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著書:  自由(意志の構造)上


                  第1部第2章第4節 意志と欲望

 豚に真珠、猫に小判と言う通り、豚や猫は、真珠や小判の為に争いはしまい。果たして、人間と豚や猫のどちらが、真珠や小判の真の価値を知っているのだろうか。欲望の為に人間は死ぬ。又、信念に殉ずる。いったい何が人間にそうさせるのか。
 人間の社会は、修羅だ。欲望の坩堝だ。どろどろとした業と欲の渦の底に、無気味に死が横たわっている。欲望は、人間から理性と平衡感覚を奪う。そこにあるのは、憎しみと争いだけだ。死への予感は、現実への妥協を迫る。欲望は、悪の根源だ。そして、生々しい現実だ。それは、意志や信念に対する悪の挑戦でもある。現代は欲望の時代である。そして、又、意志の時代でもある。死を予告される事によって、自分の生活が変わるような生き方を、私はしたくない。それは、死への予感との闘いである。そこに、意志があり、信念がある。欲望の時代程、意志や信念を要求される時代はない。
 自由は、意志を前提としている。人間の解放は、人間諸個人の意志を信頼する事によって成立したからである。だが、我々は、いかに自己の意志を守るのが困難な事かを知っている。そして今、時代は意志の時代へと移行していこうとしている。解放された人間の情念は、意志なくしては自律性を失い堕落していく。社会は、その時、みずから瓦解していく。決められた株序を守るのではなく、自分達のカで、新たな秩序を生み出すのだ。それが、意志の時代であり、俺達の時代なのだ。破壊の時代から創造の時代へ。それが、人間に許された唯一の希望だ。自由、それは、一つ間違えば人間を絶望へと破滅へと誘う。
 欲望にせよ、意志にせよ、夢想的なものではない。実社会的なものだ。だが、現代は、その欲望も意志も、夢想的な彼岸へと追いやってしまった。人間の生々しい感情が、無梯質な価値尺度に還元される事によって、無機質なものに変質してしまった。愛情や怨念ですら、どこかのショーウインドーの片隅に無表情に飾ってあるような気がする。それは、商品なのだ。的屋で、豚肉や牛肉の問にはさまって人間の心臓が売られていても、なんの不思議もあるまい。そこでは、人間は、ただの物体なのだ。わからない事は、わからない。それを素直に認めようじやあないか。わかったつもりになってはいけないのだ。信念や情熱だといった言葉が、欲望といった言葉が、どこか空々しく空疎に聞こえ、生々しい実感が伝わってこない。違う。違う。人間は生きているのだ。知的領域の拡大に伴って、生命といった、まだ人間が解明できない問題までが解明できたと錯覚したからだ。それは、丁度、バベルの塔を構築しようとした人間共の愚かさと同じ愚かさである。科学は、現代のバベルの塔である。我々は、今一度、欲望や意志を考え直す事によって、感情の持つ生々しさを取り戻さなければならない。
 明日の死に思い煩うよりも、今日の生を信じるべきだ。

 A 意志

 意志は、善や美に対する志向を意味する。つまり、意志とは、善や美を成就させたいという願望であり、要求である。善は、状況に応じて目的を自己にあたえる。目的は、自己に目標をあたえる。自己は、目標があたえられる事によって、自己を制御する事が可能となる。善は、自己に自律性を生じさせる。そして、目標に向かって自己を調節しょうとするカが意志である。善は、自己内部に基準、つまり、判断の中心をあたえる。基準を与えられる事によって価値観に位置を与える事が可能となり、決断力を自己は有するようになるのである。
 経験や知識によって、自己は価値体系を構成する。その価値体系によって自己は判断し、決断をして行動をする。その行動の結果を反省し、自己は価値体系を再構成する。このように、自己は、一連の思惟の循環を繰り返しながら善を完成させていく。
 意志は、行動の方向を示すものである。善は、絶えず変化している。そうした善の変化に対応しながら、行動の指針となるのが意志であり、行動の一貰性を支えるのが意志のカである。自らの進むべき方向を示すのが意志である。意志の赴く所我行かん。
 善は観念的なものであるから、善の個々の要素を命題化して、その真偽を、現象的なもののように、多人数の問に了解させるのは、困難な事である。善とは自己的なものである。善から生ずるものは観念的なものである。目的や目標も、当然、観念的なものである。故に、意志は、観念的なカである。意志は、目標に対する向心カであるから、目標に対する信念の強さが、意志の強さでもある。
 人間は、自己の善意識に基づいて行動する事を欲する。人間にとって自己の善意識に背いて行動するのは苦痛である。自己が悪になるからである。自己が悪になる事は、人間にとって耐えられる事ではない。善意識に基づいて自己を修正しようとするカが働く。そこに、人間の意志がある。
 意志には、自己を向上させ、高揚させるカがある。それは、意志が、善意識に基づいたカだからである。意志は、精神、心理上における平常感覚である。故に、意志は、自己の精神的独立を維持し、主体性を発揚させる力である。又、意志は、善意識によって自己の精神を洗浄する。悪と善との相剋の中で、自己を研ぎ澄まし、より確固たる存在に自己を先鈍化するものだからである。人間は、このように意志によって磨かれる。
 悪の存在する社会では、自己の善を維持するのが非常に困難である。自己の善を維持する為には、強靭な意志のカを必要とする。歪んだ社会に映る自己の像も、やはり歪んでいる。歪んだ像から自己の実像や真の要求を汲み取るのはむずかしい。そうした社会では、人間は、ともすると自己の信念を曲げ、節を屈し、現実に妥協しがちである。歪んだ像しか見る事のできない社会では、自己を信じ、善に信念を持ち、独立を維持するのは、大きな恐怖や不安をともなうものである。人間は見せ掛けの快楽に脆く、悪に染まりやすく、真の快楽を見失いがちである。不正な社会は、自己自体を歪めようとする力が自己に対してかかる。自己の善と公共の利害が一致せずに対立するからである。人間が社会の一員としてしか生きていけないのならば、人間は、自己の善にしたがって社会を改革していくか、現実に自己を妥協させていくのかの、二者択一を迫られている。
 戦争や飢饉といった異常な情況下では、自己の善を守ろうとした場合、自分の生命や生活を危険に晒す事を覚悟しなければならない。相互扶助をたてまえとしても、差別社会では統一した行動をとる事自体がむずかしい。あちらをたてれば、こちらがたたず。門閥が幅をきかせる社会では、どれ程実力のある人間でも、社会的に認められる事は少ない。異常な情況や、不健全な社会の下では、自己の善を完遂する事は困難である。自己の善を完成するためには、異常な事態が起こるのを未然に防ぎ、不健全な社会を健全な社会へ積極的に改革していく必要がある。不健全な社会を、健全な社会へ立て直したいという願望、それが意志である。
 自由な社会とは、自己の善が公共の利害によって妨げられないような社会をいう。しかし現実の社会は、不自由な社会である。不自由な社会で善を履行しょうとすれば、諸々の社会からの圧力を加えられる。公共の利害と自己の善を自由な社会へ止揚するカが意志である。社会的な圧力と戦いながら、自己の善に基づいて健全な社会を建設するには、強靭な意志を必要とする。
 観念の領域で語れるのは、観念によって生じた個々の命題についてではなく、観念を生じさせるものについてである。
 意志は、自己の平衡を保つ作用がある。不安や恐怖は、自己の心理的平衡を失わせ、精神を錯乱させる。意志は、自己から不安や恐怖を取り除き、精神の安定を計り、冷静さを保とうとする働きがある。自身を制御し、保存し、維持する。それが意志である。自己の独立は、自己の安定度の高さによって維持されている。堅牢な意志は、自己の安定度を高くする。安定を失った人間は、自己の主体性を喪失する。自身が本来なさなければならない事を、たとえば、思考や決断等を自己以外の者の手に委ねてしまう、平たく言えば、他者に隷属する。意思決定は、自己の運命を左右する大切な行為である。意思決定を手離してしまうと、自己の存在、生命すら自分自身のカで決定づける事ができなくなる。自分の意志に背いて人を殺したり、死地に迷い込んだりする。又、自分の行動に自信が持てなくなり、責任が負えなくなる。自分のした行動に対する責任は、どのような場合においても当人が負わなければならない。他人の命令に従ったにせょ、脅かされたにせよ、又、騙されてした行為であっても、その行為の結果に対する責任は、当事者にある。その責任を他者に転嫁する事はできない。このように意志は自己の全体の調和と平衡を保つように作用し、自己の責任性を明確にする。
 意志は、自己自律をもってその最大原則とする。自己自律とは、自己制御、自己規制をもっていう。自分の問題は、原則として自分の手で処理をする。あらゆる意思決定、行動は、自己の価値判断に基づいて行なう。そして、自己の行なった行動およびその結果に対し、自己が責任を負わなければならない。自己の身の処しかた、行為行動は、自己善の下に決定されなければならない。これが、自己自律の原則である。
 絶望は、意志を喪失させる。自律の可能性をなくすからである。意志を喪失させたものは、善悪の判断を下せなくなる。善悪の価値観が存在しても、善悪の価値判断を下すカを持たないからである。善悪の価値判断が下せない人間は、当然、自分の行動に責任が持てなくなる。自分の行動に責任が持てなければ、不安が増し、自己の所在も曖妹なものになる。自分に対する不安は、他老への隷属に対する願望を潜ませる。責任のない地位につくかわりに、その人間の命令に従う。このようにして、隷属や服従が生まれる。責任の回避である。そして、それは、自己に対する絶望がそうさせるのである。人間は、生きているかぎり絶望する事はない。又、してはならない。それは、他の人問を絶望に導くものだからだ。
 意志は、自己を位置づける事によって生じる。つまり、善の成立によって、同時に生じる。善に対する信念の強さが、そのまま、意志の強さである。意志は、善をより明確に、より体系的に意識する事によって、より強く柔軟にする事ができる。人間は、善を意識する事によって絶望を回避する事ができる。善を意識する事の薄い人間は、それだけ、意志も信念も弱い。善は、自己内部に価値尺度をあたえるものであるから、善を体系的に娩定できれば、それだけ長期にわたる展望も開け、行動自体も安定してくる。善を意識できない老は、行動が刹那的であり、退廃的である。自己を位置づける事ができれば、おのずから自己の進むべき道も明らかになり、自然と意志も強固になる。
 意志は、自己を安定させ、豊かにする。寛容な精神や、他人に対する思いやりは、強硬な意志によって生み出される。意志のない人間は、誇りも情熱もなく唯醜悪なだけだ。意志は、人間の精神を浄化し、自己の独立を守る。人間の意志の崇高さはそこにある。人間が善に向かい、あらゆる困難を克服して理想を成就させる原動力は、意志である。自己を維持し、保存するカは、すべて意志のカである。意志は、社会の中で生きる為にも、又、自然の中で生き抜く為にも不可欠なものである。そして、意志によって、人間は浄化・純化され磨かれていくのである。

 B 欲望

 俗にいう欲望は、大別すると二種類に分類される。一つは、生理的欲求から生ずるものであり、今一つは、精神的欲求から生ずるものである。
 生理的欲求とは、食欲、排泄欲、性欲等をさしていう。食欲、排泄欲は、自己の生命を維持するために不可欠な欲求であり、又、性欲は、種の保存のために不可欠な欲求である。生理的な欲求自体には問題はない。むしろ、不可欠な欲求である。問題は、精神的な欲求から生ずる欲望である。ただし、生理的欲求は、精神的欲求の原因となる場合があり、厳格な禁欲主義者は、生理的欲求の一部をも否定する事があるが、私は、生理的欲求を否定する必要は、まったくないと思う。生理的要求は、自然な要求であるし、環境を改善すれば、欲望化するのを防げると考えるからである。
 問題なのは、観念的欲求から生じる欲望である。精神的な欲望は、観念的な欲望でもある。自己の存在感に対する執着心が生み出したものである。自我や我執が原因となった欲望である。我執が高じたものと考えていい。それ故に、我執の持つ性格がょり強い形ででる。欲望は、自己の像を歪める強い内的なカである。外界からの作用に対する内的反作用である。故に、欲望は悪である。
 観念的な欲望には、大別すると生存欲と自己顕示欲、所有欲の三つに大別できる。
 生存欲をのぞいた他の欲望は、高じると自己の存在をも否定してしまう。生存欲も、時には、結果的に自己否定につながる場合がある。
 生存に対する脅迫は、直接的な形であらわれる。飢餓や戦争は、常に、自己の存在と自己善の同一睦への脅威として存在する。そんなに極端なものでなくても、自己と自己善とは、経済的理由や社会的理由によって圧迫をうけやすい関係にある。又、生理的な欲望や過失による結果の代償として、自己善は常に危横にさらされている。しかも、それが生きる為に、生きたいが故にという自己の生存欲にかかわる理由であればある程、自己の行為を正当化しやすいものである。しかし、一度、このような理由で自己の行為を正当化すると、自己善は、その存在意味を喪失してしまう。
 生きるという事は、それ以前に自己の存在を前提としており、ただ生きているという消極的な姿勢ではなく、自己を活かさんが為に生きるという強い意志の現われである。生活とはそういう事なのだ。生きる為にという理由で、自己の全人格を否定するような行為を正当化する事はできない。キリストは、自己を活かす為に十字架に掛かったのだ。
 生きるという事は、自己実現の為の前提であって、自己を正当化する為の口実ではない。故に、生存欲が自己を否定するような形で現われた場合は、これを否定しなければならない。人は、パンのみの為に生きるのではない。
 自己が、間接的認識対象である故に、自己に対する存在感の強弱は、外界からの反応に頼らざるをえない。外界からの反応が弱ければ、自己に対する存在感も薄く、自己の存在にも不安を懐く。そこに、外界から自己に対する強い反応を望む欲求が芽ばえる原因が潜む。皆に認められたい、注目されたい、きわだちたい、そんな欲望が、自己願示欲である。もちろん、そんな欲求も、受けとりかた一つでは、自己の向上精神に昇華させる事も可能である。だが、人間とは弱いものである。自己の存在感をより具体的なものとして保証される事を求めてしまう。自己の偶像化である。存在感をより具体的なものに転化した時、差別や階級が生じる。地位や名誉、名声は、自己の存在感を象徴化したものである。自己顕示欲は、いうなれば、有名に対する欲望であ人る。自己を必要以上に表現、主張する事によって、自己に対する外界の反応を増幅させる事を犯った行動を、自己顕示欲は誘発させる。外界からの反応は、どのようなものでもよい。それは、いいものに越した事はないが、たとえ悪評であっても、自己琴が欲はいくらか満たされる。騎がれればいいのである。自己顕示欲は、そういう意味では、確かにマゾヒズム的である。
 自己顕示欲は、自己の特殊佐への願望である。自分は、他の人問とは違う。自己と他者との差を誇張する事である。自己と他者との相違は、劣等感にせよ、優越感にせよ、自己の存在を際立たせる。特殊性への願望は、希少佐に対する願望でもある。しかし、本来人間にとって大切なのは、一般的な性格である。人間は、水面下の氷山に注意を払わない。しかし、真に重大なのは、水面下の氷山である。日常生活は、それ程刺激的なものではない。平凡で単調なものだ。人間は、刺激が多く、非凡な生活よりも、平凡で単調な毎日の方が過ごし易い。絶えず緊張を強いられ、落ち着きのない日々は、人間を精神的にも、肉体的にも疲弊させる。ただ、それだけに、人間は平凡な日々には退屈し、刺激の多い日々に憧れる。結局は、程度の問題である。人間の円満な成長は、一般性と特殊性の過不足のない平衡の上になされる。特殊性ばかりに注目するのは、この平衡を破る危険なものである。
 自己の存在感を異常に高揚するものは、自己の像を歪める。故に、悪である。自分に対する評価は、自分の持つカに相応なものが妥当である。必要以上の有名は、むしろ悪である。
 自己が間接的認識対象である為に、自己に対する認識は、不明瞭なものである。直接対象を認識できないのは、ひどくもどかしい。それ故に、自己を直接認識したいという欲望が生じる。しかし、自己が間接的認識対象である事を変える事はできない。そこで、自己に対するイメージを、自己が直接認識できる対象の中に見いだし、その対象を自己と同等に扱う事によって、自己を直接認識する事の代わりにする。つまり、自己の象徴化である。自己を象徴化させた対象に、自己を一体化・同化させたいという願望、それが、所有欲である。
 なんてことはない。鏡に映った自分の姿を自分自身の本体とダブらせる事である。鏡に映し出された自分の像は、自己の虚像である。欲望の対象となる像と、鏡に映った自己の像とちがう点は、対象を象教化した観念的なものであるという点である。つまり、自己に対する観念的な虚像が、欲望の対象となるのである。一見、対象が具象的に思える物欲にしても、その対象は、物自体の本来の価値や意味ではなく、その物に象徴される自己の残像である。欲望の対象は、観念的対象だけに具象的実体がなく、つかみにくい。なぜ、自分がその対象に執着するのかの原因がわかりにくい。それ故に、自己の欲望を適当に抑制したり、コントロールする事ができなくなる。為に、一律的な禁欲思想のようなものが生じるのである。仮に、自己の欲望を自分のカで抑制する事が可能ならば、一様な倫理観で自己を拘束する必要がなくなる。その為には、対象の実相と欲望の生じる原因を知る必要がある。
 自己と対象を同一な存在として、とらえた時、対象と自己とを一体化させたいという欲求が生じる。自己の延長線上に、対象を設置したいという願望である。それが、対象を所有したい、対象に所有されたいという欲求の、つまり、所有欲の原因である。
 所有欲の対象となるものは、直接認識対象ならば、なんでもいい。対象の選択は個人の主観的な好みに左右される。自然現象一般を象徴化した神や真理、個人の業績を普遍化した思想や個人崇拝、もっと世俗的な金銭や異佐。独裁者は、記念碑を建てたがる。神は絶対的なもの、普遍的なものとして、思想は知的なものとして、個人崇拝は、感性的なものとして、金銭は、より直接的なものとして、それぞれ自己の欲求を満たすものを持っている。
 対象を自己と同一視する時、対象に対する認識や反応は、自己と同等なものを示す。対象に対する攻撃は、自己に対する攻撃に対するのと同様の反応を示す。又、対象に対する信頼は、自己に対すると同じように、絶対的なものであり、盲目的なものである。それ故に対象に対する執着は激しく、対象の否定は、自己の否定、対象の破壊は、自己の破壊として描える。このような対象が、自己の延長線上範囲内にないのは、ひどく心許無い。それ故に、対象を自己の内部に消化したい、対象と自己を一体化させたい、対象を自己の日の届く範囲に置きたい、対象を支配したい、支配されたい、対象に認められたい、対象を所有したい、されたいという欲望が生じる。それが所有欲である。
 自己の価値観を対象に転移するという事は、自己が複数存在するという事であり、それ自体危険な事である上に、人間関係に不必要な摩擦を生み出す原因となる。憎しみや恨みは、自己とは無関係な対象に対する、自己同様な執着心が原因である。つまり、欲望が原因である。飢餓が悪を呼ぶ事はある。しかし、欲望は、むしろ飢餓とは無関係だ。欲望の対象に対する否定は、自己の否定と同じように受けとめながら、自己は残る。それ故に、対象が否定された時の感情だけが、残像として残る。それが憎しみであり、恨みである。対象に対する執着は、対象を保守しようとする感情から、猜疑心や嫉妬心を起こす。欲望は自分自身を見失わせ破滅へと導く原因である。それ故に、観念的な欲望は否定されなければならない。
 独占欲や権力欲は、所有欲をより深化させたものである。
 欲望は、所有欲と自己願示欲が合成されて存在する場合がある。欲望の対象が、著名であるとか希少である事が大切な要因となる。勲章とか、家柄のいい人間と結解するとか、著名な人間と結婿するといった事がそれである。
 所有欲は、その対象となる物によって性格が異なるが、ここでは、その事は省略する。
 自己麒示欲にせょ、所有欲にせょ、欲望の原因は、自己の存在感にある。欲望の持つ危険な性質の一つは、欲望自体が自己増碑する事である。自己の存在感は、自己内部にある。そのような存在感を自己以外に求めるのは、むしろ空しい。存在感は、創造的で本来自己を向上させるものだ。退廃的であったり、自虐的なものではない。自己の存在感が自己の側にない場合は、いくらその目的を達成したとしても満たされない。欲望が、実体のない虚構だからである。それ故に、自己増殖的に欲望は肥大していく。欲望は欲望を呼ぶ。足らざる者は貧なり、足る老は富むなり。欲望が観念的である場合、欲望は満たされる事はない。しかも、自己以外の存在に対する欲求であるから、自己内部で処理する事ができない。故に欲望を抑制するのは、困難な場合が多い。その為に、欲望の対象は際限なく拡大し、欲望は増大する。
 本来、自己が所有できる対象は、自己以外に存在しない。所有は、意識上の問題であり、社会的要請の所産である。地上に、本来国境が存在しないのと同様に。又、自分の意のままになる対象も、自己以外に存在しない。自己のカなど、死生の前には無力に等しい。自己の肉体ですらままならないというのに、まして、自己以外の対象をどうこうするなど考える事だに愚かしい。本来、所有できない存在を所有したいという欲望、その上、欲望が自己増殖するのであるから、欲望程危険なものはないといえよう。欲望は、自己を観念の底なし招に縮れる。
 欲望を断つには、おのれを知り、自己と対象との関係を知る事である。おのれを知るとは、すなわち、我執を捨て虚心に自己を見つめる事であり、自己と対象の関係を知るとは、利己的な考え方を捨て、対象のもつ意味の必然佐を考える事である。自らを知り、自らを信じ、自らを愛する。それが欲望から身を護る最も有効な手段の一つである事は、間違いない。欲望は、自己を見失い、自己の思想を信じられなくなり、自己を愛せなくなる。そんなちょっとした心の隙間に、いつのまにか詔びこみ、自己を眩惑させる。くれぐれも自己を見失わない事だ。そして、佼に、自己を見失った時は、虚心に戻る事だ。それと同時、自分を惑わす社会を改善する事だ。
 自分を見失わない為には、善を知り、美を知る事だ。そして、理想を持つ事だ。善や美は、自己の進路を絶えず修正する羅針盤の役割を果たし、理想は、自己の限界を越えていこうとする精神、向上心を生み出す原動力だからである。
 本来、素直な感情のおもむく所に、真の自己の姿があり、自己と対象の関係の自然な姿がある。欲望は、自己の素直な感情を歪め、自己と対象の自然な関係を歪曲する。故に、自分の欲望を断ち、かつ、欲望を生じさせない社会を作るために努力しなければならないのである。


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