本的に収益によって賄われる。即ち、紙幣は、投資によって市場に供給され、収益の範囲内で回収されるのである。投資された時点で市場に供給され、返済によって回収される。言い換えると投資によって紙幣は、市場の側に流れ、返済によって回収の側に流れる。日々の経済は、市場に流通する貨幣によって機能している。故に、市場に流通する通貨の量と流れる方向、回転数が経済状態を決定する。(19)
経済においては、時間の働きは、長さによって性格が変わる。経済的事象は、時間の働きは、長さによって性格付けられる。故に、会計では、時間は長さを基準にして測られる。(19)
投資が長期資金の流れを形成し、消費が短期資金の流れを形成する。投資と消費の比率が資金の働きを決定付ける。
長期資金の働きは、市場に流通する資金を一定量に保つことである。短期的資金は、市場の分配機能を発揮させることである。そして、分配機能を有効にするためには、所得と消費を均衡させることである。それは、収益と費用の関係によって実現する。それが市場経済の構造である。(19)
長期資金の回収は、収益の中から捻出される。つまり、収益は、長期的資金の回収を前提として設定されるべきものである。ところが長期的資金の回収、長期的資金の返済は、期間損益上は表面に現れてこないのである。そのために、収益が悪化したり、市場競争が激化すると長期資金流れが滞るようになる。挙げ句に、金融機関は、長期資金を引き揚げようとする。その為に、市場の資金が枯渇する現象が起こるのである。(19)
税の働きは、通貨の循環と所得の再分配である。所得の再分配の役割は、通貨を効率よく循環させることである。(19)
税がなぜ必要かである。
それを理解するためには、物納と金納の働きの違いを理解する必要がある。
税の発生は、権力者の財政を担う必要から派生した。初期は、物納であった。物納である場合は、信用制度を基礎とする必要はない。単純に必要な物資や用益を徴集して自分達が自分達のために消費すればいいのである。
現代では信用貨幣であり、信用の裏付けさえとれれば税に依存する必要はない。また、公共機関自体が収益事業をしても税に依存する必要はない。なのに、なぜ、税に依存する必要があるのか。その原因は、貨幣の働きにある。その点を理解しないと税制のあり方を規定することはできない。
それは今日の経済の仕組みが分配を基礎としていて税制度も分配のための仕組みの一部だからである。(60-5)
紙幣を公共投資によって市場に供給する期間と回収する期間とに時間的な隔たりがある。この隔たりを利用して長期的資金、即ち、市場に流通する紙幣の量を調整するのである。(19)
貨幣は、あくまでも経済活動の道具である。それ自体を蓄積することに目的があるわけではない。(19)
市場に流通する紙幣には、常に回収圧力が働いており、その圧力によって紙幣は、市場を循環しているのである。しかし、回収するだけでは、市場に流通する貨幣の量は、減少し続けることになる。故に、一定の投資を継続する必要性が生じるのである。しかし、闇雲に公共投資をすればいいのかというとそれでは、紙幣が市場から溢れ出してしまう。それ故に、供給する紙幣の量には、経済規模、市場規模に応じた制限がある。(19)
運動を回転運動にして制御するためには、一つの働きが作用する時、逆方向の働きが作用するように設定する必要がある。この様にして設定された働きを作用反作用の関係にあるとする。
貨幣経済では、貨幣の流れと物の流れの働きが作用反作用の関係にある。
貨幣の流れは名目的価値を形成し、物の流れは、実質的価値を形成する。(61-10)
貨幣に作用反作用の働きを生み出すのは、ゼロサム関係である。(61-11)
貨幣の働きは取引によって成立する。取引は、基本的にゼロサムである。(61-12)
物の流れには、反対方向の金の流れがある。この点が重要なのである。問題はこの貨幣価値と物の価値の均衡にある。
経常収支が赤字であるという事は資本収支は黒字になる。つまり物を輸入するために不足した金は借りなければならない。故に、金不足を問題にする以前に、金を調達するための信用力を問題とするべきなのである。(61-13)
貨幣を流通させる働きは、貸し借り、売り買いである。貨幣の流通を促す働きがあるのが金利である。
貸し借りは権利を生み出し、売り買いは物流を生み出す。
貸しと借り、売りと買いは、一組で成立する。即ち、視点、立場を変えれば、借りは貸しであり、売りは買いである。(61-14)
ゼロサムによる作用反作用の関係によって成り立っている貨幣経済では、平均や分散が特別の意味を持っている。
そして、平均や分散が意味を持つという事は、中心極限定理や正規分布が重要だという事を示唆している。
また、ベイズ確率の有効性も示している。(61-15)
注意しなければならないのは、キャッシュフローはゼロサム関係が成り立たない。キャッシュは自然数。つまり、正の数である。故に、キャッシュフローでは残高が重要となる。(61-16)
自由主義経済の根幹は、均衡と対称性にある。(58-1)
その意味で、複式簿記の構造が借方、貸方、つまり、貸し借りを基本としていることは、含蓄があることなのである。(58-2)
市場経済の文法である複式簿記は、ゼロサムが基本である。つまり、総和は常にゼロに保たれるように設定されている。それがゼロの圧力の源泉である。
ゼロには、ゼロ点でも、ゼロ線でも、ゼロ面でも均衡を保とうとする力が働く。また、対称性を生み出す働きがある。(58-3)
ゼロ点やゼロ線が設定されるとゼロに収縮していこうという働きやゼロを中心として振幅する働きが見られたりする。それがゼロの圧力である。(58-4)
ゼロサムの状態においては、ゼロ、即ち、均衡に向かって収斂しようとする力が働く。それがゼロの圧力である。
また、だからゼロの持つ意味が重要なのである。(58-5)
経済の基本がゼロサムならば、中心極限定理が重要な意味を持つ。(60-1)
経済の基本がゼロサムならば、中心極限定理が重要な意味を持つ。
ゼロサムていう事は、ゼロが平均値だという事を意味し、ゼロを中心とした分散が重要な意味がある。
ゼロサム関係にある要素を抽出し、それを共通の座標軸に基づいて組み立ててみる事である。対極に何が存在するかを見るべきなのである。例えば、経常収支の対極にあるのは、資本収支である。
単純に赤字だから悪い、黒字だかに良いと言う判断をすべきではない。
ゼロサム関係にあるとしたら、黒字があれば赤字が存在する事を意味する。
EU域内に於いてゼロサムな関係にあるのは、政府部門、民間部門、海外部門の収支はゼロになる。
経常収支の総和はゼロサムになる。貿易収支の総和はゼロサムになる。所得収支の総和は、ゼロサムになる。資本収支と経常収支はゼロサムになる。(60-2)
ゼロサムを基調とした市場経済には、垂直的均衡と水平的均衡がある。水平的均衡は階層的になっている。
経常収支と資本収支は垂直的均衡の関係にある。それに対し、経常収支の総和、資本収支の総和、貿易収支の総和等は水平的均衡の関係にある。経済主体間の総和も水平的に均衡する。
そして、貿易・サービス収支の総和と所得収支の総和、経常移転収支の総和は、経常収支を階層的に形成する。(60-3)
複式簿記を文法とする市場では、利益は、放置するとゼロに向かって収束していく。なぜならば、会計の基礎となる複式簿記は、ゼロサムを基調とするからである。(58-6)
経済主体間の貸し借りは、ゼロである。
また、経常収支と資本収支の和もゼロになる。また、市場全体の経常収支、資本収支、貿易収支の総和もゼロである。
故に、赤字か黒字かが問題なのではない。(58-7)
この様な関係が成立する自由経済の原則は、黒字があれば、同量の赤字があることである。
故に、黒字は正常で赤字は異常と決めつけることは間違いだという事になる。問題になるのは、黒字や赤字を生み出す仕組みとその機能である。黒字と赤字が硬直的であり、黒字の部分も赤字の部分も継続的に黒字であり、赤字だという事である。そして、これは構造的問題なのである。(58-8)
何が赤字、何が黒字か。そして、それは時間的に均衡するのか。また、振幅の幅は適正化が問題となるのである。(58-9)
例えば、経常収支が赤字の場合、資本収支が黒字なければならないし、経常収支、財政収支、家計収支、民間収支の総和がゼロだという事は、赤字の経済主体と黒字の経済主体が混在していることを意味するのである。
全ての経済主体を黒字にする事はできないのである。黒字が是で赤字が否というのではなく、黒字主体と赤字主体の役割、及び、推移が問題なのである。(58-10)
赤字や黒字にどの様な性格があり、働きがあるかが問題なのである。
赤字や黒字の時間的な変化はどういう性格のものか。
赤字や黒字が慢性的なものなのか。
赤字や黒字を補完しているものは何か。
赤字と黒字の相互の働きは何か。
赤字主体と黒字主体の役割は何かである。
任意の赤字主体、或いは、黒字主体が、他の赤字主体や黒字主体にどの様な影響を与えるかである。
即ち、黒字や赤字を作る仕組みは、何かといった事が、鍵を握っているのである。(58-11)
貯蓄というのは、視点を変えると金融機関への貸付であり、金融機関の負債である。この様に、貸し借りというのは表裏の関係にあり、貯蓄と負債というのは、同じ働きをしていると見なすことができる。(61-17)
消費とは、価値を費やす行為である。投資は、生産手段に対する支出である。貨幣の働きという点では、投資も基本的には消費と同様、価値を費やす行為である。投資と消費とを区別するのは期間、即ち、時間軸の問題である。働きは基本的に同じである。(61-18)
生産と生産手段が関係づけられていないと経済は有効に機能しない。例えば労働と分配が関係づけられていない経済の仕組みは制御する事ができない。(61-19)
企業会計では、長期借入金の元本の返済額、減価償却、そして、非償却資産(主として土地)、利益、税、キャッシュフローの関係が重要となる。この事は、経済の根本に関わる問題でもある。(61-20)
市場経済を実際に動かしているのは、現金だという事を忘れてはならない。期間損益というのは現金の流れを円滑にするための仕組みなのである。それを忘れると経済の本質を見失うことになる。
現金を資源化した物が資金である。資金の流入、流出、流れが経済や経済車体を動かすエネルギーなのである。(59−10)
ただし、会計上でいうキャッシュフローというのは、資金の流れを表してはいるが、資金の働きを表してはいない。故に、期間損益を測る必要が出てくるのである。
期間損益で重要になるのは時間軸である。
また、期間損益で大切なのは、平均化である。平均化は、定収入の前提となる。定収入は、長期借入金を成立させるための根拠となる。つまり、導入部分を構成する。(59−11)
期間損益で重要なのは比率である。しかし、現金主義は、差が重要となる。なぜならば、期間損益では、整数を基本としており、負の数が認められているが、現金主義は、自然数を前提としており、負の数が認められていないからである。(59−12)
均衡と対称という現象は、表面に現れた現象の背後に逆方向の力が、働いていると考えなければならない。黒字には赤字が働いているのであり、黒字の働きだけを見ても赤字、即ち、逆方向の働きを見ないと本当の役割を理解する事ができないのである。
利益は、赤字主体と黒字主体の存在に依って生じる。均衡への圧力は、利益を限りなくゼロに近づけようとする働きを生み出す。(58-12)
市場の健全さを保つためには、如何に、均衡と対称を壊すかが重要となる。(58-13)
経済の動きは、収入と支出と所得の関係によって生じる。
所得は、入り口でもあり、出口でもある。
所得は付加価値の集計である。
付加価値とは、一定期間内の経済活動によって生み出された経済的価値を貨幣価値に換算した値である。
つまり、所得は生産された価値である。
所得は、前期の支出である。
収入は、所得と借入金、貸付金の返済からなる。
支出は、消費と貯蓄、借入金の返済からなる。
消費は、経済のフローを生み出し、貯蓄と借入金はストックを形成する。
所得は、当期の支出と貯蓄になる。
当期の所得を上回る支出は、貸付金と過去の貯蓄の取り崩しによる。
支出は所得に転じる。
所得より支出が大きい場合は、市場は拡大し、借入金は増大する。所得より支出が少ない場合は、市場は縮小し、借入金は縮小する。
収入は、通貨量と回転数の積である。回転数は取引量である。
この様に、収入、所得、支出の関係から、消費、貯蓄、借入金が生じる。貯蓄と借入金は、投資の潜在的力である。(58-19)
所得より支出が多い場合は、借入金か、貯金を取り崩す事で補われる。借入金は、ストックに蓄えられ、貯蓄を取り崩すとストックがフローに転換される。所得より支出が上回ると市場は拡大している事を表している。
所得より支出が下回る場合は、余った部分は貯蓄か借入金の返済に回される。それは市場の縮小を意味する。(58-20)
実質的な経済は、物の生産と消費、そして、通貨の流通量によって成り立っている。物価は、実質的経済価値である。生産と消費は所得に基づいて実現する。生産は、所得の生み出す労働によって成り立っているからである。また、消費は収入の範囲内で賄われる。収入を構成する要素、所得、借入、預金の取り崩しの中で生産的なのは、所得だけだからである。生産は、消費と在庫、輸入から成り立つ。生産より、消費が上回れば、他国から輸入らざるを得なくなる。逆に、生産が過剰になれば、過剰な部分は、在庫か輸出する事になる。輸出入が経常損益の元となる。(58-23)
物と金の経済を結びつけるのは、収入と支出と所得の関係である。物は、出口にあって消費であり、支出である。金は、入り口にあって生産であり、収入である。それを結びつけるのが人の所得である。つまり、物と金とを結びつけるのは、人である。(58-24)
経常収支は実質的産業により、所得収支は、消費的(金融を含むサービス)産業による。
この事は、物と金、実質と名目、生産的局面と消費的局面の関係を暗示している。(58-25)
経済現象は、物の経済と金の経済、人の経済によって生じる。人、物、金が調和すれば経済は安定し、不均衡になれば、経済は不安定になるのである。(58-26)
期間損益では、負債と赤字の働きが半分の働きを担っている。(59−13)
第一の問題点は、現在の市場経済体制は、現金主義と期間損益主義が混在している事である。
第二の問題点は、現金主義に基づく制度と期間損益に基づく制度が明確に区分されておらずに、制度的な整合性が取られていない点にある。中でも最も問題なのが税制との整合性である。(59−14)
損益構造と収支構造が非対称である。
そして、税制が現金主義と期間損益主義の折衷だという事である。それが資金の流れを圧迫し、歪めている。
そのために、現金収支と利益とは非対称の関係になる。
負債と資産、資本の関係をも歪める。
損益主義と現金主義、そして、税制の整合性を保つためには、税制の基礎を損益主義と現金主義のどちらに置くのか、また、何によって調和させるのかを明確にすることである。
それは、課税対象の問題でもあり、納税の原資の問題でもある。(59−15)
問題なのは、減価償却と借入金の元本の返済の整合性が取られていないという点にある。
減価償却と借入金の元本の返済額が非対称であり、利益を課税対象として税を課した場合、資金繰りに重大な支障を生じる可能性がある。この様な状態は、一経済主体だけでなく、経済全体にも深刻な支障を来す可能性がある。
この様な障害を回避するためには、赤字(損失)の働きを理解する必要がある。赤字にも働きがあるのである。つまり、赤字は悪いとは決めつけられない。
大切なのは、個々の局面における赤字の働きなのである。
仮に赤字が悪いとしたら黒字も悪いのである。それはその時点の赤字の働きや性格、方向性、時間的推移が問題なのであり、赤字自体が悪いのではない。赤字の是非を論じるのならば、対極にある黒字の是非と各々の働きを理解した上でなければ意味をなさない。(59−16)
これらの関係を数式に置き換えると、
収入−(減価償却費+支払利息+その他経費)=利益
収入−(支払利息+元本返済額+その他経費)=現金残高
現金残高−利益×税率=手取り現金。
手取りの現金がマイナスになる事は、許されない。経済的に破綻することを意味する。それを回避するためには借入金を増やす必要が出てくる。
現金残高を納税が上回り、税金によって黒字倒産する場合もありうるのである。(59−17)
貸し、借りと収益、費用の均衡が経済の有り様を構成する。ただ問題となるのは、減価償却と長期借入金の元本の返済額が非対称であり、それが、表面に現れる貸借、損益に与える影響である。
表に現れる部分は売り買いであり、物の部分である。それに対して、裏にあるのは、貸し借りであり、金、即ち、金融の部分である。
損益、収支、課税対象が差額を基礎としているのに、基礎となる要素と差し引く要素がそれぞれ違う上、納税額が比率によって算出される。これが通貨の円滑な流れを妨げているのである。(59−18)
付加価値の概念にも損益主義と現金主義では差が生じる。
現金主義では、付加価値は、最終的には、地代家賃、金利、人件費に還元される。
損益主義は、これに減価償却費が加わるのである。(59−19)
自由経済の基本は、差別化と細分化にあり、結局、それが平等にも繋がる。
市場経済の中心を為す要素は価格であり、価格を決定づけるのは細分化と差別化である。(59−20)
価格は、数量と貨幣価値とに分解できる。
物や人、金の価値には、質的な要素と量的な要素があり、密度が問題となる。
故に、価格にも質的な要素と量的な要素があり、密度が問題となる。(59−21)
価格を構成するのは、物の価値と金の価値、そして、人の必要性である。物の価値は、需給関係によって決まる。金の価値は通過の流量に左右される。人の必要性は、人の量、即ち、一人一人の所得の量や人口などによって決まる。
つまり、価格は、人、物、金の関数である。(59−22)
この事は、価格は、財の貨幣価値の密度を表す指標でもある事を意味している。財の質と量、そして、貨幣的密度によって価格は構成されている。(59−23)
価格は、財の物としての質、交換価値として量、そして、消費者の欲求の密度からなる。
そして、財や交換価値、消費者の欲求が組み合わさり、複合的に結びつけられる事によって価格は形成されるのである。(59−24)
価格は変動的である事が前提なのである。(59−25)
なぜならば、第一に、生産と消費は非対称の関係にあるという事。第二に、生産と消費には物理的な制約があるのに対して、貨幣量には物理的な制約がないという事。第三に、生産は外的要因によって決まるのに対して、消費を決める欲求は、内的要因によるという三点である。この三つの要因が価格の動向を決めているのである。
そして、生産に対する資源配分を決める主体と消費に対する資源の配分を決める主体は、それぞれ独立している。
消費や所得は最終的には個人に帰結する。故に、個人の属性や働き、性格を如何に定義するかによって製材に対する認識は違ってくる。(59−26)
今日では、価格は、財と貨幣価値とを一対一に結びつけられた結果としての値としてではなく。一対多、多対一、多対多の関係によって認識されるようになってきた。(59−27)
価格を検討する場合、単次元的な発想では一方的な傾向に陥りがちである。二次元的、三次元的な発想ができないと解決には結びつかない。(59−28)
価格は、商品群と料金体系群と消費者群を結びつけることによって成り立っている。(59−29)
この関係は、価格の働きによって形成された。価格の働きとは、生産物と消費者を交換価値によって結びつけ、財の分配を促す事を意味する。(59−30)
そして、商品群と料金体系、消費者の有り様が多様であり、一律一元でないことに由来する。(59−31)
貨幣経済の有り様は、所得の総量と水準、所得の偏り、分散によって決まる。所得の総量は、経済の規模を規定する。所得の水準は、個々の地域や国の生活水準を表す。所得の分散や偏りは、分配の効率を表している。ただし、所得の問題の本質は、水準ではなく。取り分の問題である事を忘れてはならない。個々の経済主体間の比率が重要なのである。(59−32)
所得とは、分配の権利、市場で財と交換する権利を意味する。
所得差を金持ちと貧乏人の差として考えがちであるが、金持ちか貧乏かは、部分的な問題であり、局面である。経済の動向を判断する場合は、全体的な問題としても捉える必要がある。
また、金持ちであるか、貧乏であるかは結果であって根本的には、その結果の原因やその結果を導き出す仕組みに問題がある。(59−33)
所得が取りざたされる時、所得の水準や平均が話題となる傾向がある。
しかし、所得の問題は、本来、取り分、配分の問題であって水準の問題ではない。経済は、生産財の分配の問題なのである。
故に、実際に問題となるのは、平均ではなく、分散である。
所得の水準や平均が問題とされるのは、インフレーションやデフレーションが通貨の流量によって左右されるからである。しかし、それは貨幣の振る舞いであって経済の本来の働きは、生産財の分配にある。貨幣の動きが経済本来の役割を混乱させるが故である。
実物は、有限であり、上限がある。貨幣価値は無限である。
生産に於いて無駄を省くと言う意味では、何が必要とされているのかが明確にされる必要がある。本来、何に、何が、どうして必要なのかが価値を決めるのである。つまり、必要性が価値の根底になければならない。(59−34)
大量生産、大量消費は、商品を単一化、標準化させる働きがある。即ち、大量生産や大量消費は、商品を平均化するのである。大量生産、大量消費には、平均化することで個々の製品の持つ個性を相殺する働きがある。
そして、この点が大量生産、大量消費の欠点なのである。
個人の欲求を一元一様のものとするか、多種多様なものとするかによって経済に対する考え方は決まる。大量生産主義も共産主義も方向性は共通している。即ち、大量生産主義も共産主義も生活の均一化の方向に向かっているのである。(61-7)
人間の欲求は、一律一様ではない。それが大前提である。生活の均一化は、人間性に背いている。故に、経済の自律性に背いているのである。
豊かさとは、多様さにある。市場の成熟は、多種多様化させる事である。(61-8)
価格競争は、商品の質を均質化する。(58-14)
大量生産、大量消費は、商品を単一化、標準化させる働きがある。
それは、大量生産や大量消費は生産や消費を平均化するからである。
個人の欲求を一律、一元、一様なものとするか、多種多様なものとするかによって経済の仕組みに対する考え方、原則が違ってくる。
自由市場は、本来、成熟する過程で、多様化する事を、前提としなければならない。
個人の欲求を一律、一元、一様なものとするのは、全体主義、統制主義である。
自由経済における豊かさは多様性にある。
なぜなら、価値の単一か、標準化は選択肢の幅を狭め、貧困なものにするからである。
そして、価値の単一化、標準化は、経済的価値のバラツキや格差をなくす。その結果、経済価値は均衡に向かいかぎりなくゼロに近づくのである。それは、経済の活力を奪う事である。(58-15)
その結果、無原則な価格競争は、利益をゼロに収斂していく。(58-16)
利益を維持するためには、価格競争以外の施策をとるような仕組みにする必要があるのである。競争は、価格だけにあるわけではない。
その場合、競争の前提、競争の条件を同一化する必要がある。そうしないと公正な競争は実現しない。(58-17)
利益を生み出すのは、市場の仕組み、構造である。市場の構造は、規制によって形作られる。規制が市場のあり方を決める。故に、規制緩和が全てなのではない。適正な規制こそが求められているのである。(58-18)
正すべきは今であって、過去ではない。
過去を正すのは今をよくするためである。過去に拘泥して、今を正せなければ、それは本末転倒である。(62-1)
戦争は、経済的問題が政治的問題に発展した上に起こる。戦争の根本には、経済的問題が隠されている。(62-2)
経済や政治の仕組みが上手く機能しなくなると人間は暴力的手段に訴えて問題を解決しようとする。それが戦争である。(62-3)
なぜ、統制経済や計画経済、全体主義国が破綻し、自由主義国が破綻しないのか。統制主義経済が破綻して、市場経済が破綻しないのか。
その謎の背後に、経済を動かしている法則が隠されている。それは単に思想と言うだけでなく、実利的な意味もあるのである。
政治体制も経済体制も、双方向の働きがあるから均衡するのである。双方向の働きによって体制に「お金」や人の循環運動を引き起こし、その循環運動によって体制を維持しているのが自由主義体制である。
一方向の働きだけでは、政治も経済も、力の均衡は保たれない。
故に、一方向の働きでは、体制は、均衡が保てずに、分裂してしまう。(62-8)
取引が経済的対称性を作り出しているのである。取引には、物と金を交換する事を通じて経済的価値をゼロ和に設定し、経済的価値を対象化する働きがある。
取引には、「お金」と「資源」、「資源」と「お金」の二段階で完結する。
一つの取引に於いて成立する。物と金の交換、金と物の交換という取引二重性によってゼロ和と作用反作用の関係が生じる。そして、その取引の二重性が債権と債務の関係を形成する。それが貨幣経済の均衡の源なのである。そして、市場取引によって生じるゼロ和と作用反作用の関係が「お金」の循環を生み出すのである。(62-9)
それに対して、統制経済や計画経済、全体主義体制は、貨幣や市場という間接的手段を用いず、直接的手段による分配に基礎を置いている。そのために、統制経済や計画経済、全体主義的体制は、物と金、双方向の働きが生じず、一方向的な働きしか働かない。そのために、経済の運動が、周期的運動や循環運動、回転運動にならないのである。
自由主義体制というのは、「お金」を循環させることによって分配構造が分裂し、階層化する事を防ぐことによって成り立っている。
統制経済や計画経済は、双方向の働きがないから一定方向の流れしか作り出せない。統制経済や全体主義体制は、単体では物やお金の循環運動を安定的に制御する事ができない。
故に、現在の統制経済や計画経済、全体主義体制は、循環運動をしている媒体に依存しないとそれ自体では、体制を保てず、求心力を失って分裂していく危険性がある。物資や資金の循環が維持されずに一方方向に流れ、それが経済に歪みや偏りを引き起こす危険性があるからである。歪みや偏りを放置すると社会は分裂し、階層化する。(62-10)
全体主義、統制経済、社会主義体制は経済的に階層化しやすい。(62-11)
資金がストックされる事は、資金効率が、悪くなる事を意味する。俗に、資金が寝ると表現される。
社会が経済的に階層化されると貧富の格差が拡大する。富裕階級は、資金をストックするようになる。階層化すると資金の運用に偏りが生じ、資金効率が低下する。(62-12)
貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって資源の分配を行った場合、資金の全体的な環流は起こらない。
労働力という資源を貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって分配する事は、個人とお金の環流が起きにくい。
階級が生じやすい、必然的に、社会変革は暴力的手段による事になる。(62-13)
生産と消費は非対称であり、それが計画経済や統制経済を困難な事にしている。(62-14)
資金がストックされる事は、資金効率が、悪くなる事を意味する。俗に、資金が寝ると表現される。
階層化すると資金の運用に偏りが生じ、資金効率が低下する。
社会が経済的に階層化されると貧富の格差が拡大する。富裕階級は、資金をストックするようになる。そのために資金効率が著しく低下する。
全体主義や統制主義経済は、国民的合意を背景に持つ施策でない、或いは、制度的な裏付けがない為に、経済を制御する事が難しい。(62-15)
全体主義や統制主義では、結局、経済問題も暴力的手段でしか解決できなくなるからである。(62-16)
全体主義、統制経済、社会主義体制と自由主義体制の整合性を取る事は難しいのである。(62-17)
経済体制が違うと経済紛争を抜本的に解消する事は困難である。
外交的な決着がつかなければ結局、暴力的手段に訴える事となる。(62-18)
経済とは、人々が生きる為に、創造物を分け与えることである。
それが神の意志なのである。つまりは、経済は神の行いである。
故に、経済の本質は分配にある。この点を第一に考えるべきなのである。(68-2)
国民に生きていく為に必要な所得を分配しておく事が前提である。
市場から生きていく為に必要な資源を収入によって調達することが前提となっているからである。(68-3)
経済の根本は、働く事、生きる為に必要な資源と、それを調達するための手段である。
生きていく為に必要な資源を調達する為に必要な所得を保証する事である。
その為には、公共投資を行ってお金を市場に供給することは有効な手段である。
しかし、公共事業で需要を喚起したら市場を活性化しないと財政は破綻する。(68-4)
市場を活性化する為には民間企業が利益を上げる必要があるのである。(68-5)
即ち、利益を上げるのは、公平な分配を保障することにある。
利益は、公平な分配を実現する指標でなければならないのである。利益は合目的的な指標である。
利益は、正しい目的のために、任意に設定されるべきなのである。
正しい目的に基づいて利益が設定されているならば、適正な利益を上げられなければ経済は目的を果たせない。利益は、手段なのである。(68-6)
利益は指標であり、相対的指標である。利益は、環境や状況、条件によって変わらなければならない。なぜならば、環境や状況、条件によって公平な分配のあり方は変わるからである。(68-7)
景気を良くするためには、収益を上げなければならない。なぜ、収益を上げなければ景気は良くならないのか。それは、収益は費用の前提だからである。費用こそ景気の鍵を握っている。費用を不必要に削減することなく、利益を上げられなければ景気は回復しない。
例え利益が良くても費用が一部の人間にのみ偏っていたのでは、本格的な景気の回復に繋がらない。なぜならば、お金は使われることで効用を発揮するからである。(68-8)
分配の根源は費用にある。適正な費用が維持されなければ、公平な分配は実現できない。
経済の本質は費用にある。
市場は成熟したら飽和状態になる。生活に必要な資源の量が確保されるようになったら量から質へと転換されなければならない。
量から質への転換は、規模から多様性へ、集中から分散へ、一般から個性への対する変化を伴う。
経済効率は、数量、単価、利益率、回転数、そして、所得によって測られる。市場が成熟してくると生産量は頭打ちになり回転数が低下する。適正な所得を確保するためには、利益率を上昇させる必要がある。生産の効率から、分配の効率が重視されるように市場は変化するのである。
市場は、日常品、必需品、消耗品から特注品、贅沢品、耐久品と言った付加価値の高い製品を重視した場へと変化していくのである。(68-9)
それに伴って労働の質が変化する。変化することによって所得を向上させるのである。
それが利益の源泉となる。単純な技術から特殊な技術や人間性を重んじた労働へと変化する。
それによって労働が単に生きる為の営みから自己実現の手段へと変質する。
工業品から工芸品へと比重を移していくべきなのである。
改造、省エネ、リサイクル、ブランド、そして、高級品、高品質品、高性能品な商品へと変化することで所得と生産性を調和を保つのである。
安い物は安く、高い物は高く。それが市場が成熟することの意味である。
エネルギー高価格、省エネ時代に突入しないかぎり温暖化問題は解決できない。大量生産大量消費型の経済は、資源の保護と言う観点からも、もはや成り立たないのである。
一番、悪いのは、無原則な競争。無原則な競争がもたらすのは、現代の経済の問題は、市場の荒廃である。(68-10)
競争が悪いのではない。競争の働きを明らかにしないままに、経済問題の全ての解決を競争に求めることが問題なのである。
競争を絶対視する事ではなく、過程や状況、環境、前提条件などを確認する事である。
なぜ、競争が必要なのか。第一に、経済的価値は相対的価値だからである。第二に、競争は変化を促すからである。第三は、相互牽制を働かせるためである。
適度な競争、節度ある競争は経済にとって不可欠である。しかし、規制なき競争は、競争ではなく戦争である。(68-11)
ゴルフでハンディを付けるのは公平さを保つためである。条件が変われば競争力も変わるのである。対等な競争を望むのならば同じ条件で競うべきなのである。
むろん、懲罰的な規制は不公正である。しかし、公正な競争を維持するためならば規制は悪いと決めつけられない。
劣悪な労働環境や条件で低賃金で働かされている国と同条件で競争することは人道的に見ても許されない。
先ず公平さを取り戻すことが条件なのである。(68-12)
今の経済は、暴虐である。
経済の問題は、心の問題です。金の問題でもなく、物質的問題でもない。
経済の問題は、最後には祈りになる。平和への祈りとなるのです。(68-13)
このまま放置すれば、世界経済は間違いなく破綻します。私が危惧するのは、その点だけです。
その結果、滅亡とは言わないまでも、戦争、飢餓、異常気象と人類は塗炭の苦しみを味わうことになる。
自分が死ねば、自分の思想の全ては失われるでしょう。自分の説が全て正しいとは思わない。
しかし、生きているかぎり、私は私の信念の基づいて行動する。(68-15)
人は神にはなれないのです。(68-16)
豊かさの追求、幸せの追求こそが経済の進むべき道なのです。(68-17)
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