Welcome to
近代社会は、個人主義を基礎として成立した。 そして、その個人主義の根本には、自己概念がある。現代社会の揺らぎは、個人主義の揺らぎでもある。
個人主義の根本である個人とは、自己を客体化したものである。 すなわち、個人主義の揺らぎは、自己概念が確立していないことに由来する。
個人主義には、自己を意識した個人主義と、意識せざる個人主義がある。自己を意識した個人主義は、
世界を内省的にとらえる傾向があり、意識せざる個人主義は、世界を外形的にとらえようとする傾向がある。
そこで、意識された自己概念を内省的自己概念、意識されない自己概念を外形的自己概念と定義する。
内省的自己概念は、精神世界を発達させ、外形的自己概念は、社会制度や経済制度、科学を生み出した。
意識した個人主義が東洋において発展したのに対し、意識せざる個人主義は西洋において発展した。
内省的な自己概念が東洋において発達し、外形的自己概念が、西洋で発達した原因の一つは、言語である。
東洋においては、自己を表す言葉が多くある。そして、それによって微妙に自己概念を使い分けている。
それに対し、西洋においては、自己を適切に表す言葉が少ない。極端にいえばない。
厳密に言えば自己は、oneselfでもなく、egoでもない。
自己という言葉がよく使われる東洋においては、あらゆる事柄の原因を自己に帰す傾向がある。
それ故にかえって自己と他との関係が曖昧になってしまった。
それに対し、西洋において、自己を表す言葉がないことによって自己を間接的に表現しようとし、
結果的に外形的自己概念が発達したと考えられる。そして、皮肉なことなそれが近代的個人主義を発達させ、
近代科学や、民主主義、経済の礎を築き上げたのである。
外形的自己と内省的自己の差は、私と自己の違いである。自己を意識することによって、自己を定義することが可能となる。つまり、自己を対象化できるのである。自己を対象化できれば、自己を客体化できる。自己を客体化できれば、自己を一般化できる。自己を一般化できれば、自己を普遍化できる。主体としての自己は、常に、私であって、対象化された自己は自分である。私は、私として外に向かって自己を主張し、自分は、自分として内に向かい内省的になる。日本語は主語が欠落する。自己が潜在化するからである。つまり、自己は、全ての前提として忘れ去られる。
外形的自己概念と、内省的自己概念は、表裏をなすものであって、一体となって初めて完成する。
すなわち、本来個人主義は、両面を併せ持つものでなければならない。
そして、現代の危機は、個人主義の確立によってのみ克服できる。
つまり、自己概念を要にして東洋哲学と西洋哲学が合体することによってのみ人類は救われるのである。
本書、分裂した自己概念を一つにし、この危機を克服するための方策を作るために書かれた。
ここに書かれているのは、作品のごく一部である。
基となる作品は、日本語で百万字を越えるものである。
また、本作品は、本来、他に社会並びに経済構造をあつかった「平等」、
精神世界をあつかった「愛」の二巻を加えた三巻よりなる予定であったが、
限りある時間の中で完成することは不可能に思える。
本書の全体は、三つの部分からなる。そして、それぞれの部分に序論と終論があり、
部分と部分をつなぐ間奏論がある。さらに全体を序論と終論によってまとめている。
最初の部分である第一部において、自己概念を定義している。
自己とは、すべての存在の前提となる存在である。自己とは純粋な存在である。
自己は、完全な存在である。自己は、絶対的な存在である。自己は唯一な存在である。
自己は、主体的存在である。自己は、自己を体現できる唯一の存在である。
自己は、間接的認識対象である。この様な自己が存在するのは、今だけである。
自己には、価値観といった意識が生み出した属性は含まれない。
自己が主体的な存在でありながら、
間接的認識対象であるということがいろいろな問題を引き起こしている。
人間の意識の混乱の原因は、この自己の存在形態が構造的に引き起こしているのである。
我考える故に我ありというのは、自己の存在証明にすぎない。
なぜならば、考えるというところを食べるとしても、
遊ぶとしても存在するという結論は変わらないからである。
故に、考えるということは、自己の存在を証明するものだとしても自己の存在を規定することはできない。
自己概念を定義した後、善悪の基準を定義する。
人の行為のすべての原因は、自己にある。罪の意識は、自己が生み出す。
罪は、原因であり、罰は結果である。罪の意識がなければ罰は生じない。
故に、人を罰することのできるのは、自己だけである。善と悪との価値基準は自己に依存する。
人は、自己の価値観によってのみ裁かれる。故に、善とは、自己善である。
社会的正義は、自己善に基づいた契約によって成り立っている。
第二部は、まず神の定義から入っていく。
存在を存在たらしめる存在それが神である。神は、自己を超越した存在である。
この世のすべての存在は、神に依存する。神は、すべての存在の源である。
神は、なにものにも束縛されず、それ自体で存在する。
自己は、神に依存しているが、神は、自己に依存していない。神は、完全な存在である。
神は、絶対的な存在である。神は、純粋な存在である。神は、普遍的な存在である。
神は、どこにでも存在する。
神は、人間を必要としてはいない。人間が神を必要としているのである。
人類が滅亡しようが神には、何の影響もない。
なぜならば、神は、人類が存在するずっと以前から存在したのであり、また、
人類が滅亡したとしても存在し続けるからである。
なぜ人間は、神を必要とするのか。一つは、自己が間接的認識対象であるということ。
自己は、それ自体では自己の存在を認識できない。認識し得ない存在は、存在しないのと同じである。
自己は、間接的認識対象である以上、自己は自己を超越した他との関わりによってのみ自己の存在を
認識することができるのである。そのためには、自己を超越した存在を必要とするのである。
第二点は本質的に人間は、肉体的にも精神的にも自己以外の存在を必要としている。
自己を存在たらしめている存在が神であり、神が自己のために準備した精神的、
肉体的空間が真実の世界である。第三点は、意識が神を必要としている。
我々が住む社会は意識が作り出した世界である。そのような世界は不完全なものであり、
相対的な世界である。この様な世界は、不安定で不確かな世界である。
不安定で不確かな意識がより確かなものを求めて神を必要とするのである。
第四点は、自己の存在を超越するものを前提としないと自己と他との識別ができなくなり、
自己の独立ができなくなることである。純粋なる自己は他との関係を意識することなよってのみ
確認することができる。そのためには、自己の存在を超越した内なる神を必要としている。
第五に存在を存在たらしめてる神を否定することは、自己否定につながるということである。
最後に神の否定は、自己の価値観の絶対化につながることである。絶対的なの自己の存在である。
自己の意識が生み出したものはすべて相対的である。
相対的な意識をもって絶対的な存在を理解しようとするのは、錯誤である。
先に述べたように絶対的な存在を否定してしまうと自己否定につながる。
自己否定をさけるためには、自己が生み出したものを絶対化する必要が生じる。
故に、神を否定するものは、自らを神とする。しかし、自己の意識が生み出すものは、幻影にすぎない。
次に、科学的認識の根拠を明らかにする。
存在は絶対的なものである。対象をいったん認識し、その後意識の働きによって
対象を識別しようとした瞬間から対象は相対化する。
故に、意識によって作られた世界は相対的な世界である。このような意識の働きを、
対象の絶対的認識から相対的認識への変換という。意識の上に存在する世界は、
意識が作り出した世界である。
いったん対象の認識を相対化するとそこから、諸々の概念が生まれる。
その中から、時間と空間の捉え方をあきらかにする。その後、場と構造の定義する。
これらの命題は、自然科学の哲学的根拠であると同時に後に述べる社会科学の基礎となる概念でもある。
第三部においては、個人主義の定義をし、個人主義を基礎とした権利と義務、 そして、それに基づく社会制度のあり方を述べる。
個人とは、自己を客体化したものである。
主体的存在である自己は、そのままでは、客観的対象として扱えない。
そこで自己を自立した個体とすることによって自己の属性を定義する必要があるのである。
このときに、自己が間接的認識対象であることが重大な意味を持つのである。
政治体制も経済体制も個人主義を基礎として考えるべきである。
そのうえで、民主主義も市場経済も構造的に捉える必要がある。
なぜならば、現在起こっている矛盾の多くは、制度上の問題であり、現象的に捉えるだけでは、
真の原因を明らかにできないからである。現象引き起こしている背後の構造に光を当てる必要がある。
最後にこのような構造を解明するための哲学的根拠を明らかにしたいと考えている。
紙面の関係でかなり簡略化しており、論理が飛躍しているように思われるかもしれない。
しかし、本文は、個々の命題は、厳密な論証による。
私は、この国では哲学者として認められることはないだろう。なぜならば、日本ではすでにあるもの以外を認めることはないからである。そのうえ正規の学歴もなく、学会にも所属しない人間を認めようとはしない。発表する機会も与えられない。
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、
一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including
all the tables, figures and pictures belongs
the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce
any copyright withiout permission of the
author.Thanks.
Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano