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著書: 自由(意志の構造)上
第2部第1章 対象
なぜ近代科学は、これほどの成功を納めることが出来たのだろうか。なぜ人種、風俗習慣、宗教、体制、言語等の壁を乗り越えて一つの体系を作り上げる事ができたのだろうか。なぜ技術革新を生み出し、新しい世界を構築し、それまで不可能とされてきた事を可能としえたのであろうか。
科学の目覚しい発達は、科学に対する神話や幻想を生み出した。それがやがて科学万能主義へと発展していくのである。しかし、考えてみると科学は、死や生命といった人間にとって本質的な問題に何も答えてはいない。人間のあり方や道徳について何も述べてはいない。なぜ、この世に男と女の別が必要なのかとか、愛とは何なのかといった肝心な問題について何一つ解明しているわけでもないのである。また、科学者の全てが、科学万能主義に陥っているわけでもなく、神を否定しているわけでもない。否むしろ、著名な科学者ほど信心深く、また科学の限界をわきまえているものなのである。
科学の名の下に研究や技術革新が進み、それが社会の急激な変化をひきおこしたというのに、科学そのものの意味やその下地になっている哲学は、未だに不明瞭なままである。いったい科学とは何なのか。科学の基盤となっている哲学を明らかにしていかないかぎり、科学を基盤とした近代文明を解明することはできない。そこで、まず科学の下地になっている考えを、この部で少しづつ明らかにしていきたいと思う。
科学は対象のとらえかたに特徴がある。いきなり原理を規定し、その真理に基づいて現象全てを説明しようとするのではなく。対象の在るがままの姿を唯一の依り所として、その対象の背後に在る法則を導き出し、個々の現象をその法則によって説明しようとするものである。
科学はとりあえず日常的な出来事、現象、つまり目に見える世界を唯一の根拠として対象を限定する事によって立論されたのである。故に、科学は、立証可能で測定が可能である事が重要な要素なのである。そして、多少忍耐力が必要だとしても、科学は、ある程度の知識を身につけ、合理的な思考方法が出来さえすれば誰にでも理解できるものなのである。
集団で一つの問題を検討する為には、視覚性と操作性の二つの要素を要求されるが、科学は数学的手段を媒介にすることによってこの問題を解決し、複数の人間によって日常的な問題を協議検討することを可能としたのである。そして、その事が多くの異なる意見を吸収し、学問を、一部の知識人階級の占有物から解放し、一般民衆もその恩恵に浴することを可能としたのである。そこに、科学の大衆性と革命性がある。
日常的現象を基礎原理の根拠としたことによって科学は日常生活の中で広範かつ多大な成果を上げることが出来たのである。そして、それがまた科学の評価を不動のものとしたのである。
しかし、日常的現象や目に見える世界に対象を限定したからといって、科学者は非日常的な現象や目に見えない世界を否定したわけでは決してないのである。科学者は取り合えずそれらを考察の対象から外したのにすぎないのである。そのうえで、ごく日常的で確実な現象や出来事に基礎をおいて体系を築きあげたのである。故に、科学者は、科学的に立証出来ない事は、何事も全て有り得ないと言っているのではない。ただ、科学的に証明出来ない事は科学的では無く、科学の領域では説明ができないと言っているのにすぎないのである。科学的に証明出来ない事を信じるか否かは科学者一人一人の思想信条の問題であり、科学それ自体とは無関係な問題である。
科学は本来人知の及ぶ問題とそうでない問題を明らかにし、人間が知りうる問題のみに対象を限定しようとする姿勢から生じたのである。わからない事はわからないと率直に認める所から科学は出発する。つまり、科学は全知全能どころか、自らの限界を正しく認識する事によって成立するのである。しかし、科学の多大な成果に人々は目を奪われてその本質を見失ったのである。そこから、奇妙な科学に対する神話や科学万能主義が生まれたのである。そして、科学に対する新たな信仰がそれまでの宗教や古い価値観を否定するための口実に利用されるようになったが、その殆どの大義名分は科学的根拠が薄いものである。反道徳的、退嬰的、反社会的な行動を科学も自由も正当化するものではない。
科学の進歩による成果は進歩を絶対視する傾向を生み、古い事を頭から否定し新しい事を新しいというだけで肯定する誤った認識を蔓延させた。新旧老若と是非善悪とは違う問題である。医学の進歩によって確かに人間の寿命は伸びた。しかし、長生きが出来るだけで、人間は本当に幸せになれるのであろうか。避妊薬の発展によって出産と快楽を切り離して考える風潮が広まっている。しかし、恋愛というのはそんなに簡単に割り切れる問題だろうか。麻薬は、現実の苦しみから一時的に解放してくれるが、苦しみを根本的に解決してくれるわけではない。麻薬でも使い方次第で薬にも毒にもなる。科学にも麻薬の様なところがある。科学を創造的なものとして利用するか、破壊的なものにしてしまうかは人間の心のあり方次第である。科学の進歩と人間の心の進歩とは違う。科学の進歩が人間の心の退化を招いていることもあるのである。科学は丁度インドのシバ神のように創造と破壊を併せ持っているのである。
科学的であるか否かの判定基準は、論理的であるか否かであり、道徳的であるか否かとは別次元の基準である。しかし、科学による成果が日常生活全般に及ぶに従って、人々の価値観まで影響を及ぼすようになったのである。その結果、人間としてのあり方に代わって、科学的であるか否かが、価値観の中で重要な要素を占めるようになったのである。しかも、科学者のいう科学的であるか否かの基準は立証が可能か否か、測定が可能か否か、つまり必然性ではなく可能性が重要視されるのである。可能か否かが最優先され、そのことの必要性やそこから生じる結果や意味は二義的なものとされたのである。例えば、原子爆弾を製造する事が可能か否かが重要な課題であっても、原子爆弾を開発する必要があるか否か、開発した結果がどうなるのかについては二義的に考察されたに過ぎないのである。しかし、一度開発された技術は一人歩きを始める。結局、核兵器は人類を破滅させる原因にまで発達してしまったのである。現在核兵器の開発にたづさわった科学者の多くが自責の念におわれ平和活動に身を挺しているが、後の祭りである。今日未だに良心の呵責を感じる事なく悪魔的兵器や技術の開発に従事している科学者が多数居るのは、戦栗すべき事実である。愛情を科学的に分析したりするのは意味のないことである。人間の行動を科学的に分析しても人間のあり方までは決められない。近代科学の発達は、同時に、終末的兵器や公害、麻薬の発達の歴史でもある事を忘れてはならない。現代社会において科学技術の成果のみが重視され、その反面で倫理観が軽視される傾向があるが、科学技術が発達すればするほど、むしろ本来倫理観のもつ意味が重要性を益々増大していかなければならないのである。
猥褻とは、歪められた意志である。疎外とは、自己と対象との分裂である。自己の生きる目的と生き方が対立したとき人間は猥褻になり。自己の価値観と自己の行為が反目したとき人間は疎外感に悩むのである。科学を猥褻なものにするか。科学によって疎外感を味わうか。それは人間のありよう如何で決まるのである。
科学は、何も特殊な事柄を扱っているのではない。ごく一般的で当り前な事柄を扱っているのである。単純な事柄をことさらに難しくするのは科学の本来の姿ではない。むしろ、逆に、複雑な事を単純にする作業が科学本来の仕事である。しかし、科学が発達して自律的な体系を築くと、かつて多くの宗教が辿ったようにその本質が見失われ形骸化されていき煩雑なものになっていったのである。そして、人々は、科学の名の下に科学とは全く無縁な所で新たな迷信に支配されようとしているのである。
科学は人類にとって福音となるか、パンドラの箱となるか。科学を正しく理解せずに、科学による支配を許す事は人類の破滅を意味する。どの宗教にもあるように科学にも科学的な終末論がある。そして、この科学的な終末論は他のどの終末論より生々しい現実として説得力をもって聞こえてくる。我々は、人類の英知をもってこの終末論を打破し、真の楽園を築いていかなければならないのである。
科学は真理を求め、技術は実用を求める。志は高く理想を追い、行動は現実に対処する。故に科学が理想をおえば追うほど技術は実利を追求する事になる。そして、技術革新を促すのは戦争と富と情欲である。人間の社会を発展させ技術革新を促進するのは崇高なる理想ではなく泥臭く生々しい欲望である。その欲望を浄化するのは人間の宿命である。どう仕様もないしがらみの中で情念の虜となり、悶え苦しみ業火に身を焦がす。自分の限界や壁にぶつかり打ちのめされ、絶望の淵に落ち込んでいく。もって生まれた性や欠点で人を傷つけ自己嫌悪に陥る。くだらない事に劣等感を持ち失望する。見栄や外聞に捕らわれ他人の目や噂を気にする。邪悪な誘いに心を動かし、いつも自分を正当化する事に汲々とする。僅かばかりの成功を鼻にかけ傲慢となり、ちやほやされると好い気になって自惚れる。自分に力がないのを棚に揚げ人が認めてくれないと世を拗ねる。簡単な挫折で世を儚み、逆境に会えばなぜ俺だけがと天を呪い社会を憎み人を責める。自分だけが正しいと独善的になり、世間を斜めから見るようになる。自分は何も具体的な事をしない癖に世の中の批判ばかりをする。何の努力もしないですぐに諦め自暴自棄になる。果ては勝手な理屈を付けては他人の迷惑など省みないで身勝手放題に振舞う。絶えず死や病気の影に脅えて、生きる勇気すら失って仕舞う。結局こんな人間が持って生まれた弱さ醜さが人間の社会や技術を発展させたのである。そして、この弱さや醜さを克服しそれでも人を愛し力強く生きていこうと志したとき、その意志によって人間の魂は浄化されるのである。それが神の摂理である。
自然の力は無限である。それに対し、人間の力は有限である。人間は、自分の力を増せばますほど、自らの力の限界を思い知った筈である。それなのに少しばかりの成功に自分を見失い、自らの力を過信した所に、現代文明の落し穴や危機が潜んでいるのである。限り有る人生と限り有る力で無限の自然に挑戦していくから人間には無限の可能性が有るのである。自然の力は無限であっても、人間が活用しうる資源は有限である。それは、人間の力が自然の力に及ばない証拠である。自然の力を利用することによって、人間は自分の力を高めることが出来る。それ故に、人間は常に自然に対する畏敬の念を持ち続けなければならないのである。さもなくば、自然は自らの掟に従って自らの力で人間達を裁くであろう。
科学は、宗教と同様人間の観念が生み出したものである。故に、科学には自ずと限界がある。科学が自然現象の全てを解明したわけではない。科学に過大な幻想を抱くことは危険である。それは、かつて神に幻想を抱いたのと同様、科学を教条的なものにしてしまう。あるがままの自然を素直に受け入れ、日々自然に謙虚に接することによってのみ、人類は自然の恩恵に浴する事が出来るのである。
かつて、きこり達は山に入るとき山の神に祈りを捧げ、大木を伐採した折は、その切株に木の枝を接いだという。狩人達は神に獲物を捧げ、農民達は収穫の一部を神に供えて神に感謝を捧げた。家を建てるときは地鎮祭を催して土地の神に許しを乞うたのである。それを迷信と決めつける事はたやすい。しかし、一見無意味な伝承やしきたりにも、自然に対する祖先達の知恵を見いだすことができるのである。
今日の繁栄は明日の繁栄を保証するものではない。自然を畏れ、自然を慈しみ、自然の恵みに感謝し、日々の研鑽を怠らない者のみが明日の栄光を手に入れることが出来るのである。
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