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著書: 自由(意志の構造)上
はじめに
人は、なぜ、恋をするのだろう。たとえ、それが苦しみのはじまりだと知っていても。
報われる恋ばかりとは限らないし、又、どんな恋にしても哀しい別離の時が、かならず訪れるというのに……。しかも、深く愛すれば愛する程、別れは、人を深い絶望の淵へと追いやってしまう。それでも尚、人はだれでも、一生に一度でいいから、燃えるような恋をしたいと、心のどこかで願っている。
別れの苦しみから逃れようとして、恋心を捨て、快楽にはしり、あるいは逆に、禁欲に徹したとしても、それが、人間本然の自由を得たといえるのだろうか。私は、違うと思う。
たとえ、それが、絶望的な苦しみを我身にもたらすとしても、人を愛し、信じる事を忘れてしまえば、自分が、生きている真実をも否定してしまう事になる。人を信じ、愛する事によって、深く傷つき、たとえようのない苦しみを味わったとしても、傷つき、苦しむ事を恐れてはいけない。その苦しみや哀しみこそが、生きる真実なのであり、それを克服した時はじめて、人は、真の自由を我物とする事ができるのである。
結果を恐れ、決断や行動をためらってはならない。なぜならば、自由は、人に与えられるものではなく自分の手で勝ち取るものだからである。 丁度、時代は分岐点にある。混乱と混迷の時代、渾沌とした世紀、古い倫理観や世界観が崩壊し、新しい価値観や哲学が生まれようとしている時代、それが現代である。 この長い道程において、人々は、理想を忘れ、希望を喪失し、刹那的な快楽に一時の安らぎを求めようとしている。それが、麻薬のように人間の精神を蝕んでいくものだと知っていながらも。
人間は、自然との調和に苦慮し、あたかも自然は人間を峻拒しているかのように見える。歴史は血に飢え、現代は累々たる屍の上に築かれている。そして、未来は、不透明で、不確実な霧に包まれている。
我々は今、このような曖昧さの中で、来たるべき次の時代を、創造的な時代とするのか、破滅的な時代とするのかの重大な選択を迫られている。そして、人々は、新しい世紀を、新しい時代を、新しい秩序を築く為の新しい夢を、希望を、理想を狂おしい程に求めているのだ。
近代から現代への道程は、尊さの破壊の歴史でもあった。それは、古い因習や迷信を打ち破る為には、やむを得なかったにせよ、それが行き過ぎてしまえば、人間の心、翻って見れば、自分自身の生命の尊さをも否定してしまう事になりかねない事を現代人は忘れてしまっている。極端な禁欲主義が、世俗的な愛を否定するように、極端な快楽主義は、愛の真実を否定してしまう。禁欲的であるか、快楽的であるかの議論が、愛の実相から段々に乖離していってしまったのは、その議論が、愛とは全くかけ離れたところでなされていたからに過ぎない。愛という言葉を知っているからといって、愛という言葉の意味を知っている事にはならないし、愛の形を知っていても、愛の実相を知っている事にはならない。人は、人を愛する事によってのみ、愛の真実を知る事ができる。そしてそこに、神の真実があり奇蹟がある。
自由、これ程曖昧な言葉でありながら、これ程人の心を酔わせる言葉もあるまい。
ある人は、自由になる為にと称して、権力や富を捨て、禁欲的な生活に入り、又、ある人は、何もかも自分の自由にする為にと権力や富を求める。自由を維持する為にと法や制度を築く者がいれば、自由になるのだと法や秩序を破壊する者もいる。厳格な規律の中で自由な気持ちを持つ者がいれば、無頼な生活に自由な気分を見いだす者もいる。厳しい訓練や学習によって、自由になれると考える者がいれば、生まれながらに人間は自由なのだと唱える者がいる。人は、それを自由といい、自由なるが故に正しいのだと言う。しかし、多くの人が自由を標榜するわりに自由の意味は曖昧なままだ。
恋愛にせよ、自由にせよ、その本質は結果にあるのではなく、その決意にある。愛や自由の姿は、自己を取り囲む状況によって変化するが、その決心の確かさは不変である。それ故に、愛や自由に対する意志の強さは、その決意の強固さに由来する。状況は、その信念を表現する為の舞台に過ぎない。
あなたの人生は、あなた自身が創作し、演出し、演ずる一人芝居のようなものだ。そこでは、あなた自身が主役なのだ。だから、あなたの人生を良くするか、悪くするかを決定づけるのは、あなた自身である。ただ、人生の傍観者にだけはなってはいけない。それは、どんな悲劇よりも、どんな喜劇よりも、悲劇的であり、喜劇的である。
誰からも愛されていない、信じられていないと嘆き呪う者がいる。しかし、愛されていない事が、人を愛する事ができない理由にはならない。それに、自分が、誰からも愛されていないなどと、どうして知る事ができるのだろう。愛の真実は、愛される事にあるのではなく愛する事にあるのだ。
快楽主義にせよ、禁欲主義にせよ、それが主義として語られ、それのみを善とするのならば、それは、愛情とは無縁の、観念的な空論に過ぎない。時に、快楽や禁欲が倫理と同一な次元で語られているのを聞くが、倫理は現実であり、快楽主義や禁欲主義は、それが主義としてのみ語られる限り、それは、観念であり、非現実的なものである。自分が置かれた状況の内で、自分が、どう在るべきかを考えるのが倫理であり、その在りよう一つで、愛の姿も又、別のものとなる。故に、愛は、結果ではなく、その動機である。人を愛する事によってのみ、自分が愛されている事を知る事が可能となるのである。
古くから、政治や経済、そして、それにまつわる諸々の技術を、欲望や悪の根源と見放す見方がある。それ故に、政治や経済の実相について率直な意見を述べ、それらに対する現実的な施策を述べる事は、世に阿る事であり、計算高い事だと見倣されがちである。そして、あらゆるこの世の問題は、精神の高貴さによってのみ解決が可能なのだと思い込んでしまう。しかし、このような精神至上主義は、時として、人を狂気に走らせ、凄惨な状況を生み出す事がある事を歴史は証明している。
現代人は、心というものを久しく忘れているのではないだろうか。心だの精神などというと、封建的で神秘主義的だと言われ、非科学的だと考えられてしまう。魂とか、精神とかは、科学の名の下に、科学とは全く無縁なところで否定されてきた。しかし、人々は、心や精神的なものの存在を無視して、社会の改革だの、人生だのについて語る事がいかに無意味な事なのかを知っている。
政治現象にせよ、経済現象にせよ、そして自然現象にせよ、我々が知覚する個々の現象は、確かに相対的なものである。だからといって、あらゆる現象というものは、空しく、不実なものだと考えるのは早計な事だ。又、我々が知覚しうる現象が相対的だからといって、絶対的な存在を否定してしまうのも愚かな事だ。真実を知る者のみ、相対的な現象から、その背後に存在する絶対的なものの実体を知る事が可能なのだ。
故に、唯物的であるか、唯心的であるかといった議論は不毛だ。それは、それらが対象とすべき実体からかけ離れた観念的なものに過ぎない。我々が問題としなけばならないのは、政治、経済、精神、自然、そして神それ自体をどう考えるかではなく、何を信じ、それに対する対象と自分の在りよう、在り方の実相をいかにとらえ、どう方向づけていくかを考えなければならないのである。
女を抱く勇気を持つ必要はない。女に惚れる勇気さえあればいい。我々の相手は、生身の人間なのだ。生暖かい息をはく、血の通った人間なのだ。泣き笑う感情も心もある人間なのだ。そして、我々と同じ人間なのだ。真の勇気とは、移ろい易く生々しい現実に対し、独善的で短絡的な行動にはしり、それを正当化する事でもなければ、一人自分の殻に閉じ込もり身勝手な妄想にふける事でもない。あるがままの現実を、あるがままに受け入れる一方で、自分の心を素直に表現していこうとする意志の発現なのだ。
人は、なぜ恋をするのだろう。苦しむ為にでも、絶望する為でもあるまい。恋は、人に希望や自信をもたらすものだ。なぜなら、人の一生は、過ちや挫折に満ちているし、誰しもが、何かしらの醜さをひきずっているし、人を傷つけずにはいられないし、身勝手で我が儘だし、大き過ぎるし、小さ過ぎるし、高過ぎるし、低過ぎるし、長す過ぎるし、短か過ぎる。恋は、そんな想いや過去を燃やし尽くし、絶望や挫折感から解放してくれる。だから、人は恋をせずにはいられない。それが、生きている事の証であり、又、精一杯の自己表現なのである。そして、何よりも、自分を自由にしてくれるものだからである。自由や恋愛に対する憧れは、人間の魂の叫びなのである。
深夜、皆が寝しずまった後、一人、じつと耳をすましていると、いろいろな物音が聞こえてくるような気がする。遠くを走る事の音、人々のささめき、笑い声、叫び、嘆き。確かに、人間は、この広大な宇宙に比し、卑小な存在でしかないかもしれない。しかし、それは、自分の人生を諦める口実にはならない。死すべき定めも、投げやりな一生を送る事の口実にならないように、又、あらゆる迫害や弾圧も、人を憎む事の口実にならないように。
生きるという事は、気迫である。何ものかを集団で共有し、社会を生み出し、自然を相手に、何ものかを創造していく為には、自分自身を越えて、その何ものかを受け入れていかなければならない。人に恋をする事もそうだし、自由を求める事もそうだ。それは、その何ものかとの、そして、自分自身との闘いに他ならないし、それを克服しないかぎり、真の愛も、自由も得る事はできない。
自分の醜さ、脆さを直視し、現実の苦悩に正面から立ち向かい、相手の過ちに寛容に、そして、お互いの我が儘、身勝手に対し厳しく臨む時、我々は、この全宇宙を支配する何ものかと一体となる事ができるのである。人間は、水遠のドン・キホーテであるべきなのである。
生まれた場所も、時間も、育った環境も違う人々が、愛し合っていこうとする時、お互いを傷つけずにはいられない。だから愛は闘い。
自らが、自らの過ちに気がついた時、その過ちに負けて、隠したり、誤魔化すのではなく、自らを許し、その十字架な負いつづけていかなければならない。
愛や自由を求める事によって生じる苦しみ故に、この世を地獄と思うのは、生きる事の真実を知らないからだ。生きるという事は、その苦しみの中で、自分の不浄の魂を焼き尽くし、純粋の愛と自由をつかみとる事だ。この世を苦しみながら、それでも生きていこうとする気概こそが、その人をして、その人自身の殻をやぶり、自己の限界を越えて、自分以外の何ものかと融合していこうとする気迫を生み出し、その気迫が、自分を活かし、社会を、そして平和を創造する原動力となる。
愛の尊さを忘れてはいけない。愛の真実を疑ってはならない。どんな人間にも、人を愛する事はできるのだから、誰にも、愛されないからといって、人を愛せない言い訳にはならないし、自分を裏切ったから、迫害したからといって、相手を愛せなくなる理由にはならない。愛の尊さを忘れた時、人間は、生命の尊さも忘れてしまう。汝、愛せよ、そして、闘え、確かな愛は、愛する主体的な愛であって、愛される事を望むようなものでは断じてない。主体的であるからこそ、愛の尊さがあり、生きる尊さがあり、自由の喜びがあるのだ。
生きる事の切なさに、熱い吐息をはき、愛や自由を求める事を忘れ、受身の一生の中に安逸と快楽を見いだすのは、ただ、敗北したに過ぎない。もっと猛々しく、もっと雄々しく、人間は、常に、自由と愛を求める戦士でなければならない。
だから、私は、人を絶望させる為に、この書を書くのではない。まして、現実から逃避したり、つまらぬ繰り言でこの世を呪わさせる為にでもない。たとえ、人類が滅びる時が訪れようとも、その生命の一滴残らず燃え尽きるその時まで、人間は、未来を信じ、情熱的で、創造的でなければならない。人間は、今を生きている。人間は死ぬまで生きている。だから、今、自分の情熱も、生命も、愛も、燃やし尽くさなければ、残渣のような、後悔ばかりが残るからだ。
人間は、自分の死によって、自分の努力のすべてが水泡に帰すのではないのかと恐れながらも、現実の報に耐えていくのは、今、自分が生きているという事実の尊さ故ではないのか。絶望は死だ。傷つく事を恐れて、愛する真実を忘れてほならない。それが生きる事であり、自由になる事だからである。
これからの時代は、誰でもない、我々一人一人が築き上げていく時代である。誰一人、傍観者たりえない。これからの時代に対し、一人一人責任を持たなければならない。だから私は、新しい時代を、新しい世紀を、新しい理想を、社会を、築き上げようとしている者の為に、この書を送るのである。
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