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著書:  自由(意志の構造)上


                  第1部第3章 間奏論

 客観的実在と主体的存在は、それぞれ独立した世界を形成している。そして、客観的実在の世界と主体的存在の世界は、肉体を媒介にして結びついている。自己は、自己の肉体を通して外界と接触し、外界の対象を自己内部の世界に反映させている。又、肉体を通じて外界に対し自己表現している。人間は、自己表現によって自己を実在化していくのである。実在化された自己を個人と呼ぶのである。客観的実在の世界と主体的存在の世界は、それぞれが独立した世界であり、同一次元で語る事はできない。自己の内面的世界と外在的世界は、全く別次元の問題である。内面的世界と外在的世界は、自己の肉体によって合一しているのである。自己の願望と外界の状況は、必ずしも一致しない。自己の肉体は、自己の願望と外界の状況を一身に受けるのである。それ故に、自己の願望と外的状況を一致させようとするのである。
 自己の構造と肉体とは違う。自己の構造とは、感覚が思惟に及ばす作用や機能を構造的に述べたものである。それに対し、肉体とは、作用や機能を起こさせる機関を言うのである。つまり、痛いといった感覚を起こさせる機関を肉体と呼び、痛いといった感覚によって構成されている思惟の構造を自己の構造というのである。それ故に、自己以外の対象には外見から肉体は知覚しえても、自己の構造は知覚しえない。
 どのような機械も、それを動かす者が居なければ始動しない。肉体も生命という主人が存在しなければ、ただの骸に過ぎない。生命も肉体を媒介にしなければ、自己を体現する事はできない。死後の世界が存在するか否かは別の問題として、そのような生命の存在を、我々は常に前提としなければならない。そして、人間存在の機械的部分を肉体といい、その肉体を動かす因子、発動因の構造を、表層の構造も含め思惟の構造、もしくは自己の構造と呼ぶのである。
 客観的実在の世界と主体的存在の世界は、同一次元で語りえない。これまでの一元論は、この両者を混乱した形で一つの理論の中に詰め込んでしまっている。二元論は、次元を結びつけるものに欠けていたのである。客観的実在の世界と主体的存在の世界は、お互いに独立した世界であり、直接干渉しあう事はないが、自己の肉体を通じて不可分に結びついている事を忘れてはならない。それ故に、客観的実在の世界と主体的存在の世界は、混乱する危険性を常に学んでいる。
 自己の肉体が一つしかない以上、自己と対象との関係は、常に、一対一対応である。一対一対応というよりも、自己と対象は、肉体によって一に合一されるのである。自己に対する外界からの作用は、肉体によって、ある一定方向に統一される。又、自己が外界に対して働きかける場合も、肉体によってある一定方向に統一される。又、このような働きかけには、必ず逆方向に、その働きかけと同量の作用が働いている。この作用を反作用と呼ぶ。
 このような自己と対象との関係を知らないと、対象に対する誤った認識の原因や、自己の行動の真の動機や目的を見失いがちになる。
 たとえば、人と人とのつきあいは、本来、一対一の関係しか存在しない。複数の人間に語りかける場合でも、その中のある特定の人間に対して働きかけているか、彼等の意志を一つの意志としてとらえて働きかけているのである。そのようにして自己は対象をとらえ、その対象を根拠にして、対象の背後に存在するものを推測していくのである。対象と自己との関係は、常に、一対一である。又、それが人間の活動を考える上で、重要な問題なのである。
 自己と対象との関係が一対一である以上、自己は、自己の視野外の対象に対して不安を抱く。その不安が、嫉妬、猜疑心、独占欲の原因となる。人間の認識能力は、丁度、暗闇の中で懐中電灯で照らした時のように、視野内に照らし出された部分しか見る事はできない。視野外の暗闇から聞こえる物音には、人間は常にある種の恐怖感を抱く。又、その恐怖感が、対象に対する強い意欲や情熱の源泉にもなるのである。
 近年の情報機関の発達が、人間の認識能力を高めたょうに錯覚している者が多くいるが、情報機関の発達は、人間の認識範囲を広くする事はできても、認識能力を高めはしない。むしろ、衰えさせるくらいである。人間は、認識鰭力範囲以外の事を信じる事は難しい。認識能力の限界を越える程の情報を与えられても、人間は、それをこなしきれない。こなしきれない程の情報を与えられると、逆に、認識能力が低下し、対象に対する意欲や情熱を失う原因にもなる。認識能力が未発連な年齢の人間に、ただ知識を与えるだけならば、知識を知るのみで、知識の内容を理解し、活用する事ができない。情報量の過多は、無思慮な行動や逸脱した行動の原因となり甚だ危険である。動物に関する知識をいくらもっていても、動物を飼う事はできない。動物を飼うのに一番大切なのは、動物に対する愛情であり、その動物の事を理解しようとする意欲である。又、それだけで充分なのである。人生とは、成長の過程である。すでに完成されているものと考える者が、傲慢なのである。
 我々は、自分達にはわからない世界が存在する事を知っている。自分達がすべてを知りえない事も知っている。又、自分が限られた世界に住んでいる事も知っている。自分だけの世界が存在する事、つまり、自分にしかわからない世界が存在する事も又、知っている。それだけで充分ではないか。それが観念的であるか経験的であるか、存在するのかしないのかといった議論は、何等、本質的な事ではない。大切なのは、何を、どう位置づけるかである。
 自己と対象が一対一対応関係にある事は是非の問題を生む原因となる。肉体が一つしかない以上、対象に対する自己の対応を統一しなければならないからである。しかし、ここで是非とは、自己の問題であり、対象側の問題ではない事を忘れてはならない。相手と自分の是非を必ずしも合一させる必要は、全くないのである。同じ女性をすべての人間が好きにならなくてはならないという道理はどこにもない。すべての人間が同じ服を着、同じものを食べる事が平等なのではない。是非、善悪、趣味嗜好は、自分が決める問題なのであり、相手に多大な被害を与えさえしなければ、どのようなものを好きになろうと大きな御世話なのである。
 人間は、説明のつかない事柄に対して、絶えず不安を抱いているし、自分の知覚している対象を何とか説明しようと努める。得体の知れないものが自分を暗闇の中から狙っているのか、絶えず誰かに監視されているのではないのかという恐怖感や圧迫感からくる強迫観念によるものだと考える。それは、自己の認識能力の限界からくる不安である。しかも、我々が認識できるのは、その時点時点における視野内の事に限られている。
 自己は、肉体を媒介にしなければ、実在化しえないし、自己にとって、自己は直接認識対象になりえない。又、対象と自己の関係が一対二対応である限り、自己は第三者にはなりえない。自己は、存在しているのはわかるのだが、自己が、直接それを知覚する事はできない。人間は、そのような自己に対して、常に心細い感情を抱いている。
 人間は、目に見えない不確かなものに囲まれて生活している。しかも、その不確かな事柄が生きていく上に重大な影響を自己に及ばしている。それ故に、その不確かなものを目に見えるものにしたいと考えるのである。顕在化の願望がそれである。
 人間関係を功利主義的に考える老がいる。しかし、人間の行為というものは、常に、作用反作用があり、利害拐得勘定によって人間のやりとりを考えるのは、無意味である。与える事は得る事であり、教える事は学ぶ事である。人間のやりとりにおいて、目に見える部分にのみ注目すれば、自分が利用されたの利用したのという感じを持つ。だが、それは、人間関係の深層構造である信頼関係や愛情関係を見落としているからである。愛情や信頼を知らぬ老は、阿る事を知らなければならない。それ以外に、その老は、人間のつきあいを知る事ができないからだ。どのような制度も社会も、愛情関係や信頼関係を前提にしなければ成立しない。
 人間は、目に見えない関係に大きく依存している。自然に対しても、社会に対しても、女に対しても男に対しても、自分の子供に対しても、親兄弟に対しても、そして、自分に対しても。ただ、それを信じるから救われるのだ。何ものも信じられなくなったら、人間は生きてはいけない。友達に腹を立てるのは、彼の行為自体よりも、彼が自分を信じない事だ。彼女に腹を立てるのは、彼女の行為自体よりも、彼女が自分を裏切ったと感じる事だ。嫉妬は、自分に対する相手の信頼が、他の老に移るのではないかという恐れがそうさせるのだ。だが、そういった相手に対する怒りや嫉妬は、相手を信じきれない自分に対する怒りである事も忘れてはならない。大切なのは、相手を信じようとする努力と、相手の信頼に応えようとする精神である。
 目に見えない関係を顕在化したいという要求に基づいて、結婿という形式が生まれ、制度が生じた。しかし、顕在化するのは注意しなければならない。自己の世界を、対象の世界に押しつけていってしまう可能性があるからである。自己の世界においては、自己は中心である。しかし、それは自己の世界においてであり、対象の世界とは無関係である。自己中心型の制度や思想を顕在化しようとすれば、必ず無理が生じ、争いが起こる。
 自己と対象との関係を知るとは、つまりは人間の在り方を知るという事である。自己の対象認識は、自己を中心に円錐型に発展する。又、対象の意味認識は、肉体が一つしかないから択一的な形でなされる。このような姿勢は、社会制度や思想によく見られる。これは、自己の世界を対象の世界に持ち込んでしまう事であり、自己と対象との転倒に他ならない。このような転倒を防ぐのは、人間の前進性と自信である。
 自己の世界を対象界に持ち込むのを防ぐ為には、実在化された自己、つまり個人を対象の中に位置づける事である。自分の為にという考えを捨て、自分にとってという事を真剣に考える事である。一人、夜の田舎道などを歩いていると、襲さと恐怖感で、目を開けているのですら困難になる。だが、その零さや恐怖感に打ち勝てば、夜の冷気が内面の暖かさ体温を感じさせ、昼間の光の中では見る事のできない美しい世界を現出してくれる。自分の足元ばかり見て歩く人間にとつては、どのような土地の風景も変わり映えのしないものである。だが、ふと目を遠くに転じた時、日頃、見慣れている風景でも新鮮な美しさを感じる事がある。結局、対象を見誤らせるものは、自分の弱さである。苦しみを恐れ、暗闇を恐れ、自分の足元ばかりに気をとられていたら、澄んだ目を失い、対象の真の姿を見失ってしまうのである。自分の今ある生命というものを肌で感じ、信じる事によってのみ、我々は対象の真の姿を見る事ができるのである。
 結局、私が愛でるものは、決断力である。人間を強くするのは、決然たる覚悟である。死を恐れていたら、自分が生きている事すら忘れてしまう。死という事実を一方において認めるから、生という事実を認める事ができる。事実は、恐れるのではなく、畏れるのである。人間が、事実を認識するのは、行動や経験によるのである。一瞬の気後れや迷いは、決断や判断を誤らせる元となる。決断や判断がつかなければ、未練や執着心を起こさせる原因を作る。行動をせずに悔いるよりも、行動をして悔いた方が事実に依拠する事ができる。経験や行動によって、我々は認識を淘汰するのである。それ故に、決断によって人間は成長していくのである。
 決断は、勇気を必要とする。だが、決断をしなければ、対象に対する考察も下せない。事に臨みては、その事に全力を尽くし、全力を尽くす事によって悔いを残さない事だ。結果を恐れては、行動はできない。結果を畏れなければ、自分の過ちを認める事ができない。恐れとは、知る以前のおそれであり、畏れとは知った以後のおそれである。計画の正否を問えるのは、やるという前提があるからだ。常に、颯々たる気持ちで対象に臨むべきだ。助かりたいと思えば、我が身一つ守ることはできない。我が身を対象に投げ出していこうとする姿勢こそが、自らを活かす手立てなのである。その時はじめて、人間は決断する事ができる。
 私は、最近、学生に幻滅を感じている。一人一人がどうのこうのというのではない。むしろ、一人一人をあげてみれば、憎めない者ばかりである。だが、時と場合によっては、人がいいというのは悪だ。自分が嫌気がさしたのは、学生という立場に甘えている人間達だ。口では偉そうな事を言っても、いざとなれば、保身ばかりを考え、両親の庇護から抜け出そうとする気概もない。人を信じるだけの勇気もないくせに、人と人の関係を功利主義的に考える小賢しさを持っている。無気力と侮られても怒るでもなし、無関心と罵られても反発するわけでもなし、無教養と侮辱されても恥じるのでもない。人に批判がましい事を言うくせに、自分は、わずかばかりの権威を後生大事と守り抜く。決断せねばならぬ時に優柔不断で、時機を逸す。責任をとるだけの覚悟もないものだから、結果が悪ければ人に責任を転嫁し、自己の行為を正当化するのに汲々とする。活動家にしたところで、私は、未だかつて彼等から創造的、建設的定見というものを聞いた事がない。いやしくも、学を志す者は、常に進取の気を養い、新たな境地を開拓する事に喜びを見いだす者である。自らが志すものに反するものに従うを潔しとすべきではない。
 人間が真に所有できるものは、目に見えないものである。それ故に、物質的な意味において、人間の行為に、得をするもの、損をするものという行為はない。あるのは、純粋な行為だけだ。その行為が、自己の世界に反映された時、はじめて自己の所有物が生じるのだ。それ故に、その時々の行為に自己を表現し、自己を見いだしていかなければならない。対象を所有しようと考えた時、我々は、対象も自己も見失うであろう。その時々の行動の中に、真実がある事を見逃してはならない。それ故に、その時々の判断や決断が大切なのである。
 我々は、一つ一つ論理を積み重ねていく事によって、ある結論に到達するのだと考えがちだが、安際には、ある判断や決断が最初に前提となるのである。確かに、結果を見ればきれいな論理的手順に従って結論が導き出されたように感じるが、それは結果であって過程ではない。新しい理論を生み出すには、判断や決断があるのである。その判断や決断を立証していく過程で矛盾が生じれば、その判断や決断を否定し、矛盾なく同じ結論に到達すれば、その結論を採用するのである。論理的手順は、問題と結論を結びつけていく過程で整備されたと考えるのが妥当であろう。そして、最初の判断や決断というものは、決して論理的なものではなく、直観的なものであると私は考える。ただ、人間は直観を直観のままにしないで、その直観的判断や決断を論理によってより確かなものとし、活用半径を広げたのである。科学にせょ、哲学にせよ、その根底には直観力というものを、ひいては判断力、決断力というものを秘めている。そして又、過ちを正す勇気を、常に必要としているのである。
 緊急時において助かりたいという気持ちが起これば、冷静さを失い、日頃の判断力も低下する。むしろ最悪の事態を覚悟し、自分の判断に殉ずるような気持ちになれば、冷静となり、自分を活かす事にもなる。事に臨んだ時、我が身の事を思えば気持ちが浮わつき、身体も萎縮する。又、我が儘、身勝手は、いざという時に、人間から気力や耐久力を奪う。森林などで道に迷った者が死ぬ最大の原因は、恐怖心によるものだと聞いた事がある。ただ、一心に自分を信じ、自分の判断に一命を投げだそうとする一念が、自分を活かすのだ。強い責任感や、自分以外の者の為に尽くそうとする愛情が、人間に気力を与え、忍耐力をもたらすのだ。そうした責任感や愛情を育むのが、日常的な決断であり、平素からの心掛け、訓練、覚悟である。その一瞬一瞬に自分のすべてを投入する覚悟が、人間に澄んだ目を与えるのである。親は子供を守ろうとする時、対象に対する恐れを克服し、平素以上のカを発揮する。人間をして、人間を活かしむるものは、他者への愛情である。自分の事しか考えられぬ者は、自分の身すら守れない、そして、対象に対する目を雲らせるのである。
 貞節がどうの、快楽がどうのと騎ぐのはどうかと思う。貞節などというものは、相手に求めるものではない。自分に求めるものだ。大切なのは、その時々の気持ちの中にある真実である。せいぜい、その時その時の生を楽しむ事だ。過去がどうの、未来がどうのというのではない。もちろん、ここからここまでがこの人が好きで、あそこからは、あの人が好きなどと、人間は割り切れるものではない。相手に対する思いやりがなく、ただ、自分の欲望の捌け口を求めるだけでは、自分自身の人間的感情を喪失⊥てしまう。相手が本当に好きならば、相手の信頼に応えようと努めるものだ。純潔、純潔と験ぐ事が、どれ程心ない事かを考えた事があるのであろうか。その言葉が、どれだけ多くの人間を苦しめ、傷つけた事であろう。愛情とは、相手を許し、自分を越えて相手と結びついていこうとする精神だ。自分の弱さを相手に押しっける事ではない。自分が好きなのは、今、目の前にいる、その人だし、それが真実なのだ。過去のその人でもなければ、未来のその人でもない。今の、その人の誠が信じられるのならば、なにを思い煩う必要があるであろうか。それは、自己の問題と対象の問題を分化していく、つまり自分が処理しなければならない問題を知る事でもある。
 論理的手順は、一直線に結論へ到達するものではない。結論が一つしか出ないという事自体、まれな事である。それに、やり方や手立てなどいくらでもある。ある判断なり決断なりが前提とされなければ、我々は結論を測る事ができないのである。目的は、その時点時点において、その人その人に応じて変化するものである。それ故に、目的は、その時々に考えればいい。又、人間は自己の視点から離れる事はできない。それ故に、目的を、多人数の者が統一して共有する事は難しい。目的を統一しようとせずに、お互いの接点において結びつくべきである。つまり、最高の線を求めず、最低の線を求めるのである。最低の線であるから妥協は許されないのである。自己の普遍性は、その時点時点における自己の内部にしか存在しない。そして、その時々に、自己の普遍性を感じた時、我々は、永遠の生命を知る事ができるのである。
 芸術的表現は、最初から理屈によってなされるものではない。部分部分の位置づけや意味づけは、表現された後でなされるものである。人を好きになった事もないのに、なぜ愛するのかを考ぇる事があろうか。悲しくもないのに、なぜ悲しいのかを考える事があろうか。我々は、理屈で人を好きになるのではない。又、理屈で悲しむのでもない。人が好きになり、その事実を説明する為に理屈が生じるのだ。又、説明は、そういう事実があるという事を伝え得ても、事実自体を伝える事はできない。愛情を知識としてうけいれてもしかたがない。それを知った所が何になろぅ。ただ、空しいだけだ。こむずかしい事を言う事が、本物なのではない。人の心をうつものが本物なのだ。大切なのは、人が好きになる事を知る事ではない。実際に、人を好きになる事である。事実は、一瞬一瞬の中にある。一瞬一瞬の中にある普遍性を定着させょうとして、芸術は表現される。その一瞬の普遍性に、我々は、美を善を真理を見いだすのである。
 決断ができなければ、恨みもすれば、いじけもする。それは、自分の正しさが立証できないからである。試みる前に、なぜ諦める必要があるであろう。闘う前に、なぜ負ける必要があるであろう。行動とは、決断の集積である。対象を正確に認識する上で大切なのは、素直さ、率直さでぁる。決断力のなさ、判断力のなさは、結局、対象に対する認識を歪める原因となるものである。決断力がなければ、人一人に惚れる事もできない。
 快楽主義も、禁欲主義も行きつく所は同じだ。無信仰も、信仰も、それに徹する者の生活態度は同じものだ。今日の善は、明日の悪となるかもしれない。だが、明日悪となる事を恐れて、今日の善を尽くさないのは、卑怯だ。明日の事に、なぜ思い煩う必要があろう。今日、全力を尽くせば、明日は自ら来る。明日の楽しみを夢見て、なぜ今日の苦しみを喜びに変えようと努力しないのか。今日が信じられずに、なぜ明日を信じる事ができるであろう。今日を生きずに、なぜ明日を生きる事ができるであろう。一瞬に生き、一瞬に死ぬ。自分が自分である事を忘れてはならない。対象に対して素直になれるのは、その時の自分に徴するからだ。自分の信念に徹する人間が、なぜ死後の世界を恐れる事があろう。神を呪い、神に祈る必要があろう。一瞬の決断、判断にあるのは、真実と自分の生命だけだ。そこには、神も仏もない。
 決断ができずに死ぬ者はいても、決断ができるうちに自分の手で死ぬ者はいない。切腹にしたところで自分の善を立証する事ができないから死を選ぶのである。すべては学習である。学習は、その時における自己の是非を明らかにする事によってはじまる。対象に素直になるのは、自己に素直になる事である。おのれの非を認め、相手に寛容になれるのは、その時の自己に徹するからである。その時の自己に徴した時、我々は自己や対象に対する未練を断ち、迷いを吹っ切る事ができる。その時、我々は、透徹した世界を限前に見る事ができるであろう。
 人間は、愚かではない。自己の行動が、外界にどのような働きかけをしているのかを知らずに、自己を維持できるとは思っていない。又、自己は、間接的認識対象である。間接的認識対象である自己が、自己に徹する為には、自己以外の存在に承認されなければならない。自分が、自分以外の者に認められている、又、認められている事を認める、それは、信頼であり、愛情である。ここに、人間にとって、信頼や愛情が絶対に必要なのがわかる。
 自己に徹するとは、自己の力を一点に集中する事である。しかし、人間がやらなければならない事は一つではない。それ故に、一人で物事をかたづけようとすれば、自己の能力は分散される。なにせ人間の身は一つしかない。一遍に、そう多くの事はできない。それ故に、人間同士連帯し、仕事を分担していくのである。人間同士が連帯していく為には、強い信頼、愛惜がなければならない。連帯している老同士が信頼できなければ、注意がそれだけそちらに向けられ、判断力、決断力が低下する。甚だしく注意力が分散されてしまえば、決断力も判断力も全く喪失されてしまう。
 人間が間接的認識である以上、又、自己認識に対する媒介物が対象である以上、我々は、対象と自己を意識の上において、何等かの形で結びつけておかなければならない。それが信頼であり、愛情である。自己と対象とを結びつけていこうとする意識は、欲望や執着心の原因ともなるが、信頼や愛情を生み出すものでもある。何物かを信じ、又何者かに信じられた時、人間は強くなる。信頼や愛情が強くなればなる程、人間は恐怖心から解放され、対象と正面から対峙する事が可能となっていくのである。
 あってはならない事と、ありえない事は違う。なさなければならない事と、なしえない事とは違う。あってはならない事やなさなければならない事は、自己の問題であり、ありえない事やなしえない事は、対象の問題である。我々は、これらを混同してはならない。混同すれば、そこに権力や権威が生じる。価値基準がいくらたくさんあっても、我々が持つ価値基準は一つである。我々がその事に気がつかなければ、自己の価値基準を他者に押しつけていくか、自己の判断が下せなくなるかである。人間は、自己は、自己であり、自己の判断と他者の判断をいかに両立させていくかを考えていくべきなのである。


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