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著書:  自由(意志の構造)上


                  第1部第2章第3節 善と悪

 個人主義は、善悪の境を不明瞭にしたというが、私は逆だと思う。確かに、個人主義は紋切り型の倫理観を否定する事によって成立してきた。しかし、それは、既成の価値観を否定する事によって個人相互の価値観を育成する目的においてである。それまで公共の占有物であった道徳観を、各個人一人一人に解放したのである。つまり、以前は、自分の与かり知らぬ所で既に決められている価値観を唯一方的に強制され、それに拘束させられていた個人を、各自それぞれの経験や知識に基づいて新たな価値観を創造する事によって、より自由なものに解放したのである。それが近代と近代以前の善悪の在り方の大きな相違である。
 個人主義的な善悪で一番問題なのは、自己が善悪を知り得るか否かである。そして、それが個人主義的社会においては、一人前の社会人であるか否かの基準にもなる。故に、個人主義的な社会では、個々の価値観よりも、その人間の創造力の方がょり重大問題なのである。仮に、善悪の判断が曖妹だと思うのならば、それは、その当人の価値観が甘いのであって、個人主義が善悪の境を曖殊にしているからではない。むしろ、個人主義的なとらえ方の方が善悪の差をより明瞭に捉える。
 近代の歴史は、近代以前の古い倫理観の崩壊と、それに替わる新たな倫理観が形成されていく過程の歴史でもある。だが、それはまだ過程である。過程である為に、善悪に対する見解は不統一である。その為に、諸々の矛盾が生じる。
 本節の目的は、善悪の定義を明確にする事によって、それらの矛盾を解消するところにある。

 A 善

 あらゆる価値基準も、自己の存在に依存している。自己の存在を前提としないかぎり、すべての価値基準も存在しえない。いかなる価値基準も、自己が外界に対し主体的にかかわっていく過程で生じ、又、発展していく。故に、本来、善とは、自己善をさしていう。
 自己善とは、自己の内部にあって自己固有の善である。倫理とは、自己の行動規範で、善と悪との基準である。善とは、積極的に行うべき基準、是認されるべき基準であり、悪とは、抑止されるべき基準、否定されるべき基準である。この様な自己善は、絶対的規範ではなく、相対的規範である。
 他者善、又、公共の善は、観念的に存在しえても、実際には存在しえない。なぜならば、自己は、自己以外にはなりえない存在だからである。
 社会は、こうした自己善と自己善の葛藤の場であり、それ故に、人間が社会を形成する為には、暗黙であろうとなかろうと、社会を形成する構成員全員の合意に基づく法が必要となる。そこから、契約が生じる。
 法や教育、道穂、神は、このような社会の要請によって生じたのである。
 法や教育、道徳、神が、この本来の役割を失うと、法や教育、道穂、神といった社会の中で自己善を保護しなければならないものが、かえって、自己善を圧迫し、自己の主体性を破壊するものとなる。
 まず、自分が正しいと信じられる事、それが大切なのだ。自分が正しい信じられない事を強要された時、自己と善との一体感が損なわれる。その時、自己の主体性は分裂し、罪悪感が生じる。倫理的規範と行動規範が分裂するのだ。自己の絶対性、神聖が汚されるのである。
 善は、最初、学習によって形成される。善の原型は、幼児期の経験、教育、環境と、その人がもって生まれた性格や肉体的特徴を素に形作られる。このように形成された善は、さらに外界とのかかわりあいによってより洗練される。つまり、善は、年齢とともに変化成長するのである。
 戦争や亡国、抑圧といった異常な事態によって善が断絶、又は、分割されると、極端な場合、人格の破綻や分裂を引きおこす事もある。
 よく言われる事であるが、自己の善と他者の善は違う、人それぞれ個性がある。故に、本当の善というものを、自分は、はっきりと言明できないという意見がある。だが、その言い分には明らかに矛盾がある。人間にとって善や美といった価値判断や価値基準は、自己に根ざしているものである。つまり、自己内部にしかない。外部から強制されるような善というものは存在しないし、又、存在しえない。自己の善と他者の善との問には、直接的関係はない。自己にとっての善は、他者にとっての善とは違う。たとえ、他者がどのように言おうとも、善を必ずしも一致させる必要はない。仮に、相互の善を一致させる必要が生じたとしても、それは協議に基づいてなされるべきであり、一方的な強要によってなされるべきではない。誰がなんと言おうとも美しくないものを美しいという必要はない。又、自分が納得のいかない事を正しいと言う必要もない。必要もないのに善や美を統一しようとして、あえて事を構える必要もない。正しいと信ずる事を言ぅのに、臆する必要はないのである。後は、必要性の問題である。
 自己にとっての善とは、自己がいかに在るべきかという点にある。つまり、自己にとって最も望ましい人間の在り方が善である。このような善に対して、他者がこうあるべきだと示唆する事はできても指示する事はできない。善は自己の在り方を規定するものである。自己の在り方を規定する事のできる存在は、自己以外にない。
 善は、自己の在り方を規定し、自己が判断をする際の基準であるから、善を他者に掌握される事は、その対象への隷属を意味する。他者への隷属は、自己否定であり、自己の独立への重大なる侵犯である。故に、他者への隷属は、自己の主体性の喪失を結果的に招くものである。
 善悪、美醜といった判断程、自己の独立性を如実に物語っているものはあるまい。他人が美しいと感じる対象が、必ずしも自分にとっても美しい対象だとはかぎらない。善悪にしろ美醜にしろ、多分にその判断は、個人の経験や嗜好に左右される。それでも、自分にとっての美とは、自分が美しいとするものであり、誰が何と言おうと、美しいと感じさせた対象は断じて美しいのである。同様に、自分が正しいと思う事は、絶対に正しいのである。
 善を知るとは、おのれを知る事である。自己の真の姿、要求を知る事である。おのれを知らぬ者は、善を知りえない。自己を知る為には、自覚せねばならない。自覚をする事によって、善は段々に明らかになる。善が明らかになる程、自信は深まる。又、自己が対象との関係の中で認識されるものであるから、善も又、対象との関係の中で認識されるものでなければならない。このように、善は、唯、闇雲に自分が正しいと思ったからやったまでだといった言い分を許すものではない。自覚をせずに、自己のなんたるかを悟らぬ者は、善を語る事はできない。善は、純粋に自己の欲求を反映したものでなければならない。本当に、自分が正しいと信ずる事ができてはじめて、それを善と呼べるのである。故に、開き直りや現実への妥協を、善は許すものではなく、自己に対する厳格さを各人に求めるものである。
 善は、それまでの経験や教育といった外的環境からの作用によって醸造される。善に基づいた行動に対する外界からの反応が、自己内部に還元されて、善を修正していく。環境は、微妙な影響を善に及ぼす。それは、自己が間接的認識対象であり、善が、自家醸造的に形成されるのではなく、外界からの反応に基づいて構成されているからである。善を構成していく過程は、自己を知っていく過程でもある。それ故に、善は、自己の行動に対する厳しい批判を浴びる事によって、完成されていくものである。
 自己は、絶対的な存在であるが、善は、相対的なものである。善は、外的環境の影響下で構成されていく体系であるから、当然、外界の変化に影響を受けて変化する。故に、相対的である。ものの善し悪しにも、時と場所と場合がある。育ってきた環境やその人間の置かれている状況によって、その人間の判断の基準は、微妙に変わってくる。社会が変動している中で、普遍的な善を規定する事は、実質的に不可能である。又、そのような事をすれば、状況に応じた判断が下せなくなる危険性がある。又、新たな発見は、それまでの価値観を大幅に変えてしまう。善は、以前考えられていたょうな普遍的なものではなく、相対的なものである。だからといって、結果論的に自己の行動を正当化するようなものを善と呼ぶのではない。善は、あくまでも望ましい在り方を体系化したものであり、判断の基準となるものである。そこにあるのは安直な情否定や現実への妥協ではなく、前進的なものであり、状況を越えようとして構成されていくものである。故に、善は、自己に対する徹底した探究を自己に課するものである。
 善は、自己が生み出すものである。自己の生み出すものは、不完全かつ相対的なものである。故に、善も不完全かつ相対的なものである。自己の主体性は絶対なものであるが、自己が生み出すものは、たとえば、善だの美だの目的などは不完全であり、相対的である。それは、自己の対象認識が不完全だからである。善や美や目的は、状況に応じて変化する。故に、善や芙や目的を絶対視するのは間違いである。善や美や目的は、不完全な認識に基づいて形成されるからである。故に、そのような善や美や目的に対する判断は、自己一人の判断に頼らず、第三者の意見を充分に参考にすべきである。
 善は、構造的である。構造とは、いくつかの部分、又は要素が、作用もしくは運命、目的の内の一つを共有する事こよって相互が連繋されている集合体をさす。善は、各要素が自己の在り方を規定するという目的によって、強く結びつけられている一つの体系である。故に、善は、構造の全条件を満たしている。構造に関しては、くわしくは次の部に述べる事にしてここでは省略する。
 なぜ、公共に善が存在しないのか。存在しては困るからだ。公共の役割は、個人の身分ならびに生命の保証を前提とし、共通の利益の追求と利害の調整を目的とした構造に限定した方がいい。公共は、自己を超越した所に存在する。仮に、公共の善と自己が対立した場合、公共の善によって自己の善が抑圧される公算が大きいからだ。よしんば、自己の善が抑圧されなくとも、それは同時に公共に対する抵抗を意味するからだ。又、公共の善は、善の持つ厳格さを不当に和らげ、その行動を不必要に増幅する作用があるからだ。現に、戦争等において、適当な理由をつけて暴力を正当化し、他民族や個人を暴力によって支配、侵略し、掠奪残虐のかぎりを許した過去がある。仮に、暴力が許されるとしたらそれは、抵抗か防衛においてのみだ。公共において正当化する事は、免罪符を持った行為に錯覚させる危険性がある。それでなくとも、善が二つあるのは、よろしくない。善は、やはり一つに統一すべきである。善が公共に還元された場合、自己の善が不当に抑圧され、結果において自己の善を空文化させる危険性が大きい。それは、公共への自己の隷属である。隷属関係は、自己の主体性によって抵抗される。隷属関係の存在する社会は、統制できない。これでは、公共の目的を逸脱する。自己は、自己の善によって規制させた方が統制しやすい。公共の利害に反した者だけ罰すればいいのである。故に、公共は機構に自己は善に還元させるべきである。
 その際に、自己の善と対象の反応は、作用反作用の関係にある事を忘れてはならない。暴力を善とするものは、対象から暴力を以て迎えられるという事である。そこに、自己の責任性がある。
 美とは、感覚的な自己善である。自己善を体系的に論証したものが思想であり、具体的な像としてとらえたものが理想である。学問は真理を探究するものであり、芸術は真理を表現するものである。学問や芸術から真理の二字を除いてしまったら、学問も芸術も成立しない。故に、思想と学問は善的であり理想と芸術は美的である。
 人間は、善に基づいて生きるべきだ。見せ掛けの華やかさに惑わされてはいけない。善は、本当の意味で人間を強くする。それは、自分で自分の事が信じられるからだ。本当の喜びを喜びとし、本当の悲しみを悲しみとする。それが人間の在るべき姿だ。それは、善を善とし、悪を悪とする事ができた時、達成できるのだ。

  B 悪

 悪は、善の逆の意味だと簡単に規定する事はできない。悪は、もっと複雑な意味を持っている。私は、悪を善を阻害するものと定義する。善を知るとは、自己を知る事である。自己の真の姿、真の要求を知る事である。自己に対する認識は、外界に依存している。自己の要求や姿も外界の反映像を受けて構成される。外界が歪んでいたのでは、自己の真の姿や真の要求を知るのは困難な事である。種々の要素が複雑に絡んでいる現代に、自己の真の姿をつかむのは神技にちかい。善は、自己の反映像の変化を受けて微妙に変化する。当然、健全な環境は、健全な善を生み、不健全な環境は、不健全な善を生む。不健全な善とは、すなわち悪である。又、自己の真の姿を歪めて反映する環境や対象も悪である。悪とは、自己の内外部に関係なく、自己を惑わし、誤った方向に自己をいかしむるものをいう。
 外界を歪めるのは、人為である。又、外界を是正するのも人為である。人為というからには、自己も含まれる。人為が、なぜ、外界を歪めるのか。それは、自己の認識が不完全だからである。しかも、自己に対する認識は、自己が間接的認識対象であるから、二重に不完全になる。不完全さは、必ず悪を生み出す。このような社会の歪みは、不完全な社会を破壊して、新たな人為を生み出す。こうして、人間の社会は、完全なものに近づいていく。人為とは、つまり、人間の創造である。故に、悪は、人間の作り出したものである。悪は、人種差別、階級、富の不均等等といった人間の関係のあるものである。そして、そのような悪は、新たな人間の創造によって克服されなければならない。
 悪を知らぬ者を罰する事はできない。なぜなら、彼は悪を熟したと思っていないからだ。善悪を知らぬ者は、賞罰に怯える。なぜなら、彼にとって、賞罰が善悪に代わる価値基準だからである。悪を正すとは、悪を知る者にのみあてはまる。悪を知らぬ者には、悪を正しようがない。善悪を知らぬ者に賞罰を与えるのほ無意味である。与えられた賞罰を量る基準を持たないからである。故に、悪を正す前に、悪を知らしめなければならない。罰せられなかったから正しいのだという考え方を捨てさせるべきである。善悪を知らぬ者を成人として、社会人として扱う事はできない。善悪を知らぬ者は、自己の行動を律する事ができないからである。自己の行動を律する事ができなければ、社会の中で協調して行動する事ができない。故に、善悪を知らぬ者を成人として社会人として認める事はできないのである。
 人種差別、階級、富の不均等といった不平等は、人間に対する不当な抑圧を強いる事や社会に不健全な階層をつける事によって、自己に対する認識を惑わす原因である。故に、不平等は悪である。対象界には、不平等はない。人間の体の中で、優れた場所、劣った場所といった区別はない。動物に、上等な動物、下等な動物といった区別はない。区別を生じさせるのは認識君側である。差別は、さしたる根拠もなく人を隔て、人と人との健全な関係を断つものである。人間を不必要に分かち、人間社会に不当な階層を創る者は、認識上の作用反作用の関係から、自己の存在を侮蔑し、分かつ者である。人を差別する者は、自らも差別される。差別は、外界に大きな歪みを生じさせ、同時に、人間関係の調和を乱し、自己を惑わす。故に、不平等はなくさなければならない。
 不当に、自己の自由を抑圧する者は、自己と対象との問の関係を乱し、正当なる自己認識を阻害する。故に、悪である。不自由は、対象と対象に対する認識ならびに判断の間に介在するカによってもたらされる。認識ならびに判断に対して不当な圧力を加える事によって真の認識ならびに判断を阻害する。心にもない判断や行動を強いられる事に対して人間は、不自由さを感じる。主体性を抑圧するような教育は、不自由な教育である。善は、多分に経験的な要素が強い。自己の経験を通して自己を知る。つまり善を知る。教育とはそれを受ける老が、行き過ぎないように見守りながら、その素直な好奇心をのばす事によって、より多くの経験を積ませる事である。一方的に自己の見解を押しっけて相手の積極的な態度を抑圧したり、相手の好奇心に答えようとせずに、相手を無気力にしてしまうのは、むしろ非教育的である。教育とは、与える事ではなく、引き出す事である。不自由さとは、人間の素直な成長を阻害したり、正直な主張を歪める事によって生じる。確かに、広い意味での不自由さとは、自己の限界を含むが、越えられない限界を問題にすべきではなく、越えられる限界を問題にすべきである。その意味で、不自由の原因を取り除く事のできるものから取り除くのが、先決である。
 盲信、欲望等といったものを生み出す原因である我執は、自己の実像を見失わせ、自己に対する認識を誤らせる。故に悪である。我執は、明らかに利己的なものである。我執は、自己と対象との諸々の関係を忘れさせ、自己の思い入れだけに自己の注意を集中させる。当然、自己と対象との関係を無視して、自己の主張だけを押し通そうとする。そのような事を、自己主張だと錯覚している向きがあるが、それは、自己の真の姿を知ろうという努力を怠っているに過ぎない。つまり、我が儘だ。相手の立場に立とうとせずに、自分の趣味を押しっけて、思いやりなのだと得々としているのは、質の悪い思い込みである。名声は、自分の名が広く知れ渡る事によって、自己の存在感を高揚させるものである。名前は、自己を象徴化させたものであるから、社会に自分の名前が知れ渡る事は、特に、自己の存在感を高揚させ陶酔させる。自己が直接、接触できる範囲は限定されている。自己を正確に伝播できる範囲は、極く、限られている。名声に対する評価のほとんどは、当人に対する憶測であり、虚像である場合が多い。噂や名声から拭えられた像は不正確なものである。それでありながら、異常に存在感を高揚させ、相手の偏見に抗しきれない場合が多い。故に必要以上の名声は悪である。盲信は、対象の意味や名を無条件に受け入れる事である。思想は常に生成発展の過程にある。盲信は、対象認識の発展をさまたげ、対象の真の姿を見失わせる原因となる。どのような思想も意味も、人間が創り出すものであるから完全ではない。故に、誰のものであろうと、対象に対する自己以外の者の認識を無批判に受けとめるような態度は、厳しく戒められるべきである。自己以外の者の見解は、一方において批判的に受けとめながら、それを自己内部に消化させる事こそ肝要である。思想や偶像を無批判に受け入れるような盲信は、すなわち悪である。執着は、対象に自己が囚われていく事をさす。つまり、自己の対象への転移、一体化の結果であるから、執着心は、自己の行き場を失わせ、誤った方向へ進ませる。執着心は、盲信、差別、不自由等を生む原因である。故に我執は悪である。
 人間の社会は、自己の認識を支える要である。人間は、自己と社会、自己と自然との掛わり合いを通して、自己を知り、善を形成していく。人間の思想は、自己の経験と周囲の環境によって育まれる。自己は、経験と環境から学び、成長していくのである。このような社会に、自己と対象との関係を歪めるようなカが存在しては、自己の成長も歪められてしまう。鏡が平板でなければ、対象を正確に反映できないように、社会も平等でなければ、自己を正確に反映する事はできない。
 遊園地に行くと、よく鏡の部屋のようなものを易かける。部屋の内部は、いろいろな鏡で仕切られている。歪曲した鏡の曲面の上に映し出された自分の像は、日頃、平面鏡に映し出されて見慣れている自分の姿とは似ても似つかない代物である。それでも、我々は平生、平面鏡に映る自己の像を見ているし、鏡の原理もある程度知っている。だから、そこに映し出された像は、不自然に歪められている事を知る事ができる。だが、鏡の原理も知らず、平板な鏡も持たず、話し相手もいないとしたら、我々は、いつまで自己を見失わずに冷静でいられるであろうか。
 現代は、まさに鏡の部屋だ。悪の存在する社会において、自己を正確に把握する事はむずかしい。それは、丁度、歪んだ鏡ばかりの世界では、自分の本当の姿を知る事が困難であるのと同じ事である。醜く歪んだ自分の姿は魔的であり、人間を眩惑する。人間は、誤った認識から生じる自己の虚像と自己の真の要求の中で、迷い、苦しみ、そして生きている。その中で、人間がみずからに課す最初の要求は、自己をあらゆる角度から投映し、自己の笑像を模索しつづける事である。自己を内省し、反省し、批判しつづける事である。人間は、現実との闘いの中で、自己の真の像を勝ち取っていかなければならない。
 現実との闘いの中で、人間は、病み、疲れ、挫折していく。そこに、悪に対する妥協の誘惑が潜む。悪の存在する社会に生きる者は、自立しなければならない。現実は、自己に妥協を求める。悪をどのような形にせょ肯定するように迫る。そして、妥協した人間は、罪悪感から他者へ、妥協を迫るようになる。悪は主体佐を侵す。主体性を侵されたくなければ人間は自立しなければならない。自立せぬ自己は、社会を腐敗させ、悪を育む。やがてはみずからも悪となっていく。自立せぬ自己は自己の善を持たないからである。善を持たぬ者は、何事に対しても罪悪感を持たない。
 悪を退治するには、自己の内部に存在する誤った認識を正し、社会の歪みを修正する事である。与えられた環境の中で最善を尽くすとは、環境をそのまま受け入れ、その環境に甘んじる事を意味するのではない。与えられた環境を土台にして、積極的に環境を変革していく事である。常に、我々は、自己内部と外部とに同時に働き掛けをしなければならない。どちらか一方に対する働き掛けだけでは、悪は克服できない。
 悪は、人間を誤った方向に歩ませ、ひいては破滅させる。悪は、個人の主体性を喪失させ、人格を破綻させる。そして、悪は、人間と人間との関係を断ち離反させる。そして悪は、社会の株序を乱し、調和を崩す。このように悪は、社会にあって、社会の矛盾や問題の原因である。地上に悪が栄えるかぎり、人と人との不和、憎しみ、怨恨の種は尽きる事がない。悪は、地上から除かれなければならない。


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