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著書: 自由(意志の構造)上
第1部第2章第2節 自信と我執
自信を持って堂々と生きていきたいと思う。しかし、人の一生は迷いの連続であり、未来に確信を持てるものなどなにもありはしない。はやい話、明日の命すらわからない。自信をもって生きるという事はむずかしい。
しかし、自信がなければ生きていく勇気もわかないし、未来への希望も持てない。だいたい、敗戦国たる日本人は、人間としての自信ばかりか、日本人としての自信をも失っているのではないだろうか。
人間が、未来に向かって自由になるには、自信が必要である。人間、自信を失うと、他人のいいなりになったり、妄執の虜になったり、自己の主体性を失ったりする。
ならば、自信をもつとは、いったいどんな事をいうのであろうか。この節では自信について考えてみたいと思う。
A 自 信
自信とは、自己の存在に対する強い確信である。そして、この確信が得られないと、自己自身の主体佐のみではなく、他者の存在すら信じられない。人間不信の多くは、自己不信の変形なのである。
歪んだ社会で、自己の信念を貰く事自体むずかしい。よく常識や良識を守ればというが、その常識や良識すら時代や世代によって違う。それに人間は、自己の価値観で自己の正当性を主張するものだから、ますます混乱する。
事の正否善悪に、新旧老若の別はないのだけれど、では一体、何を君は信じているのかと聞かれるとはなはだ心もとない。言行一致しているかと聞かれると、なお困る。自信にみちた生き方をしている人をみると、憧れてみるが、心のどこかで馬鹿にしている。
真面目に、一つの事に打ち込んで生きてみたいが、いざ、そういう生き方をしようとすると、つい照れくさくなる。人生を斜にみて、ダラダラと世の中の動きに流されて生きているというのが本当のところだ。
人の生き方をどうこう言うまえに、自分に確信がもてない。そう、自信がないのだ。自分に忠実に生きようとして、人におまえは変わっているとか、狂っているといわれるのがいやなのだ。人から嫌われたり、仲間ハズレにされるのが恐いのだ。われながら情けない。
しかし、自分の本道において一生懸命になれないというのは悲劇だ。周囲の無理解に負けて、現実から逃避したのでは、なんの解決にもならない。そればかりか、周囲の無理解さを増長させるばかりである。その解決は周囲の無理解と戦う事である。自分は、常に真面目でありたいと思う。自分の目的や正しく思う事を堂々と主張する事。対象や目的に対して、誠実で真撃な真面目な態度、それはいつの時代でも正しい事である。
個性のある人とは、なにも突飛な行動をするとか、奇抜な格好をしている者、変屈、変人を指すのではない。その人間の持つ特徴が、当人がことさら意識せずとも自然と滲み出ているような人を言うのである。人は、ことさらに意識せずとも、千差万別、どこか必ずその人の特徴がある。そのような特徽は、むしろ、素直な行動や立ち居振舞の中に、自然と具わっているものである。個性的か否かは、その人間の主体性の問題である。ことさらに、他人との相違を誇示してみせるのは、むしろ、その人間の個性を圧殺してしまう事である。
真面目になれないのも、奇抜な格好をするのも、一つには、自信がないからである。人間が生きるという事は、ただ単に、外界の存在や自己を認識するといった受動的な態度だけでなく、その対象を、自分達にとって必要なものに転化していく能動的な態度をも必要とする。人間が社会の中で生活する為には、自己の主体性を、より積極的に表現していかなければならない。諸々な関係の中で活動するという事は、自己の存在を意識するというような消極的な態度ではなく、対象に対して働きかけるという積極的な態度が要求される。そこに、自信の必要性がある。
自己は、外界との関係を無視して生きていく事はできない。人間は、有形にせよ無形にせよ、外界から必要なものを摂取する事によって生命を維持している。第三者が、必要なものを与えてくれるのを待っていたのでは、生き抜く事はできない。必要とするものは、自分のカで勝ち取らなければならない。その為には、自己を外界に向かって積極的に表現し、主張していかなければならない。そして自己をただ意識するという消極的な態度から、自己を信ずるという積極的な態度への転化、それが、自己の表現や主張の下地となる。そして、その自己を信じるという事が、自信なのである。
自己は、自己を一般的な基準に調整しながら、自己の特殊性を追求する傾向がある。自己の認識ならびに生活は、外界に依存している。思惟は、外界の価値観や環境との葛藤を通して為される。日本人は、日本語で思考する。環境や習慣等といった外的状況は、その人間の生き方を決定つける重大な要因を持っている。そこに、自己を外的状況に順応させていこうとする、つまり、自己の一般化、標準化の傾向が生ずる原因がある。又、自己の個体としての存在、自己の存在感を得る為に、自己の特殊性への願望が生ずる。両者の兼合いがうまくいけば向上心に繋がるが、かみ合わないと劣等感や優越感の原因となる。
一般とされる基準系は、自己を取りまく限定された環境の標準、もしくは理想に置かれる。学生ならば成績のようなもの。しかし、この一般とされる基準系が、必ずしも自己の欲求するものと一致するとは限らない。そこに自己矛盾の原因がある。自己矛盾の解決には、環境を自己が適応できるように改革する事と、自己を環境に順応させる事との葛藤を通じて、自己と外界との関係を調和させる以外にない。仮に調和させる事に失敗した場合、その環境から離脱するか、主体性を喪失させる事になる。自己と外界との関係を調和ある状態にもっていく為には、自己の主体性に対する強い信念がなければならない。外界からの作用は、自己の持つ内面に反映される。故に、自己に対して外界は強い暗示を与える。そのような外界に対していかに自己の欲求を達成させていくかは、自己に対する信念の度合いによって決するからである。
B 我執
自己に対する認識が外界を媒介している事実は、自己をあやふやで頼りないものに錯覚させ、不安を生じさせる。そのような不安が自己を直接認識したいという気持ちを起こさせる。しかし、これは事実上不可能である。そこで、自己の代わりになる対象を探し、その対象を自己と同等に扱う事によって、その対象に自己の代理をさせょうとする。つまり自己の価値を対象に転移させてしまうのである。当然、自己の価値を転移させた対象に対しては、その他の対象に比べて、自己は執着する。時には、自己自身に対してよりも、その対象に対して執着する場合もある。文字通り、命より大切な存在なのである。そのような執着を我執と呼ぶ。しかし、自己の代理になるような存在は、自己以外に存在しない。
一生を通じて直接自分の目で見られないのは、自分の顔と背中である。自分が相手の事をどう思っているかはわかるが、相手が自分をどう評価しているか、本当の所わからない。確かに、鏡は自分の本当の姿を映し出していてくれると思うが、ひょっとして世界中の鏡はすべて歪んでいるのかもしれない、そんな疑惑が生じたら、人間は、ひどく不安になるだろう。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、人間は、絶えずそれに類した不安に襲われている。第一、鏡は自分の内面までは映してくれない。体臭や口臭というものは、自分では気がつきにくい。又、人と話している時の自分の顔をも解らない。人に笑われても、その原因がなかなかつかめない。そんな不安の中では、人間は生きていけない。故に、その不安を何等かの形で解消しようとする。一番いいのは、自覚をして自信を持つ事である。しかし、自己が間接的認識対象である為に、それも難しい。そこで、自己を象徴化し直接認識できる対象に転移する事によって、その不安を解消しようとする。そこに、我執の原因がある。
自己を転移する対象はなんでもいい。実在するものでも、しないものでも、目的自体が自己を象徴化するものであるから、別段問題にはならない。ただ、なるべくならば、直接知覚できて、安定したものの方がいい。その上、普遍的なものであるとなおいい。
直接知覚できて安定普遍な存在というと自然が一番いい。ただ、自然では、あまりにも漠然としている。そこで、自然を象徴化したものとして神が出現する。神を直接認識できる対象に転化しよぅとして、偶像崇拝が生ずる。又、直接認識できる対象となると、現実に自己の周囲に存在するものの方が、より具体的である。たとえば、金銭とか、宝石とか家族といった、直接、自分が触れたり見たりできる対象である。自己の存在を象徴化させ存在感を高揚する対象でもいい。地位や名誉、名声などがそれである。
自己を象徴化する対象だから執着心も強い。対象が信じられなくなるのは、自己が信じられない事と同じである。対象が失われてしまえば、自己の存在もあやうくなると思い込んでいるからである。自己と対象は、同格もしくは同等な存在だと信じているからである。
我執が高ずると、自己と対象との一体化を望むようになる。自己が二つ存在するのは甚だ不都合である。又、自己が意のままにならないのも、同様に困る。特に、自己を転移する対象として選ばれるものは、概して自己の利害とも密接に結びついている場合が多い。それ故に、自己を転移した対象を、所有もしくは支配したいという欲求が生じるのである。又、逆に、対象を所有できなかったり、支配できなかったりした場合は、対象に所有されたり支配される事によって、対象と自己とを同化させようとする。思想や神への盲従、夫や主人への忠誠がそれである。
自己は、あくまでも独立した存在である。自己の価値原点を、自己以外の存在に置き換える事はできない。価値は、自己が生み出すものである。意思決定は、自己の判断に拠るものであり、自己以外にその基準・尺度を生み出す事のできる存在は、存在しない。このような価値原点を他の存在に置き換える事はできない。自我や我執から生じた安定感は、仮の安定感、幻想にすぎない。それは、自己に対する虚構である。そのような虚構は、自己自身に対する背信行為であり、判断するカを自己から奪う結果になる。それが、他者に対する盲目的服従を生み出す原因となるのである。
価値原点とは、自己が判断を下す際の拠り所である。この価値原点の転移は、主体性の喪失を意味する。主体性を喪失した時、その人間の人間性も同時に喪失する。人間性の喪失は、人間を簡単に冷酷にする。自己の行為を正当化されると、人間は安心して、その行動をエスカレートしていく場合が多い。要するに、図に乗るのである。又、自己の価値観を失うという事は、つまり、善悪の判断が下せなくなる事である。仮に、善悪の判断を自分以外の人間に肩がわりしてもらった場合を考えると、自分自身で善悪の判断が下せないのであるから、どのような残酷な仕打ちでもその人間の言う事に従って、平然とやってのけるようになる。倫理観が麻痺するのである。戦争という異常な情況下で、殺人という行為が正当化されると、殺人が遊戯化される事があるというのは、よい一例である。自己の主体佐を喪失すると、自己を制御する事ができなくなる。それは、制動装置のない自動車のようなもので、甚だ危険である。
価値原点が、自己外にあるという事は、自己を量る事も、自己外の対象によってなされる事になる。仮に、自己を量る基準に、自分が達していないと、その人間は、自分は他の人問よりも劣っていると判断する。これが劣等感である。しかし、人間は、本来、自己善に拠って量られるものであって、外的表象から量られるものではない。故に、劣等感は、価値原点が自己外にあるかぎり、乗り越える事はむずかしい。もし、身体障害といったもので、自分のカで変える事ができない劣等感ならば、自力で克服する事は不可能である。故に、劣等感を克服する為のカは、自己内部になければならない。自信のある人間は、対象と自己との相互の関係の中に、自己のあるがままの姿をとらえ位置づけ、対象と自己の相互の働き掛けによって劣等感を克服していく。劣等感は、自己の主体性や自信の喪失につながる原因であるから、はやく取り除かなければならない。その為には、その人間が自信を持つ事と、まわりの理解を必要とするのである。
価値原点は強く自己を拘束するものであるから、価値原点のあるところに自己の存在を強く意識する。本来、価値原点は自己自身である。その為に、価値原点を自己外に設定する場合、その対象をなるべく明確で安定した存在に置く場合が多い。たとえば、国家とか思想とか神、時として個人に向けられる事もある。神とか思想は、象徴的なものであり、抽象的なものであるから、それを信じた当人にとっては普遍的なものである。何ものかを信ずるという事は、人間を強くする。判断に迷いが生じないからである。しかし、価値原点とは、判断における基準であるから、その対象に対して絶対の信頼を自己は持たなければならない。場合によっては、自己の存在を否定する事も含む。確かに、自己の価値基準を構成するにしても、外的対象に依存している。しかし、価値を構成する為の資料であって、価値自体ではない。自己の最終的判断は、常に、自己の側になければならない。地獄も極楽も結局は自分しだい。故に、価値原点は、自己内部に見いだすベきである。
なるほど、自己の独立を守ろうとしても、自己の存在を危険に晒す事があるかもしれない。しかし、それはあくまでも結果論である。それよりもむしろ、恐ろしいのは主体性の喪失である。価値原点を置いた対象は、当人にとっては、自分以上の存在なのであるから。その対象に対しては、自分以上の待遇を以て接する。その対象に対する攻撃は、自分に対する攻撃以上の憎悪を以て迎えられる。又、その対象を奪おうとすれば、その人間が、自分の存在を賭けて対立してくるであろう事を覚悟しなければならないであろう。それでありながら、その対象と自己が一体化する事はできない。これは、矛盾である。そこから生まれるのは、無謀な信頼であり、盲目的な服従である。盲信や服従はこのようにして生まれる。それでありながら、盲信や服従の原因は、当人にはわからない。理由のいかんを問わず、それは認識上の問題であり、感覚上の問題だからである。当人は、なぜ、その対象を信じているのかを知らない。それだけに恐ろしい。自分が自分でなくなってしまうのである。
我執や自我は、盲信、服従、支配、差別を生み出す原因である。我執や自我が、本当の自己の有り体を見失わせてしまうからである。自分で、自己の真の要求、姿を知らないというのは、人間にとって最大の悲劇だ。自己が真の自己の要求や姿を知る為には、自我や我執を捨てなければならない。自我や我執を捨て、赤裸々に自己本来の姿に立ち戻っていく事によって、自己の有り体は、自然に浮び上がってくるのである。
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