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著書:  自由(意志の構造)上


                  第1部第3章 自由

 自由、それは自己の解放、愛の実現。空を飛ぶ鳥を見ていると、自分も鳥のように自由に空を飛べたらと思う。
 病気をしなければ健康のありがたみがわからないように、自由は、それを失うまで当然のように思えてしまう。自由は、それを意識しているうちは、真の自由ではない。
 生まれてまもない赤ん坊は、自由に歩く事もできない。自由は、常に自己の限界を越えていく事によって実現し、肉体的限界から意識を解放する事によってより深味を増す。
 自由、この世には自由人と奴隷しか存在しない。そして、自由であるか否かは、自己の心によるのだ。
 天と地、生と死の間、我人生はある。自由に生きていこうとするのならば、あるがままの自分を愛し、あるがままの自分の姿を、あるがままに投げだしていくのだ。
 スポーツは、ルールがあるから自由にプレーができる。法と自由は、決して対立した概念ではない。自分が自由にスポーツを楽しみたいと思うのなら、まず、ルールを習熟し肉体をきたえ、マナーをおばえる事だ。
 迷惑さえかけなければ何をしてもいいというのが自由なのだと錯覚している人がいる。いったい他人が迷惑しているかどうか、どうして知りようがあろう。そこにいるだけで迷惑だといわれたらどうしよう。親に迷惑をかけない子供などいるだろうか。自由であるか否かと、迷惑をかけているか否かは、本質的に関係はない。ただ、迷惑をかけている事を自覚し、その上で、自分がのびのびとした気分や行動をする為に、どうしたらいいか考える事だ。
 礼儀は、本来、最高の法なのだ。いわれなくても自分の姿勢を正せるのならば、罰する必要はない。礼儀の本質は、形式ではなく思いやりであり、愛なのだ。
 現実の法と自由が対立するのは、法がその本質を失ったか、自己が法の意味を正しく認識していないかのいずれかだ。
 スポーツを自由に楽しむ為には、ルールと技鑓や肉体、そして、マナーや精神が一体となる事が必要なのだ。故に、喧嘩や戦争に自由はない。そして、ルールは、公正で平等なものでなければ、自由は実現できない。なぜなら、皆同じ法に従うから、個性が発揮できるのだ。
 近代的自我は、自己の在り方を、人間の有るが盛の姿で規定していこうとする姿勢によって成立するものである。つまり、自己の内面的欲求をすべて承認していこうとする態度である。そこには、本然的な人間の在り方は、自家自製的に生じるものであるという認識が潜んでいる。しかし、それは一つ誤れば、環境からもたらされる欲求や欲望を見逃し、野放図に人間の行動を肯定してしまう危険性を、常に学んでいる。犯罪の原因や動機を社会現象として片付けていこうとする姿勢や、人間の精神的支柱を軽視する傾向を無批判に肯定するといった態度が、進歩的という美名の下に意義づけられていくといった愚行すらある。人間の身勝手や我俵が、無条件に是認されていく。快楽を追求する事によって、生命の尊さが省みられる事がなくなる。悪や欲望が自由の名の下に是認され、腐敗や堕落が人間的であると、社会の中で横行する。自由という名が、これ程無責任に、自分勝手に使われた時代はかつてなかったであろう。
 自由とは、自己主張と自己制御に基づいた自立せる意志の表現である。自由は、無秩序な行動を指すのではない。新しい秩序を、自己の主体的な意志によって創造しようとする精神の現われである。人に強制される事なく自らを自らの力で律していこうとする姿勢である。自由は、与えられるものではない。獲得していくものだ。
 人間にとって、自由は与えられているものではない。成長する過程で、少しずつ確立していくものだ。そして、自由を確立する過程で平等を確立していくのである。成長の記憶は形態的なものであり、しかも、全行程の記憶を卵子が持っているわけではなく、次の形態の記憶ぐらいのものである。そして、その創り出された形態が、その次の形態の記憶を、形態内部の構造に有しているものと考える。思惟の過程も同様に、いくつかの独立した構造を通過する事によって、循環しているものと考える。この過程の途中の構造が、何等かの原困で歪められた場合、自由を確立する事が不可飴になり、堕落していくものと、私は考える。それ故に、自己の健全な発展を、社会は保障しなければならないのである。
 第二章において述べられているのは、自由を確立していく過程でもある。つまり、第二章は、成長の時間的構造を示したものといえる。
 現実の社会は、自己の健全な発展を促すものではない。それ故に、正さなければならない。不平等な社会は、自己の健全な発展を歪め、人間を堕落させる。それ故に、自由と不平等は、並び立つ事のできないものなのである。自由と平等のどちらをとる
かという考え方自体無意味である。自由なくして平等はなく、平等なくして自由はないのである。そして、自由と平等を支えるものとして、相互扶助の思想が生じたのである。自由、平等、博愛は、どの一つの概念を欠いても成立しないものである。
 思惟の構造には、深層構造、表層構造、物質的構造の他に、時間に伴う変化の構造、つまり時間構造がある。時間構造の様式は、そんなに数があるわけではない。思惟の内容によって時間構造は変化するのではなく、目的によって変化するのである。内容によって変化するのは、次元次元の構造、つまり、個々の過程における次元、たとえば、意思決定次元の構造といったものの内容である。性的な思考であっても科学的思考であっても、その時間構造は大差ない。ただ、考慮すべき要因が違うのである。他の構造が静態的構造であるのに対し、時間構造は、推移に関する構造であるから、動態的構造である。それ故に、時間構造に欠陥があった場合、人間の行動に大きな影響を及ばす。しかも、推移の構造は、成長の構造でもあり、時間構造が不完全であった場合、健康な成長が妨げられる事になる。それは、人間の主体的意志を崩壊する原因ともなる。
 時間構造に欠陥があった場合、人間は、自己表現ができなくなる。自己表現は、自己が、自己の構造内部を通過する連続した過程において明確になるものであり、不連続な行動は、自己の像を自己の構造内部に定着させないからである。結論の出せない思考、無思慮な行動、決断をせずに為された行為、それらは、自己を自己の構造によって制御する事を不可能にする行為である。自己の問題を、自己の判断によって決する事ができない。それは、不自由以外の何ものでもない。しかも、時間構造は、他の構造を改修するものであるが、時間構造を改修するカは、自己のカだけではむずかしい。なぜなら自己は間接的認識対象だからである。
 自己の構造は、後天的学習によって培われる。同じ行動を繰り返し行なう事によって、その行動が様式化し、構造として定着するのである。時間構造は、上質した行動を通して完成されるものであり、ただ、知識を押しっけていくような教育は、又、部分的行動を繰り返して教える教育は、時間構造の発展を阻害するものである。人間が知識を吸収するのは、人間の行動の手順を踏まえて為されるものであり、その手順を無視した時、人間は与えられた知識と自己との関係を見失ってしまう。又、自己を成長させていこうとする力は、自己の内的カに依存するものであり、外部から刺激によって内的カを誘発させる事はできても、直接、自己を外的カによって成長させる事はできない。現行の学校は、与えられた問題から特定の結論を導き出す手段しか教えない。その為に、現行の学校教育を受けた者の多くが、問題や目的の設定、導き出された結論に基づく決定、決定事項に基づく行動、行動によって生じた結果に対する反省、反省結果の目的化、問題化といった一連の行動が円滑に行なわれずに、経験や学習が充分に消化できずに苦しんでいる場合が多い。
 自己の成長は回転する水車のようなものであり、全行程を繰り返し行なう事によってしか、全人的な発展を期待する事はできない。たとえば、問題や目的が設定できない、つまり興味や意欲が持てない対象に対して、いくら問題の解き方を教えたところで、実際の場面で、それらを活用する事はできない。実際の場合で活用できない事を強圧的に押しっけられ、その人間にとって興味や意欲を持っている事ができなかった場合、問題意識や目的意識が薄れ、又、学習事項の応用能力が乏しくなる。与えられた問題から結論を導き出すというのは、一つの過程であり、全体の流れの中で、はじめて活きてくるのである。部分を部分として扱う事によってのみ、全体像をつかむ事ができる。部分を必要以上に拡張解釈するのは、全体の調和を乱す原因である。
 自由とは、創造である。人間は、学習したり創造する事によって、それまで不可能だった事を可能にする事ができる。不可能だった事を可能にする事によって、自己の限界から自己を解放し、自由になっていく。自由とは、自らのカで創り出し、開拓するものであり、与えられるものではない。自らが模索し自らが努力する事によって創造するものである。人は、水泳を習う事によって水の中を自由に泳ぐ事ができる。又、潜水具をつければ、より自由に泳ぐ事ができるようになる。人間は、自分の創造力、想像力によって自由になるのである。それ故に、社会は、創造力、想像力の発展を保障するものでなくてはならない。
 思惟の構造における時間構造は、人間の一般行動過程に現われる。それ故に、思惟の構造の欠陥は、特定の行動を選び出して、それを詳細に分析する事によって発見できる。思惟の表構造を確立する事によって、特殊な構造もしだいに確立されていく。たとえば、性的行為やある計画を立案、遂行させるといった一連の行為によって、その人間の思惟の構造の欠陥を発見する事ができる。その行為の欠陥を修正する事によって、ある程度は思惟の構造を修正する事はできる。しかし、それも程度の問題である。すべてを特殊な行為に帰結させょうとするのは、行き過ぎでぁる。性的行為に人間の行為の構造を見いだす事はできても、行為の動機や原因を性的行為に求めようとす為のは、明らかに行き過ぎである。性の解放が自由の確立だと考えるのは、甚だしい短絡である。自由は、全人的な解放であり、部分の極端な解放は、自由の本質を見失わせる原因である。
 自由な行動とは、無軌道な行動を指すのではない。自由な判断とは、事の正否、善悪を無視せよというのではない。何をしてもいい、どんな判断をしてもかまわないというのではない。自分の行動や判断を、自分の力でしているかぎりにおいて、その人間の行動や判断を尊重していこうとする態度である。自由な社会は、自分に対して厳しさがないような人間を容認するような社会では決してない。自分の行動や判断の正否、善悪を堂々と主張する積極的な態度を強く要求し、無責任、身勝手、卑怯な行動や判断を厳しく糾弾するような社会である。自分の非を自分の力で正す。そんな強い意志を持った時、社会の矛盾を看過せずに、強くこれを糾弾していこうとする姿勢が生じるのである。自分が正しいと信じる事を主張するのに、何を恥じる必要があろうか。自分が正しいと信じる事を行なうのに、何の臆する事があろうか。自由でありたいと思う人間は、自分が正しいと信じる事を、あくまでも主張し、行動を貫く事を誇りと思い、大勢に阿るばかりに自分の節を屈するを恥と考えるべきだ。それ故に、自由人たる者、権門栄華を求めず、自分が権力者、権威者になる事をひたすら恐れるべきだ。
 人間は真理を畏れ、美に憧れ、善を信じる事によって自由となる。真理を畏れる時、人は己に厳しくなり、美に対する憧れは、人に激しい情熱や意欲をもたらす。そして、善を信じる事によって、人は、自分の行動に対する勇気と信念を持つ事ができる。そして、人間は自由になる。それ故に、自由を求める時、人は内に理想を掲げ、外に尊敬できる友と師と配偶者を求めるのだ。自由を熱望する者は理想を生み出し、愛情を実現しようとするのだ。自由とは、人間の生命の激しい表現なのだ。だからこそ、自由を愛する人間を、私は信じる事ができるのだ。
 自由を、私は、真・善・美の一致と考える。すなわち、自己の行動が、外には真理に、内には善と実に一致する時、自己の行動は感情からも理性からも支持され、外界からの要求とも対立しなくなり、気力体が充実し、心技カが一致するのである。その時、人間は恍惚となり、苦しみから解放され自由となる。それが、自由の実現である。
 私は、自由恋愛論に対し異を唱える着ではない。だが、無秩序な性の解放には反対である。性の解放論を聞く時、私は、ひどく男性の身勝手を感じる事がある。中絶にせよ、薬品にせょ、母体に影響を与えないはずがない。女性にすれば、中絶をするのは、危険を伴う上に屈辱的な姿勢を強いられる事でもある。出産は、女性にとって命がけの事業である。性を快楽の手段とのみ考えるのは、男の身勝手である。その行為の結果に対して、直接自分の身体を傷つける事のない者だから言える言葉である。中絶は、殺人に準ずる行為である。だが、現代日本においては、避妊も完璧なものではなく、母子家庭に対する保障が整っているわけでもない。その上に、母子家庭に対する理解も行き渡っているとは言い難い。それ故に、結局、中絶せざるをえない。中絶を奨励するが如き性解放論者もいるが、それは、生命軽視の風潮に結びつく。精神的に未発連な人間に中絶を奨励する事によって生命軽視の風潮を植えつけるのは考えものだ。子供の世界と大人の世界を同一視する考え方にも、私は賛成できない。もちろん、私も中絶や避妊薬を法的に規制するのは無法だと考えるし、事実を隠蔽するが如き教育には反対だが、医学が発達したからといって安直に中絶を考えたり、子供の世界に大人が割り込んでいくような教育にも断じて反対する。それが、売春といった人間を商品化するものを含むのならば、なお反対する。又、喫煙のように、大人ですら害があるといわれている事を、大人に許されているからといって、未成年者に対しても許すといった考え方も野蛮である。自由とは、相手に対する思いやりややさしさ、自分に対する厳格さなどを前提にする事によって成立するのである。思いやりややさしさ、自分に対する厳しさがない社会に、自由などありはしない。楽しければ、人に迷惑をかけなければ何をしたっていいというのならば、真剣に楽しいとは、迷惑とは、充分考えてから言って欲しい。現実の生活とは、絵に書いたようなものではなく、現実の恋愛は、ゲームのような創りものではない。人間の活きたドラマだ。
 理想のない闘いは、ただの破壊だ。理想に向かって闘うから、人間は、創造的な方向に向かうのである。又、理想を求めるから、自分に対しても厳しくなり、他人に対しても寛容になるのである。信念に殉ずるのは本望ではないか。逆境に会うと、私は奮い立つ。状況が自分を必要としていると感じるからだ。自分が必要とされているからだ。絶望的であればある程、希望を持たなければならないのではないのか。理想に対する憧れが強くなるのではないのか。なぜなら、人間は生きているからだ。なぜなら、人間は生きていかなければならないからだ。誰もしないから、自分がやるしかないのではないのか。存在しないのならば、創り出せばいい。自分が辛いのは、自分が我慢すればそれでいい。だが、他人の苦しみは、自分が我慢してもどうにもならない。孤独が辛いから、友達を求めるのだ。友達だから、わけもなくあいつの為に泣けるのだ。人間は実に憧れ、善を信じ、真理を求めるから人間でいられるのだ。自由とは、自己が合目的的であった時に、はじめて実現するのだ。
 道徳とは、べからず集ではない。人間の在り方であり、理想である。又、行動の規範である。道徳的であるから、人間はお互いを信じる事ができる。道徳的であるから、人間は自由になれる。道徳とは与えられるものではない。創り出すものだ。道徳とは、他者に強制されるものではない。自己から求めるものだ。道穂があるから誇りが持て、信念が持てる。感動し、感激する。道徳とは、決して自己を押え付けるものではない。むしろ自己を解放するものだ。
 人間を自由にするのは、断固たる覚悟だ。浩然たる気だ。決断などというものは、理屈でするものではない。勢いでするものだ。それ故に、決断力を支えるのは理論ではない。気塊だ。我身一命を賭してもという敢然たる覚悟だ。人の心を動かすのは冷徹な計算ではない。炎のような情熱だ。人間が信じるのは利害得失ではない。行ないの正しさだ。人間が敬うのは、権威、権力ではない。その人間の高貴さだ。たとえ理論的に導き出された結論を信じるか否かは、最後、その人間の強い信念によってだ。将来のすべてを理論的に導き出すには、人間は、まだ未熟すぎる。
自由は、人間一人一人の確かな信念によってはじめて、その姿を現わす。自由、それは主体的に生きる老にのみ与えられた、最高の喜悦だ。
 精神異常は、自由な意志を外的なカによって抑圧される事によって生じる。思惟の構造は、外的対象と自己の対応関係の中で形成されていくものだが、外界からの強い圧力によって、自然な好奇心の発展を阻害された場合、つまり、人間の心的要求が恐怖心に閉ざされた場合、その部分を回避、もしくは無視する事によって、その部分が思憶の構造全体に影響を及ばす事を防ごうとする。人間は、そのような部分を回避しっづけたり、無視しつづける事はできない。恐怖によって閉ざされた部分は、思惟の構造の病患となり、思惟の構造の発展と共に成長する。その病患は、思考の素直な流れを歪め、最悪の場合は、塞き止めてしまう。思考の流れは、思惟の構造における血液の流れのようなものであり、流れが塞き止められた部分は、そのまま放置すれば崩摸してしまう。その為に、思考の流れは、代理的行為や飛躍、空転といった形で思惟の構造内部を流れつづけようとするのである。
 現代人は、何等かの形で、思惟の構造内部に病患を持っている。その病患が、人間の自由な行動を妨げている。病患を切除する為には、その病患を自覚し、その病患を外界との対応の中で、主体的な意志によって克服しなければならない。恐怖によって作られた病患を外気に晒すのは、激しい苦痛と恐怖を伴うものである。激しい苦痛や恐怖に打ち勝って、その病患を治癒しょうとする強い意志を生み出すのは、自己の善と他者の愛情や思いやりである。愛情は、愛情によって培われる。恐怖は、悪の温床である。人間は罪悪感をなくす事によって、罪意識から解放されるわけではない。むしろ、罪意識を意識下に潜伏させてしまう。人間が真に罪意識から解放されるのは、自分の非や過ちを認め、それを正し、二度と繰り返さないように努力する事によってである。自分の非や過ちを認めるのを恐れ、無理に隠蔽しょうとすればする程、その非や過ちに苦しめられるのである。真の教育とは、柏手の非や過ちを責める事ではない。相手の非や過ちを認めさせる事である。人間は、他人を罰したり裁いたりする事は本質的にはできない。人間が罰したり裁く事のできるのは、自分である。自分が誤りだと感じなければ、その人間は、その行為を改めはしまい。相手のカに屈したと考えるのだ。恐怖によって相手を支配しょうと思ってはならない。それは、上辺だけの問題だ。愛情によって相手に困難を克服する勇気を与えるのだ。それ故に、私は、あらゆる独裁を批難する。独裁が存在する社会は、上辺がどのようにあろうとも封建的な社会だ。
 自由を保障する社会とは、人間の勝手な行動を放任するような社会ではない。人間の健全な発展を保障する社会だ。もちろん、人間の健全な発展を一律に強制するような社会を指していうのではない。個人差や成長の段階に応じて、適切な反応を示せる社会を指しているのである。人間にとって、自分の進むべき道は一本あればいい。だが、その一本の道は、自分の意志で選び、創りあげていくものでなくてはならない。それ故に、社会は、一つの意志によって統制されるものであってはならない。社会は分化されればされる程、又、多様であればある程、人間の願望や欲求を満たす事ができる。人間は、それだけ自由になれる。社会の分化や多様化は、自己の一意性とは矛盾するものではなく、両立せねばならない事である。社会の価値の多様化が、自己の価値の多様化を招き、それ故に、決断がつかないというのは、決断力のなさに対する自己弁護に過ぎない。
 自由とは、人間のごく自然な在り方なのかもしれない。人を愛し、友を信じ、仕事に喜びを感じ、その日その日充実させようと努力する。一見平凡で当り前な毎日、だが、そんな生活の中に、人間は幸福を見いだすのではないだろうか。悲しい時には泣き、不正を見れば怒り、人の不幸を見過ごす事ができない。それが本然の人の情なのではないのだろうか。何事も恐れてはならない。恐怖心は、自由を阻害するものである。是非優劣を争ってはならない。聖書が是か、経典が是か、そのような議論は、聖書も経典も禁じているではないか。大切なのは、何が何処に位置し、何を意味しているかだ。人を軽蔑するのは、自分の心の弱さを証明するようなものだ。人間を本当に強くするものは、人間の正しい心だけだ。自由とは、限られた人間に与えられた特典ではない。極く平凡で一般的な人間でも、その人間が望み、努力さえすれば、必ず与えられる心の解放である。
 私は、悲愴感が嫌いだ。結果を恐れていたら、結果を考える事もできない。自分の事で思い煩っていたら、結局、相手が見えなくなる。足元ばかり見ていたら、世界が狭く感じられる。それだけ自由でなくなる。自分の苦しみも辛さも、最終的には自分の問題なのだ。だからといって、自分の殻に閉じ寵っていたら、問題は解消できない。自分の苦しみ辛さを乗り越えて、外に向かって自己を主張した時、人間は自由になれる。自由とは、外への自己の解放である。
 利己的なもの程、自由を台無しにするものはない。結局、依然として不自由な人間が、自分は自由になったのだと錯覚をしているのを見る事程、嫌なものはない。友達を見捨てて、何が自由なものか。自分が守らなければならない事を知らない人間に、自由などないのだ。
 自由は、愛の究極の姿なのだ。人は、自分がすべてを許されていると知った時、快楽や欲望の為に、必要でもないのに人を殺したり、人のものを盗んだりするだろうか。自由とは、何もしらぬ赤ん坊の無耶気さではなく、人生の苦しみを知り尽くした後の究極の愛の姿なのだ。


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