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著書:  自由(意志の構造)上


                  第1部第2章第7節 愛情と憎悪

 愛、それは永遠の課題だ。愛は、生命だ。人生において最も根源的なものが、同様に苦しみの原因となるのは皮肉な事である。
 現代程、声高に愛について叫ばれている時代はあるまい。それでありながら、今程、人間不信と憎悪が渦巻いている時代もあるまい。それだけに、今こそ、真実の愛について真撃に語りあわなければならないのである。
 今世紀を迎えるにあたり、人々は、偉大な理想と希望を持っていた。確かに、今世紀に入って多くの国が独立し、又、圧政を倒して人民を解放した。科学は、それまで人類が知りえなかった事を解明し、技術革新は、不可能な事を可能にした。
 なのになぜ、人々は、かつてない程、滅亡の恐怖に怯えなければならないのであろう。なぜ、憎悪は深まるばかりなのであろう。
 私達は、大切な何かを見失ってしまっているのではないだろうか。
 現象としてあらわれる行動とその源泉である精神を同一次元で語る事はできない。同じ行為でも、愛あるが故に許されても、愛なきが故に許されない事もある。
 多くの人は、性と愛とを混同している。愛は存在の本質であり、性は行為そのものである。だから、愛のある性行為であるかないかなどが問題なのではない。自分の行為が愛情を前提としたものであったかなかったかが問題なのだ。それは、性に関してだけではなく、すべての行為についていえる事である。ただ、あらゆる行為の中でも、性にまつわる行為が最も生命そのもの、即、自己の存在にかかわりあいをもつものである事を忘れてはならない。
 愛は行為を正当化する口実にはならない。なぜなら、行為は愛の存在を否定してしまう事があるからだ。
 それ故に、愛には、常に無理解と誤解がつきもの。なぜならば、愛は人を酔わせ、自己陶酔に陥らせ、自己陶酔は時として、愛を愛とは全く無縁で醜悪なものに変えてしまう事があるからだ。
 愛は、常に危険がともなうが、人間にとって自己の存在そのものなのである。

  A 愛情

 愛情は、自己の自律によってもたらされる強い精神である。つまり、愛されたいといった受動的なものではなく、愛する主体的かつ能動的な意志の現われである。
 愛情は日光のようなものであり、月光のようなものではない。自己が確立しているから人を尊け入れ、許し、尊重し、慈しむ事ができるのである。
 自己への強い確信は、自己の存在を支えるものすべてへの強い想いへと昇華し、自己の存在に対する絶対的な信頼は、自己を取りまく存在に対する絶対的な信頼へとなる。自己の存在を信じれば信じる程、自己の存在を忘却させ、自己の目を他者に向けさせる。愛情は、このような他者へ対する至上なる想いなのである。故に、愛情は自己を陶酔させ、恍惚とさせる。
 故に愛情は無条件なものである。
 人を愛せない真の理由は、人を愛する自己を信じられないからです。愛されたい、愛されたいと想えば想う程、真の愛から遠ざかっていく。
 人を無条件に許し受け入れた時、自己の精神は外に開き、外に向かって自己は実現される。この自己実現の率直な表現こそ、愛情なのである。
 故に、真の愛には限りもなく、果てもなく分けへだてもない。ここにいたって、自己は相対的認識を脱し、絶対的認識へ至るのである。
 愛は、自己の存在を忘却させ、他者に向かって自己実現をさせる。その時、人間は何ものにも囚われる事なく、自己が解放され、自由となる。
 現実の世界は、自己善と自己善、欲望と欲望との闘争の場である。又、我々の価値観は相対的なものであり、絶えず変動している。実際の世界では、同じ現象は現われない。又、人間一人一人の人生に同じものはない。
 自己と対象との問には、不完全な善と歪んだ社会が存在する。そして、我々はそれまで経験した事のない事態に直面し、判断を求められている。
 自己を愛する事によってのみ、人は他者を受け入れ愛する事ができる。他者を素直に受け入れる事によってのみ自己と対象の存在を肯定する事ができる。このように自己と対象の存在が肯定される事によって、自己と対象とは現実の世界の矛盾を克服し、一体となる事が可能となる。
 しかし、それは現実の世界と妥協する事ではない。むしろ社会の不正や世の中の風潮に迎合せず、毅然と自己の信念を貰き、完全なる善と自由な社会を実現しようとする強い意志の表われに愛は他ならない。
 故に、愛は強い闘争や怒りの相となって表われる事も多い。愛は戦いである。生まれも立場も考えも経験も違う人間同士が、自己を越えて一体になろうとする時、人々は自己の存在を賭けて戦う。そして、この愛故の戦いが、自由への戦いの始まりなのである。
 我々の身のまわりで何事も起こっていないと感じるのは、見る目のない証拠である。人間は社会の矛盾を看過し、何もしなければ、社会に存在するだけで罪を犯している。矛盾を看過する事は、その矛盾を消極的にせよ肯定する事になるからだ。その社会を構成する者が犯罪を黙認したのならば、それは共犯者と見なして差支えあるまい。人間は矛盾に対して抵抗しっづける事によってのみ、その罪から逃れる事ができる。不断の行動、それが人間を救済する唯一の手段である。
 社会を支えるのは、常に現在の自己の技量の限界を越えて結びついていこうとする意欲である。自己の技量の限界を越えていこうとする意欲は、新たな人間関係を生み出し、それまでの人間関係を深めていくカとなる。社会は人間関係の集積として現われる。人間関係を厚くしていく事は、社会をより強固なものへ発展させていく事である。
 自己の技量の限界を越えていこうとする意欲を生み出すのは連帯感である。人間は自己の存在を他人に認められて、はじめて自己の存在をより確かなものとして認める事ができる。人間は多くの人間と喜びを分かち合う事によって、孤独から解放され、より大きな喜びを得る事ができる。自分一人の決断より、多くの人間の一致した決断の方がより強固だ。自分一人の力とは非力なものだ。自分の事ですら律する事が困難だ。自分だけでは、自分の欠点や我が儘にも気がつかない。それだけに、他人に認められる事がなければ、本当の意味での自信には結びつかない。人間は、より多くの人間と連帯していく事によってのみ、自己を活かす事ができる。お互いの欠点を補い合う事によって、自分の長所を伸ばす事が可能となるのである。自己と他者を結びつけていこうとする意志によって、愛情や信頼が生まれるのである。
 人間は自分の生活を保障されると向上心を失ってしまいがちだ。そして、いつか自分の罪を忘れ、圧制者に変質していく。相手を理解しようとする努力を怠るからである。自己をより高次なものへ結びつけていこうとする努力によってのみ、我々は外界に目を向ける事ができるのである。人間の能力は、磨かなければ衰えていく。自分の事のみに拘泥するようになると、人間は対象に対する認識の目を曇らせてしまう。そして最後には、対象を自分の都合のいいように歪めようとする。ここに利己主義の典型がある。我々は常に外界に目を向け、人間関係に気を配らなければ、自己を保つ事はできない。利己主義は、結局は、自分を滅ばす原因となる。
 愛情とは、無条件なものである。すべての人間関係は、その根底に信頼を置いている。その信頼の上に、いろいろな人間関係の型が展開するのである。
 相手が信じられない最大の原因は、相手を信じている自己が信じられない。つまり、自己の側にある場合である。仮に、ある人間が全く信じられなかったりした場合、その人間を隔離するか抹殺するかして、その人間が自分に直接影響を及ばさないようにする。人間は、動物を信頼していない。だから、動物が逃げ出したり、襲ったりしないように隔離するのである。人間が、人間を信じられなくなった時、人間を人間扱いしなくなるであろう。人間関係の根底には、必ず、強い信頼が存在する。そして、この信頼を確認しえた時、はじめて愛情という感情が生じるのである。お互いを認め合う事のできる関係にのみ、愛情という関係が成立しうる。愛情とは、絶対な信頼を現芙の人間関係の中に実現していこうとする精神である。それ故に、愛情は無条件なものである。
 得る事のみを望む者は、何も得られまい。求めてばかりいる者は、何も与えられまい。日本人は、けち臭い。他人の利益になる事をする事は、まるで自分が拐したように考える。他人に利用される事がいやならば、何もしなければいい。大切なのは、分かち合う事であり、独占する事ではない。人間にとって、真の財産は、友人であり愛情であり信頼である。強い連帯こそが、真の強さを形成するものである。
 信頼とは、目に見えないものである。だから、それを信じる為には、自分に対する厳しさが要求される。相手が信じられないのは、自分が信じられない証拠である。
 変な言い方かもしれないが、安心して喧嘩ができる間柄が、本当の友情なんだと思う。永い付き合いの間には、一度や二度の感情的な縺れなどつきものだ。しかし、それが決定的な仲違いに発展しないのは、お互いに対する強い信頼感が、そこに存在するからだ。人間を凶暴にするもの、それは、人間に対する不信感である。
 何をしてもいい、何でもいいという考え方には、私は反対だ。それは、随分と卑怯な言い分だと、私は思う。確かに、カで善を他人に対して強制する必要はない。善は、強制できるものではない。だが、自分が自己の善を信じ、それを断言し、それを行ない、又、それに基づいて他人を評価する事は、決して他人に対する強制ではなく、自分の問題である。たとえば、人に迷惑をかけなければといった言い方をする老がいるが、では、その人間は人に迷惑をかけないという事がどんなものであるかを考えているのであろうか。頑是無い子供のする事を、何をしたっていいと放置すればいいというのか。それは、社会の矛盾を看過する為の詭弁に過ぎない。お互いに対する厳しさがあるから、お互いを信じる事ができる。お互いに対する厳しさがなかったら、お互いに対する信頼を保つ事もできない。逆に、お互いを信じているから厳しくもできる。お互いの信頼を、お互いに対する厳しさによって、我々は確認しているのである。愛情は、絶対の信頼を成就しようとする意志であり、信じる事によって我が身を滅ばす事も厭わないという激しい覚悟にょって、裏付けられたものである。結局、最後は、人を信じなければならない。愛情を説いた人間が、人を信じるなと説いたであろうか。
 労働意欲と報酬を結びつけるのは、西欧経済学の悪しき習慣である。労働意欲は、むしろ自分の身分を保障され、自分の仕事に専念できた時に発揮されるものである。向上心は競争によって煽られるものではなく、連帯感によって確立するものである。自分に対する厳しさとは、より確かな信頼関係の中でのみ発展できるものである。それは、夫婦関係のように、信頼が強ければ強い程、自分の労働に喜びが見いだせるものである。
 私は、恋に恋をしている人間によく出会う。彼等は、現実の恋愛に挫折し、本当の愛情に目覚めていく。しかし、いつまでも恋に恋しつづける人間も中にはいる。それは悲劇だ。自分が愛情を懐く人間は、夢の中に出てくる王子様のような人間ではない。我々が好きになるのは、相手に対する幻想ではなく、その人自身の真の姿である。愛情や行動は、理屈でするのではない。理屈は行動の過程で生じ、計画的な行動を生み出す手段として洗練されるのである。愛情や行動には、理屈以前に、人間一人一人の情動が存在する。愛情には、まず無条件に相手を受け入れていこうとする姿勢が必要なのである。相手に対する幻想によって、相手の真の姿に目を瞑るのではなく、相手の弱さ、醜さ、脆さ、そのすべてを直視しながら、なおかつ、相手を信じていこうとする強い意志の現われが、愛情である。相手の容姿や財産によって相手を信じるのではなく、ただ無条件に相手を信じる事によってのみ、愛情は、愛情たりうるのである。
 それ故に、愛情とは激しいものであり、又、自分を越えて、相手と合一していこうする情熱をもたらすものなのである。自分の虚飾を捨て、赤裸々に自分の弱さ、醜さ、脆さを相手にさらけだし、それと葛藤する事によってはじめて、相手を信じる事ができるのである。愛情は、勝手な思い込みや思い上がりを寸毫(すんごう)も許さない。愛情は、自分自身に対する、そして、相手に対する激しい葛藤を通して、はじめて成就するのである。愛情は身勝手なものではない。しかし、又、不寛容なものでもない。愛情とは、自分を越えて相手と強く連帯していこうとする、激しい情念の渦である。
 人間にとって、信頼を裏切る行為こそ、最も忌むべき行為である。人間は仮面を被るべきではない。仮面は他人を欺くばかりではなく、自分をも欺くものである。自分の美を抽きだすには、自分の素の姿に自信を持つべきである。自分の生の姿の中に、自分の本当の美を見いだすべきである。仮面や飾り立てた姿の中にしか、自分の芙が見いだせない老は、自分の変化についていく事ができない。又、本当の意味で自分の醜さを克服する事はできない。つまり、自分の非を認められないのである。自分の醜さを、自分の非を認めるから、それを正す事ができるのである。自分の美を活かす為に化粧があり、教育があるのであり、美を創り出す為に、それらがあるのではない。まるで自分とは関係のないところに自分の虚像を創り上げるのは、自分に対するそして、他者に対する最大の背信行為である。
 時々、本当のやさしさとは何なのかと考え込んでしまう。人の過ちや醜さを並べ立てて何になるのだろう。他人の夢や楽しみを打ち壊して面白がるのは、自分が劣悪な証拠だ。人の失敗を話の種にして、その人間を侮辱するのは、あまり、いい趣味だとはいえない。自分達にとって、その人間の過ちや醜さがあまり重大な意味を持たず、しかも、相手が自分の非を充分認めているのならば、なにも、それを喧伝してまわる事はないじゃあないか。相手にとって、それは最も辛い事なのだから、本当に必要だと感じないかぎり、その人間の傷口を、殊更、広げる事はない。信頼関係にとって、思いやりは不可欠な事なのだから。
 私は自由恋愛論に対して反対はしない。しかし、私は快楽主義には反対だ。強い刺激は感覚を麻痺させる。強い臭いは鼻を駄目にする。強い味は舌を馬鹿にする。刹那的な快楽を追い求めると、人間は肌理細やかな思いやりを見逃してしまう。だが、本当の愛情とは快楽にのみあるのではない。愛情とは理想的な信頼関係を指していうのであるから、お互いを人間として尊重できない人間関係は、愛情を破滅させるものなのである。
 忍耐力とは、現代でも‥美徳の一つである。自由とは、忍耐力をなくす事ではない。忍耐力によって生得していくものである。人間の解放とは、苦しみから逃れる事によってもたらされるものではなく、苦しみを克服した時にのみ成就するものである。人間は安易な道を取ろうとする。辛い事は、なるべく避けていきたいと感ずる。なるべくなら不愉快なものは見たくない。面倒な事にはかかわりあいたくない。苦労を背負込むのは、まっぴらな事だ。その日その日が面白可笑しく暮らせればそれでいい。他人の事など知った事ではない。それが本音なのかもしれない。しかし、努力のない所には喜びはない。辛い事を避けていたら成長はしない。規則正しい生活は辛いからといって、不規則な生活を続けていたら体を毀す。不愉快な事だからといって、危険な事や矛盾に目を瞑れば、その危険や矛盾から身を守る事はできない。面倒だからといって不正を見逃せば、自分が罪を犯しているのと同じ事である。その日その日を充実させる為には、その日その日に努力しなければならない。人間は、一人で生きているのではない。自分が人を助けるから、人が自分を助けてくれるのである。それが人情である。我々は、未知な事柄に対する対応のしかたをしらない。それ故に、我々は未知なものを恐れる。未知な世界、未経験な事柄に触れるのは、それだけに又、辛いものである。だからといって、恐れてばかりいても、恐怖心から解放されるわけではない。未知な世界、未経験な事柄に対して、畏れと勇気をもって接し克服していく事が、恐怖心から逃れる唯一の手段である。
 相手に対する身勝手な解釈は、慎むべきである。自分の都合というものは、対象の真の姿を歪めようとする。対象は、受け取り手の解釈しだいで、随分と変わったものになってしまう。対象に対する解釈のほとんどが、自分の都合や利害、好悪、気分に左右される場合が多い。だが、そのような対象認識は、対象に対する対応を誤らせるものなのである。そして、そのような態度は、確実に信頼関係にひびを入れる。自分の都合や利害、好悪、気分、そういったものから対象を解釈するような態度を切り捨ていく強い意志、それが、自由を実現し、愛情を成就するのである。自分が辛い事は、自分が我慢すればそれでいい。だが、他人が辛い事は、自分にはどうしようもない。自分が我慢すればいい事は、自分が我慢すればいい。自分が辛いからといって、他人に押し付ける事はない。そして、その時自分が我慢してはならない事もわかるのである。人間は、信じんが為に信じるのである。
 人間関係を損得勘定で考える者がいる。馬鹿げた事だ。表面的には利害関係で結ばれているよぅに見える間柄でも、その深層には、必ず信頼関係が存在する。絶対的な信頼関係を前提にする事によって、相対的な利害関係が生じるのである。相対的な利害関係は、何を基準とするかによって大きく変化する。相対的な利害関係によって人間関係を計る事ができるのは、絶対な信頼を前提にした時だけだ。利害関係だけで人間関係をとらえていこうとするのは、真に愚かな事だ。
人間関係は生きたものであり、梯械のように正確に計算できるものではない。人間関係は状況に応じて変化するものであり、一意的に利害関係によって考えるのは、人間関係のもつ柔軟性を失わせ、人間関係を分断する原因になるものである。
 人間関係を利害関係としてしかとらえられない老は、結局は、自分が信じられないのだ。相手を信じられないのではない、相手を信じている自分が信じられないのだ。自分の能力や容姿を、殊更に誇示したり、仮面を被ったりするのも、自分が信じられないからだ。相手の信頼を素直に受け入れられないのも、自分が信じられないからだ。相手に対して寛容になれないのも、同様に、自分が信じられないからだ。自分が信じられなければ自分の真の姿を直視する事ができずに、自分の創り出した物や、属性、所有物に執着するようになる。自分の名声や能力に本当に自信があるのならば、名声に溺れたり、能力を過信する事はあるまい。自分の名声や能力に自分が見合っていないと感ずるから、名声に溺れ、能力を過信するようになるのだ。あげくの果てに、名声や能力を保障する権力や地位を欲しがるのである。自分の非を認められなかったり、権力や富に憧れるのは、未練がましく自説に拘泥するのは、そんな所に理由があるのである。相手の信頼や愛情に応えようとしないのは、自分を信じようとしないからだ。折角、他人が自分を認めてくれても、それを素直に喜べないのは、相手の信頼を裏切る事である。相手に自分の考えや責任を押しっけようとするのは、自分を信じて判断を下す事ができないからだ。相手の過ちや自分の過ちが許せないのは、自分を信じるだけの強さがないからだ。より大きな世界を見ようと努力しないのは、自分に諦めているからだ。だが、自分が信じられなかったら、一体、我々は何を信じたらいいのだろうか。自分を信じるから、人に惚れる事ができるのだ。物事に熱中する事ができるのだ。自分の能力を発揮する事ができるのだ。どんな恥や辛さも耐える事ができるのだ。誇りをもつ事ができるのだ。自分の身を捨てて物事に対処していこうとする勇気が湧くのだ。自分を信じるから、人間は生きていく事ができるのだ。明日を信じる事ができるのだ。
 人は、恋をすると美しくなる。それは、相手を無条件に信じる事を知ったからだ。恋は、人を美しくする。自分が愛されている事を信じる事ができるからだ。人間、傷つく事を恐れては、何もできない。確定されている未来、保障されている未来などありはしないのだから。行動には、むろん、失敗や過ちはつきものだ。そして、別離や破局も。だが、人間は生きていかなければならない。その一癖一瞬に自分のすべてを賭けて、自分のカで判断を下していかなければならない。だから、その一麟一癖に自分を信じていかなければならないのである。自己とは、間接的認識対象である。自己以外の存在に、自己が認められる事によってのみ、自己は、自己を認める事ができる。自己を信じる為には、自己以外の存在を信じなければならないのである。だから、自分は認められている、自分は信頼されているのだという事を感じ信じる事ができたら、それは、強い自信に結びつく。それが愛だ。それ故に、愛は人間を強くする。たとえ、それが失恋であったとしても、自分が一時でも、すべてを賭けて相手を信じる事ができたとしたら、それは、必ずその人を強くする。だから、愛は、明け透けでおおらかなものだ。そして、愛は柏手の信頼に応えようとする事によって、自信は一癖一痢における決断と行動によって深められていくのだ。それ故に、愛情も自信も、自己の弱さとの葛藤に他ならないのだ。
 一瞬一瞬に自分のすべてを賭けた時、その行動や決断は純化される。行動や決断に雑念がなくなり、自己の構造を一点に集中させる事ができるからである。その結果、結果や報酬にその喜びを求めず、行動や決断自体にその喜びを見いだすょうになる。行動や決断自体に喜びを見いだす事によって、失敗を恐れる事なく冷静に結果を考え、報酬に囚われる事なく労働を楽しむ事ができるようになる。それ故に、報酬や結果に惑わされて自己の行動や決断が歪められる事がなくなるのである。人間、一生の問で知る事のできる世界は、至極限られている。決断や行動には、必ず未知な分野が含まれている。それ故に、決断や行動は、損得づくではできない。決断や行動は、その決断や行動の結果に対して責任を負っていくだけの強い覚悟を必要とするのである。
 行動や決断を純化した所に存在するのは、無償の行為である。無償の行為は行動そのものを純化し、行動そのものに喜びを見いださせる。無償の行為だからこそ、その行為に我々は真の喜びを見いだせるのである。そして無償の行為だからこそ、その行為を信じる事ができるのである。高校生がスポーツに熱を上げるのは、その報酬を求めてではない。況んや、恋愛は見返りを考えて為されるものではない。好きな者の為に働くのは、代償を求めてではなく、その者の喜びを自分の喜びと感ずるからだ。愛情は、無償の行為を伴うから尊く、美しいのだ。
 労働と富の分配は、同じ基準では計れない。分配は必要性の問題であり、それぞれの家族構成や環境に応じて計られなければならない。労働は、社会からの必然的要求であり、その社会を構成する老の義務である。働かないのは勝手だが、その社会の承認した労働をしない老を、その社会は扶養する義務をもたない。協力しない者に協力をする必要はない。つまり、働けなくなった者や働くには未熟な者を除いて、働いていない者を、その社会の構成員とみなす必要は全くない。そして労働は、個人の能力に応じて、その質と量によって計られるものである。
 厳密に言えば、夫婦間にも雇用関係は存在する。夫が妻を雇っていると見傲すのである。その意味で、女性問題は労働問題の端緒かもしれない。主婦は、経済の最前線にいるのである。ただ、現代社会では家事労働を職業と考えないから、夫婦間に雇用関係が存在すると見傲さないのである。女性蔑視は、実は、家事労働の蔑視に基づく。しかし、家事労働も立派な仕事だし、又、決して楽な仕事でもない。家事労働を蔑視する者は、それに従事する者を蔑視するものである。主婦が、社会問題に参加するのは、主婦は経済問題の最前線にいるのであるから、社会にとって歓迎すべき事である。だが、女性の男性同化思想は、女性の真の解放にはならない。女性の男性化傾向は、むしろ女性蔑視につながるものである。それは、黒人の白人同化思想と同様、女他の真の自律ではない。もちろん、女性は家の事だけをしていればいいというのではない。その人間の能力に適した労働に従事する機会を、人間は平等に与えられるべきである。黒人が自分達 の美に気がつき、自分の特徴を活かそうと努力しているように、女性は自分達の能力を最も活かしうる仕事に従事すべきである。そして、社会は、現代において、女性労働と見放されている労働を社会的に承認し、それに従事する者の地位を保障しなければならない。
 主婦は、無償労働をしている。競争心を煽られなくても、立派に自分の仕事を完遂させている。又、純粋に自分の仕事に喜びを見いだしている。主婦は、報酬の為に料理を作るのではない、愛する老者の為に、美味しいものを食べさせたいから、自分の腕を磨くのである。愛する者の為ならば、苦労を喜びに変える事もできる。それは、主婦が自分の労働の意味を知り、自分の労働が、自分以外の人間に喜びを与え、役に立っている事を肌で感ずる事ができるからだ。労働は、報酬によって喜びを与えられるというのは幻想であり、競争心によってのみ音萩を湧かすというのは錯覚である。むしろ、報酬を労働に結びつける事によって労働の真の喜びを見失わせ、競争心によって人間関係が分断され、仕事に対する情熱を失わせる。人間は、自分の労働の意味を知り、その効果を肌で感じえた時にのみ労働に喜びを見いだし、労働に意欲を湧かせる事ができるのである。人間は、自分以外の者の為に働く事によって孤独から解放され喜びを感じるのである。そして、それが愛情である。
 過去の権威者や権力者の欠点や粗を探す事がはやっているようだ。欠点や粗を並び立てる事が、批判だと考えている人間がいる。そして最後に、だから理想は存在しない、現実とは醜いものだと結論する。愚かな事だ。批判とは、その人間の行動や理念に対して為されるものだ。理想的人間は、おならをしてもいけないというのだろうか。欠点や粗は、その行動や理念の生み出された背景として、参考になる程度の問題だ。欠点や粗を並べ立てるのは、その人間の行動や理念に重大な意味を置かない限り、ただの中傷に過ぎない。失敗や過ちよりも、その行動や理念の正否が問題なのであり、失敗や過ちの原因が問題なのである。又、理想とは、現実に存在するか杏かが問題なのではない、いかにして実現するかが問題なのである。理想が存在するのならば、なにも理想について語る必要はあるまい。又、理想像を権力者や権威者の中に求める事によって、自ずからその批判者の性格がわかるものだ。どのような人間にも、私的領域というものがある。知られたくない事がある。それを暴き立てる権利は、何人たりともない。死体を暴きたてるような行為は、やはり卑劣だ。
 理想的な愛情が存在するかが問題なのではない。理想的な愛情を追い求める事が大切なのである。理想的な相手を捜すのではない。まず、理想的な人間に自分が近づくように努力すべきである。そして、相手を自分の理想像に近づけていくように努力する事が大切なのである。理想は与えられるものではなく、創り出していくものである。決して理想は空想ではない。現実である。我々は、夢の中の人間に恋をするのではない、生身の人間に恋をするのだ。
 相手を軽蔑したら、相手を愛する事はできない。柏手に劣等感を抱いたら、相手を恐れるばかりだ。対等の立場に立って、はじめて愛情を持つ事ができる。平等こそが、愛情を育むのだ。

  B 憎悪

 憎悪は、自己の存在感や存在価値を喪失せしめる存在に対して懐く感情である。自己の存在感や存在価値を喪失させられる事によって、自己の存在自体が危うくなったょうに錯覚し、自己と、自己に憎悪を懐かせる対象とは、ならび立てないと感ずる。両立しえないと感じた時、憎悪を懐かせる対象を、自己の影響下から排除しようとする。そこに、憎しみが生まれる。憎しみ は、信頼関係が絶たれた時に生じる感情である。
 憎悪の原因は、意思表示のまずさや受け取り手側の助解といった多分に利己的な要素が強く、それだけに、憎悪の原因を自覚している人間は少ない。だが、憎悪は、その原因を自覚する事によってのみ解消する事ができる。自覚しえない者は、原因を自覚しない事によって、憎悪という感情だけが残り、行動を極端な方向にもっていってしまう。
 人間は、自分の意志を自覚しているとは限らない。むしろ、自覚していない部分の方が多い。
人間の意志は、表層構造の決定に代表されるものではない。自己の構造全体の動きによって決定されるものである。だが人間は、表層構造の動きの中に、自己の意志を見いだそうとする。その為に、自己の本当の気持ちを見失いがちである。それ故に、人間の本当の意志は、言葉によって のみ表現されるものではなく、人間存在総体の動きを通して表現されるものである。自己の意志を知る為には、行動を通して表現された自己の意思表示を自己の構造にフィードバックしなければならない。思憶の軌跡は表層構造内の自己の残像に過ぎず、表層構造の構造ですら自覚させうるものではない。人間は、不断に反省する事によってのみ、自己の構造を調整し、行動を統一する事が可能なのである。
 人間は、自己の行動に何らかの理由をつけて正当化しようとする。理由づけをする事によって、自己の行動を表層構造内部に消化しようとするからである。だが人間の行動は不連続なものではなく、連続したものである。それ故に、自己の行動に対する考察は構造的に為されなければならない。
 人間にとって、信頼関係を確認しえない、もしくは信じられない状況で、共存する事は非常に不安である。それ故に、信頼関係を維持する為に、意思表示や行動を不断に更新していこうとする。しかし、その意思表示がうまく相手に伝わらなかったり、行動ができなかったりした場合、信頼関係に亀裂を生じさせてしまう事がある。その亀裂は、憎悪の原因となる。
 信頼関係の確認の手段は、最終的には行動である。故に、決断力のない人間は、相手の意志や自分の意志を確認する手段がなく、憎悪を懐き易い。憎悪は、人間関係を分断するものであるから、憎悪を懐き易い性格の人間は、皆から嫌悪されがちである。
 人間にとって、信頼関係を維持する上に、自己表現や意思表示の上手下手は、重要な要素である。意思表示は、送り手側の問題も大切だが、受け取り手側の問題も劣らず大切な問題である。相手の意思表示を正確に受け取れるか否かは、信頼関係を左右する重大な問題である。相手の意志を勝手に幽解し、それによって相手に対する対応を決定されていたら、相手にとって非常に迷惑である。意思表示は、その人間の風俗習慣、時代背景、環境等によって微妙に変化する。それに、自分の構造背景によって相手の意思表示をとらえるのは、土台無理である。相手の思性の構造を、自己の構造内部に仮想する事によって、はじめて相手の意思表示を正確にとらえる事が可能なのである。人間の行動を因子分析する事によって、相手の思惟の構造を仮想する事が可能なのである。人間は無意識のうちに、行動の因子分析を行ない、それを自己の構造内部にフィードバックする事によって、自己の構造を再構成している。その時点、その時点の判断は、論理的に為されているのではなく、構造的に為されているものである。論理は、行動をフィードバックする過程において生じる。相手の意思表示を正確に把握する為には、多くの行動様式に接し、それを深層構造に反映させる事が必要である。つまり信頼関係を維持するには、豊富な人間関係に裏付けられなければならない。研究室に閉じ寵ってばかりいたり、狭い人間関係の中であくせくしている人間は、何の成果もあげられまい。
 思想や行動に対する議論や批判は、否定的な立場、対立的な立場から為されるものであってはならない。構造的な見地から為されるべきである。思想や行動を、頭から否定的な観点や対立的な観点からとらえたのでは、結局、信じるか信じないか、好きか嫌いかといった不毛なものに終わってしまう。人間の思惟とは、点と線を結ぶといった筋道を追っていくようなものではなく、構造の各要因からの作用されるカのバランスによって、自己が、一段一段、より高次元の構造に登っていくようなものである。それ故に、なぜ、その結論や決定に至ったのかといった背景の構造を因子分析、次元分析する事によって、その構造における欠落した部分を補い、跡切れた脈絡を結びつける事によってのみ、その思想や行動は深化発展していくのである。すべてがすべて正しいか否かといった議論は、目先の事にとらわれている、つまらない議論である。大切なのは、真意を汲み取る事である。
 自分の言っている事の意味や目的を知らない人間が多い。彼等は、決して納得する事はあるまい。問題の意味を知らなければ、結論がでても、それが問題の解答なのか、一つの過程の結論なのか判断できない。行動の目的がわからなければ、自分が目的を達成したのか否かが結論できない。だからといって、付け焼刃的な目的や意味を取って付けても無意味だ。混乱を増すばかりである。人間の自己表現は、演技している部分を多分に含んでいる。しかし、演技している当人が、自分の演技に気がつかない場合が多い。その為に、演技している部分が自己の構造にフィードバックされる事によって、逆に、自己が鋭制される事がある。つまり、自分の演技によって自分が崩されてしまうのである。又、人間の意思表示には、演技しきれない部分が必ずある。その演技しきれない部分に、その人間の真の生地が現われるものである。それ故に、意思表示を正確に受け取る事は、自己の行動や決断の目的や意味を正確に知る意味でも重大な問題である。人間の自己表現は、ある意味で演技である。だから、演技する事を恐れる必要はない。演技の目的を知らなければ、自分の演技に崩され、自分の真意を見失う。それ故に、自分の演技に崩される事を恐れなければならない。人間は、自分の事を知っているわけではない。むしろ、何も知らない。人生とは、自分を知る事で精一杯かもしれない。
 人間は、自己を取り囲む諸々の関係の中に自己を位置づけていく事によって、自己の意思決定をしていく事が可能となるのである。自己の行動が、その関係の中で許されるのか否かが不明瞭な場合、安心して意思決定をしていく事ができない。それ故に、人間には、自己を取り囲む世界の法則や取り決めを知ろうという願望が生じる。そして、自分もその法則を活用し、取り決めに参加する事を欲するようになる。つまり、世界の中に安全な居場所を作り上げようとするのである。諸々の関係の中に自分の居場所がないという事は、その世界内部において、その人間の存在は保障されていない事になる。それ故に、その世界の中での存在感を確認し、存在価値を絶えず更新していこうとする欲求が根強く人間を支配しているのである。その為に、自己の存在感、存在価値を喪失せしめる対象に対して攻撃的になる。それが憎悪であり、憎しみである。
 自己の存在感を喪失させようとする対象に対して、自己の存在を危うくする対象のように錯覚する事によって、その対象に対して激しい憎悪を感じる事がある。その意味で、相手の意思表示を無視するのは、非常に危険である。又、無視された側にとっては存在感を喪失させられるという事もあるが、無視するという意思表示の意味が理解ができずに、妄想を懐き易いという事もある。ただ、相手の意思表示に気がつかずに、無意識に無視してしまう事がある。それ故に、意思表示を無視された場合、相手の反応が現われるまで繰り返した方がいい。又、意思表示が、同時に、複数の人間によって為されたり、対応のしかたを知らない場合、意図せずに相手の意思表示を無視してしまう事がある。その事によって誤解が生じる事を恐れて、意思表示を形式化しようとする要請がおこるのである。礼儀は、その要請に基づいて意思表示を形式化したものと考える事ができる。それ故に、礼儀は、その社会を反映したものになるが、必ずしも封建的なものになるとは限らない。
 我執は、憎悪の原因である。自分に存在感を与えてくれる対象を否定される事は、自分の存在を否定されるのと同じ事のように感じるからだ。地位や名声、富を奪おうとする老に対し、自分自身の事以上に憎悪を感じる。自分の思想や宗教を否定する者に対して、直接の利害に関係なく、攻撃的になる。それは、外見がどのように見えても、憎しみ以外の何ものでもない。だが、憎しみを教える神があるであろうか、憎しみを増長させるような思想が、本当に正しいであろうか。大切なのは、行ないの正しさであり、真実である。自分自身に対する心配を忘れ、自分の身につけているものに思い煩うのは、将棋で言えば、王より飛車を可愛がるようなものであり、本質を見失っている事である。
 その社会の中に自分を位置づけるという事は、自分に、その社会に対する何等かの意味を持たせるという事である。その社会にとって、その人間が必要なかぎり、その社会はその人間を保障していく。逆に言えば、自分が、その社会にとって必要なのだと感じられる事によって、その社会は自分を見捨てないという確信を持つ事ができるのだ。人間は家畜ではない。その社会から何等かの恩恵を受けている事以上、その社会に対して、自分が何等かの恩恵を施さなければ、人間は安心できないのである。それ故に、社会問題に参加していくのは、義務ではなく、権利なのである。人間は、自己以外の老の為に働いている限り、その社会にとって必要性が生じ安心していられるのだ。人間は、与えられている限り不壕であり、与えている限り安心できる。だから、与える側になりたがる。それは、目に見える打算ではなく、人間の心理なのだ。与えられるより、与える方が幸福なのである。
 何も与えられない人間にとって、又、与えようとしない老にとって、自分の社会に対する必要性を否定される事は、その社会における自分の位置を失う事である。それ故に、社会に対する自分の必要性を否定する老に対し、激しい憎悪を懐くようになる。
 その人間が、認めるべき点を認めていると感じれば、たいていの批判には耐えうるものである。だが、その人間が自分を認めていないと感じると、些細な批判にも苛立つものである。憧れの対象は、憎悪の的に変化し易い。それは逆恨みに近く、自分がこれ程相手を認めているのに、相手が自分を無視していると感じるからである。相手が自分の存在を認めないという事は、その人間にとって、自分はその社会における必要性を認められていないと感じるからである。それが、相手を倒すか、自分が倒されるかという考えに発展するのである。相手を信じる事ができない人間は、カや富にその代償を求める。だが、カや富には限界がある。愛情のない人間は、媚びる事を覚えなければならない。猜疑心の強い人間は、心休まる事なく、必ず信頼を裏切るであろう。それは、その人間が目に見えないものが信じられずに、目に見えるものしか信じられないからである。だが、人間関係とは目に見えないものであり、ただ、一途に信じるものだ。本当に人間が人間に与えられるものは、目に見えないものである。それ故に、目に見えないものを信じる事のできない者は、満足する事も安心する事もないのである。そして、彼は何も与える事もなく、得るものもあるまい。
 不平等な社会は、それ自体が憎悪を生み出す原因である。差別は、人間関係の自然な発展を阻害し、人間の自然な感情を破壊する。自分の身分を自分の手で守れない、それは、自分の、ひいては自分が養護している人間達の死命まで、他人の胸一つで決められるという事である。そこに、不平等社会の矛盾がある。自分の死活問題に自分が参加できない、それは、人間に不安と恐怖をもたらし、憎悪の種子を播く。上位に位置する老は、自分の地位を競う者として下位の者に対し、下位の者は、自分の要求を左右する者として上位の者に対し、同僚の者に対しては、上位の位置を競う者として憎悪を懐くようになる。それ故に、上位の者は、下位の者の要求を果たしえなかった場合、下位の者に恐怖感を懐き、下位の者は、自分の死活を決する老として、上位の者に対し畏れを懐く。又、自分とよく似た者に対し、自分と争う者として猜疑心を懐く。このように、不平等社会は、恐怖と、畏れと、猜疑心によって保たれている社会である。そのような社会では、人間は孤独である。
 猥褻とは、歪められた意志をいう。その意味で、差別程、猥褻なものはない。人間は何ものも信じられなくなった時、現実の醜さ、人間の欠点しか見ようとしなくなる。そうやって、自分の行動を正当化しょうと努めるのだ。人間は、善によって連帯していく事ができないと感じた時、悪によって連帯していこうとする。つまり、同じ罪を犯す事によって、裏切りを防ごうとする。
共犯意識である。人間は希望を失った時、他者を絶望に引き込もうとする。他人が希望を持っている事が耐えられないからである。だが、それらは、自分を惨めにするだけだ。犯罪は、憎悪の結果である。故に、差別、不平等の存在する社会において、犯罪はなくならない。
 人間は業績を見ても、その人を見ない。歴史的な事件を見ても、その背景となる時代を見ない。それは、対象に自分の願望や希望を押しつけるからである。だが事実は、人間の都合によって歪められるものではない。それは、人間の身勝手である。身勝手な人間が懐く感情は憎悪だけだ。彼は、愛情を知らずに死んでいくだろう。自分に対して厳しい人間達の問にしか、平等は育たない。自分の希望を通す為には、相手の希望を通さなければならない。自分の荷を軽くしようとする人間は、最後には、すべての荷を自分一人の手で運ばなければならなくなる。自分の為にしか働かない人間の代わりに働く者はいない。相手を信じ、自分を信じるから、自分以外の者の為に働く事ができるのだ。自分以外の人間を認める事のできない人間は、誰からも認められはしない。自分以外の者の為に働く時、人間は、自分の身勝手さから解放されるのである。そして又、すべてを独占しようという気持ちから救われるのである。その時にはじめて、自分にとって人間や社会がどのような意味をもっているかを知る事ができる。心から素直になる事ができるのである。
 民主主義には民主主義の理想があり、道徳がある。封建的社会の理想や道徳が喪失したからといって、理想や道徳が喪失したわけではない。むしろ、民主主義社会のように個人の意志を尊重する事によって成立した社会では、一人一人の道徳信念は、強化されなければならない。民主主義社会では強制されない代わりに、自分達が決めていかなければならないからである。平等や自由を実現する為には、社会を構成する者の強い意志と信頼に裏付けられていなければならないからである。平等や自由を守る為の、新しい秩序、新しい道徳が必要なのである。
 人間の精神風土は、その社会の伝統に根差しているものであり、文化を重んじる事によってしか、その社会は発展しない。又、文化を重んじるとは、伝統を蔵の中にしまいこんでしまう事ではない。伝統を現代に活かす事である。又、伝統は、制度や形式にあるのではない。文化や生活の中にある。文化は権威主義的なものではなく、庶民の願望をより反映したものである。伝統は停止するものではなく、日々、新たに更新されていくものである。文化は、時代の中で洗練されていくものであるから、保守的なものではなく、進歩的なものである。時代時代に適応してきたから文化は生きのびる事ができたのである。文化とは、民衆が歴史の流れの中から勝ち取っていくものである。
 人類は、戦争や公害、貧困、飢餓、災害を解決する手段を持たないわけではない。それらの解決を阻んでいるのは憎悪である。原始的な兵器を使う国が野蛮なのだという西欧的な物の考え方は賛成できない。核兵器などの方が、余程野蛮だ。道徳のない国は野蛮だ。他の民族を野蛮人扱いして支配していこうとする民族は野蛮人だ。自殺という行為に、さももっともらしい理由を学者はつけたがるものだが、人間にとって死すべき理由などというものはない。あるのは孤独だけだ。ある日突然、自分が、孤立している人間だと感じた時、愕然と死に赴くのである。人間をそのように孤独にするもの、それは、憎悪である。差別を生み出す野蛮さなのだ。人間にとって大切なのは、憎悪を越えさせる愛情である。実りある人生とは、愛情によって人間に生まれかわっていく過程なのだ。


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