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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第1章第3節  自然

 大自然、路傍の石でさえ億万年の時を蔵し。夜空に瞬く星の光も何万光年もの時空を旅してきている。それに比して、なんと人間の歴史の短いことか。人の一生のはかない事か。瞬くほどの間もない。大宇宙からみれば、地球は砂粒程の大きさもない。それでも、人間からみれば途方もなく巨大である。一体人間は自然の何を超えたと言うのであろうか。
 大河は雄大な姿で人を圧倒する。雲間から差し込む日の光は、人の心を厳粛にする。雪を頂く山々のなんと神々しい事か。朝霧に包まれた高原のなんと清々しい事か。岩に砕け散る荒波の何と猛々しいことか。靄に覆われた湖のなんと幻想的な事か。事実は小説より奇なり。生命誕生のドラマは、どんな空想映画や怪奇小説よりも神秘に満ちており、自然の造形は、如何なる絵画や彫刻より幽玄である。蟻の様に小さな昆虫でも人間が作り出したどんな機械より精妙に出来ている。一体人間は自然の何を理解したと言うのだろう。
御神火、大地を揺るがし、噴煙を大空に吹き上げる活火山。一瞬にして文明を破壊する。地震や洪水。山を崩し、街を呑込む雪崩や津波。人間の浅知恵をあざ笑うかのように猛威を振るう嵐や竜巻。自然の力の前に人間のなんと無力なことか。一体、人間は自然の何を支配したと言うのだろうか。
 思い上がるな人間。母なる大地を海を、この地球を汚したのは誰か。自惚れるな人間、父なる神を、天を侮辱したのは誰か。雨よ、大地の汚れを洗い落とせ。風よ人間の思い上がりを吹き飛ばせ。大自然は神の住む処。人間の侵すことの出来ない所。人知の及ばざる所。天に唾すれば自らが被る。自然を汚すことは自分を汚すことであり。何よりも一番困るのは人間自身なのである。
 自然とは人間の意に従わざる対象をさしていう。つまり、人間が変える以前の対象、人間が変える事の出来ない対象、人間が判断する以前の対象、人間が決める事の出来ない対象である。全ての対象は既に与えられている対象、自己が無意識の内に生み出している対象、自己が意識的に創り出している対象の三つに分類することが出来る。その中で、自然は、既に与えられている対象と定義できる。しかし、ここで定義した自然以外の対象、つまり、人為的、人工的対象も、自然に存在する物質を利用して、自然の法則に基づいて創り出しているものである。故に、自然な対象に根拠を持たない対象は、人工的対象の中にも見い出されない。観念的対象であっても観念が原対象に対する認識を前提としている限り、自然を発展的に解釈したものである。即ち、科学は自然の力を応用することに依って成立しており、その意味で人工的世界は自然の支配から逃れる事は出来ないのである。自然とは、原世界、原対象を指して言うのである。
人間は、与えられた能力以上の事は出来ない。たとえ潜在能力を発掘したとしても、それは、元々与えられた能力を引き出したのに過ぎない。人間は、自分に与えられた形態内部にしか、自己の発展性の起因を持たないのである。自然に存在するものを活用し、自然の法則に従わない限り、人間は何物をも創造することは出来ない。また、自己の肉体の限界を超えて行動することは出来ない。人間は、機械の力を借りないと水中で生活したり、空中を飛行したり、真空な空間で生きることは出来ない。つまり、人間は決められた枠内でしか行動出来ないのである。傲慢になってはいけない。人間は与えられたものを活用することによってしか、自己を活かす道はないのである。反面、人間が地上に生息していると言うことは人間が生存するのに必要なものは既に与えられている事を意味しているのである。大切なことは与えられたものを最大限に活かすことである。その為には努力しなければならない。努力しなければどの様な能力も発揮する事はできない。肉体は鍛えておかない限り衰えてしまう。自分の容姿に溺れ、油断をすると自分の美を保つ事は出来ない。教養を身に付けておかないと品位を研くことは出来ない。要は与えられたものを如何に活用するかである。
 文明と言うのは、人間が自然環境を自然の力を応用して自分達に住易い環境に改良していく事に過ぎない。自然は、微妙な調和と均衡によって保たれている。丁度それはオーケストラのようなものである。仮に、一人の団員が勝手に演奏を始めたら全体の調和は乱れ、均衡は奪われてしまう。同様に自然も勝手に一つの要素を変更すると全体が狂ってしまう。なぜならば、自然それ自体が一つの体系を持っているからである。病気を治療する時病気に冒された箇所だけを対象にすれば良いと言うのではない。その治療を施した場合、どんな副作用がどの場所にどの様に出るかを配慮しなければならない。同様に、我々は、環境を変化させるとき、自然の持つ全体系を考慮しなければならない。さもないと、自然は自らの掟に従って人間に報復するであろう。
 対象の概念は、言葉の羅列として現れるのではない。その背後に存在する、平面的、もしくは、立体的な描像として現れる。概念は命題の集合として表されるが、概念の本質は、言葉の意味の集合ではない。概念を理解するとは、言葉の意味を解すると言うことではなく、言葉が意味するところの観念的表象を理解すると言う事である。例えば、我々がある建造物を表現しようとしたとき、対象を言葉と言葉の繋がりとして表現するが、それだけで相手の理解を得られる訳ではない。言葉は信号に過ぎない。予め設定された法則に基づいて具体的描像を言葉で構造的に配列して話に変換し、相手側に送信して受像者側の観念の中にTVの映像のように具体的表象を照射し想起せしめるのである。そして、受像者側は、相手の言葉を自己の内的世界に再構成する事によって具体的な建造物の像を想念の中に写し出すのである。受像者が概念を内的世界に写し出すための仕組み、丁度TVの受信装置や同調チャンネル、つまり認識構造を有していない場合、受像者側に対象の概念を伝達する事は出来ないのである。即ち、意思の疎通は、多少性能の違いはあったとしても常に、送信者と受信者が同じ構造と体系を持っていないと成立しないのである。
 自然を正しく理解できないのは自然に問題があるわけではない。認識者側の認識姿勢や方法に問題があるのである。人間には必ず内心に抵抗がある。認識そのものが、対象を自分の観念内部に取り込んでいく事なのである。対象を素直に認識できないのは、内心に恐怖心、偏見、迷信、妄想、願望、期待、虚栄心、劣等観、優越観、妬み、憎悪と言った阻害要因が存在するからである。それが対象を認識する過程で微妙に作用し観念内部に歪んだ自然の像を創り出すのであり、自然自体が歪んでいるわけではない。正しい自然観を創り出すためには自己の姿勢を正し、内心の抵抗を小さくするための努力が必要なのである。
送信者と受信者が同じ言語体系や構造を共有していない場合、お互いの意思の疎通は言語以外の手段に依らなければ不可能である。その場合構造とか体系とはハードウェアばかりでなくソフトウェアも含まれる。そして、むしろソフトウェアの方が重要な役割を果している場合が多いのである。我々は、直接人間以外の動物と言葉を用いて意思を疎通させ様とした場合自ずと限界がある。訓練をすれば片言の命令や言葉を理解することが出来るようになるかもしれないが、概念までとなると甚だ心許ない。少なくとも人間同士のようにいかない事だけは確かである。それは、人間と他の動物との認識器官も認識構造も、即ち、ハード面においてもソフト面においても別のものであるからである。動物達は、人間が見ている世界と別の世界を見ているのかもしれない。しかし、人間以外の動物と意思の疎通が出来ないからと言って日常生活に不便を感じることはない。むしろ、同じ動物である人間同士の間での意思の疎通が問題なのである。それは、人間同士は同じ運命を共有しているからである。意思疎通の重要性は生活距離に比例する。
 同様に自然を認識する場合においても、自然の持つ独自の体系とや法則を理解しなければならない。同時に自然を認識する為の技術手段を修得していなければならない。つまり、自然の力を正しく活用する為には、物理学的法則と数学的手法の両方を修得する必要がある。
 我々は、学習をしない限り、外国語を理解する事は出来ない。また、学習しても、言葉に該当する日本語がなければ、言葉を翻訳しない限りそれを理解する事は出来ない。相手の伝え様としている概念が自分の頭の中にある辞書に登録されていないと理解できない。特に自分達の世界に存在しない対象や観念は、言葉を直接対象や観念に置き換える事が出来ない。また、自己の観念の思考体系と違う言語体系によって表現された概念は媒介となっている言語を自己の言語に翻訳しない限りその概念を理解する事が出来ない。
 自然を理解するためには、現象の背後に存在する自然の法則を理解しなければならない。しかも、自然の法則とは、必ずしも物理学的、数学的なものとは限定できない。自然界の掟は、神の摂理でありより現実的な形で人間を支配しているものである。人間は自然の法則を無視しては生きていく事は出来ない。故に、人間は注意深く自然を観察し、自然界が人間に語り掛けてくることに耳を傾け、実際的なところで守り生かしていかなければならないのである。
 西洋医学に接する以前の日本では、解剖が許可されない上、言語上の壁もあって簡単な言葉を訳すにも謎解きの様に難しいものであった。また、西洋哲学を理解するために、仏教や儒教と言った東洋哲学を援用せざるを得なかったのである。ライオンや象を知らない人間が想像によって描いたり彫った絵画や彫刻が獅子や想像の象である。確かに特徴を捉えてはいるがまったく別の動物である。実際の対象と自己との間の介在物が多くなればなるほど実物とは程遠いものに変化してしまう傾向が人間の認識にはある。現代は、昔と違って諸々な通信設備が発達している上、対象を言語的手段に頼らずに伝達する事が出来るようになった。しかし、宇宙や海底、地底、死後の世界といった人間が直接的な手段で知ることの出来ない世界はまだまだ多くあり、我々の理解を絶する世界が未だに存在する事を忘れてはならないのである。またそれと同時に可能なかぎり対象と自己との距離をなくすよう努めなければならないのである。
 人間の意志をお互いに交換し合う時お互いの間にはお互いの世界をつなげるための媒介となる体系がなければならない。自然に対する認識も同様である。自然はそれ自体が一つの完結した体系である。自然という完結した体系を、自己の未完結な体系によって当嵌めようとしても土台無理がある。故に、自然の法則性を発見する為には、現象に応じて任意な体系を選択し、その体系の範囲内で分析をする以外にないのである。そのために、現象を分析する目的や選択した体系によって導き出される法則も違ってくるのである。また、そこで導き出された法則の正当性は、それを導き出した体系の正当性によって裏付けられていなければならないのである。
 この様にして導き出された法則は、同じ条件で同じ体系によって外的対象に再現されることによってはじめて立証される。科学は、この様にして自然の法則を論理や観察を通して内的表象の中に体系化し、それによって編集された法則を逆に実験によって対象に投影することによって特殊な概念を、一般化し認識了解を深める事によって成立するのである。
 一般概念として立証された法則も、そこで使用される体系が任意である以上、仮定、仮説の域を出ない。また、科学は、論理的整合性、数学的整合性を要求される。つまり、実験や観察による現象の再現と論理的整合性によって裏付けられた仮説、命題を体系付た理論を科学と言うのである。
 例えば、力学的法則は、自然現象を方程式化したものであるが、導き出された方程式は、実験によって再現、観察されたうえ、更に、数学的整合性が立証されてはじめて認知される。それと同時に他の体系への現象の互換性がなければ公式的なものとはならないのである。また、他の法則とも論理的に矛盾しない事も要求されるのである。
 自然の法則は、科学的論理体系に帰納法的に登録され、具体的な情報を入力されると、演繹法的に出力される。つまり、自然の法則は、帰納法的に立証され、演繹法的に応用されるのである。また、自然の法則は、帰納法的に論理的証明がされ、演繹法的に実験的立証されるとも言い替える事が出来る。
 我々は、個人的な経験や日常的な出来事といった特殊な現象を単純化し、その特殊な現象の背後にある法則性、規則性を導き出し、それを一般化した上で、社会的なものとして応用していくのである。学問、研究とは、この様に特殊性から一般性、一般性から特殊性への仮定を繰り返すことによってより洗練化され、普遍的な体系へと止揚されていくのである。
 猶、数学的体系や論理的体系はそれ自体が意味を持っているわけではなく、言うなれば空の体系である。
 科学的教育とは、一般概念をただ教える事を言うのではなく、一般概念の導き出し方を教える事を指して言うのである。つまり、自分が問題意識を持ち、仮説をたて論理的に証明し、実験や観察によって立証する事を指導することである。さもないと、一般概念を知識としてのみ止め、応用する事が出来なくなってしまう。その様な知識は、死せる知識であり、生きた知識ではない。大切なのは結果ではなく過程である。思考体系は、機能的なものであって、固定的なものではない。いくら自動車を動かす機構の原理に詳しくても、運転が出来なければ仕方がない。同様に学問とは、先人の意見や考えを只解釈したり、批判するだけの事を意味するのではない。哲学者とは哲学学者ではない。学問は、絶えず変化しており静止してはいない。教育には三つの要素がある。即ち、指導、研究、学習の三つである。今日の日本の教育は、学習のみに偏っている。故に、現代の日本の教育では、いま明らかにされている概念に対する研究者は生み出せても、新しい理論、新しい思想と言った独創的、創造的研究、つまり、真の科学者や哲学者は産み出せはしまい。
原初的な観念は、対象と自己との直接的な結び付きによってもたらされる。学習とは、対象を自己に結び付けていく為の認識構造と対象への自己の対応を判断していく為の意志決定構造を、自己と対象との関わり合を通して形成していくことである。人は学習することに依って指導し、指導することに依って学ぶ。自己の行動は自己外部への働きかけと、自己内部への働きかけの二つの作用を併せ持っている。そして、その行動は、自己外部への働きかけによって外界と自己との関係を成立せしめ、自己内部への働きかけによって、自己の観念を構成する。この様に、自己と対象は、一方的な関係ではなく、自己の行動を媒介にした対応関係にある。これを自己の作用反作用という。そして、相対的概念は此の自己の作用反作用に依拠する。
 民主主義は近代的な自然観を下敷にして発展してきた。自然に働く法則や、進化、淘汰の原則は法の下の平等、自由経済の根拠となっている。権力の分散は力学的な発想を、個人主義は、生物学的な考えを各々参考にしている。つまり、自然なあり方こそ、人間社会本来のあり方であり、観念主義的な考え方を中心とした時代に対する反省から近代は始まっているのである。近代スポーツまたしかりである。自然に対する正しい認識こそ民主主義の正しい理解をもたらすのである。
 自己の価値観と国家の法律は、対応関係がなければ成立しないと言うのが民主主義の基本原則である。権利が義務を規定し、権限が責任を確定する。自己の価値観が自己を裁く。つまり、殺人を犯した者は、自らの生命を国家に委ねなければならない。人の物を盗む者は、自らの財産を国家に委ねなければならない。法を犯すものは法によって裁かれる。しかし、その執行は第三者の価値観、つまり個人的な価値観ではなく、国家が法に基ずいてこれを行う。なぜならば、自己の価値観に従って裁けば価値観の相違によって国家的問題が、個人的問題にすり替わってしまうからである。民主主義国にとって国家は、国民一人一人の各自の価値観の鏡でなければならないのである。そして、個人の価値観は相対的なものである。そのために、個人と国家が両立するためには、個人と国家の間には対応関係が存在しなければならないのである。
 美意識は、認識の基準として、善意識は、判断の基準として発生する。その意味において、美意識は、深層構造に根ざしており、善意識は、表層構造に根ざしている。故に、美意識は、観念の諸相として、個人に先天的に与えられた能力と、後天的な学習によって発展した観念の連合として現れる。また、善は自己の論理を体現した行動と、社会の規範に基づく評価との葛藤を通じて判断の基準を体系ある概念として構造的に、統合編集することによって成立するのである。故に、我々が美醜を感じるのは、対象の諸相と自己の想念の連合によって出あり、美意識は、対象と観念の結合によってもたらされるものである。それに対し、善悪の判断は、自己を現実に結び付けていこうとする論理的意志の現れであり、善意識は、自己を現実の中に投げ出すこと、つまり、行動によってより深化される性質の物である。其れ故に、善意識が判断の基準として、より現実に接近していくのに対して、美意識は、認識の基準として、より観念の世界に接近していくのである。
 自己の概念の社会化や自然の法則の一般化の過程で、観念は、対象との直接的関係を離れ、観念が独自の世界を形成するようになる。そして、ある特定の民族や地域固有の文化はその民族や地方毎に独立した世界を生み出し、現実の世界を分裂させたのである。特に、他の社会との交流や社会自体の拡大は、この傾向に拍車をかける。しかし、対象との直接的な関係を断たれても、観念の世界で創造されるものは、個々の対象の部分を連合したものに過ぎないから、また観念の世界の出来事を外的世界の出来事に置き換え更に、現実の出来事として実現し、かつ実在する物質に結び付けていこうとする傾向が発生するのである。各々の文明が固有の神話や伝承を発生させたり、偶像崇拝といった現象を生み出したのは、そう言った傾向の現れである。こうした傾向が高ずると迷信や妄想を生み出す原因となる。それ故に近代以前の誤った自然観は、偏見や迷信に依って人間の観念上の対立を生み出し妥協のない憎悪や闘争をもたらしたのである。人間は、現象の背後にある自然の実相を媒介にすることに依ってのみ、これらの迷信や偏見から解放され一つの世界を共有することが可能となったのである。
 真理は、常に、自然つまり、原対象の側にある。真偽は、自己の倫理観に依っても、また、美意識に依っても測られるものではない。対象自体が持つ基準に依って測られるのである。故に、真理の探究は、対象自体を追求することであり、観念の遊びではない。真理は常に動かしがたいものである。故に美意識と倫理観は自己が真理を追求していく過程で洗練され普遍的なものに昇華されるのである。この様に真と善と美は自己を中心にして、各々が独立した体系を形成しているのである。自己の内的体系に対して、外的体系である真理こそ、自己の限界を超えて他者に結び付けていく事のできる唯一の正当な体系なのである。その真理の根源が原対象つまり、自然なのである。その真理は目に見えはしないものである。しかし、真理は目に見える世界を通してしか探究する事は出来ないのである。
 夢は、対象に対する直接的な認識器官、つまり、五官が閉ざされることに依って、直接対象から表象を与えられることなく、想念が勝手に内的世界を駆け巡っている状態を指して言う。故に、夢は、純粋に想念によってのみ動かされているものであり、それだけに、心的状況や願望を反映したものである。また、夢は創造力を発展させ、眼前の対象に拘束されがちな自己の観念を、対象から解放し、より大局から観念の体系を再構成させる作用がある。故に、夢を分析することは、自己の心的状況や願望をしるためには、有効な手段である。また、想像力を強化することによって、対象の上辺の形態によって見落とされがちな現象の背後にある法則性、規則性を発見することに役立てることが出来る。しかしまた、夢や空想は、対象から観念を乖離したり、現実から自己を逃避させてしまう作用もある。この様な現象を観念の本性離れと呼ぶ。空想力は、対象の背後にある法則性や規則性を推理したり、硬直した考えを改めるためには有効ではあるが、夢や空想の危険性を忘れると、妄想や幻想の虜となって、自己と対象との関係を見失わせて自己のみならず社会をも破滅に導いてしまうことがある。現実や自然を忘れて夢や空想の世界に溺れ、其れを持って現実や自然を勝手に解釈し、現実や自然に対処していく事は、危険極まりない事である。夢や空想は、麻薬の様なものである。正しい使い方をすれば麻酔として苦痛を和らげる、効果があるが使い方を間違えると人格を破綻させてしまう。
 空想小説や怪奇映画は、人間にいろいろな夢を与え楽しませてくれる。しかし、其れも行き過ぎてしまうと、人間に無意味な恐怖心を起こさせ、生きる気力や人間としての道徳観を喪失させてしまう。また、その様な幻想や妄想から生じた恐怖心や迷信を操り社会を支配しようとする者が現れないとも限らない。逆に現実の軛や矛盾による重圧に耐えられなくなって、酒や薬を使ってまで妄想や幻想の世界に逃避しようとする者も現れる。いずれにせよ其れは、社会の退廃であり、個人の堕落である。故に、人間は現実や自然を直視する勇気を失ってはならないのである。人間に取って自然は真実を見いだすための原点である。正しい自然観を持つ事に依ってのみ人間は正常な意識を保てるのである。
 人間の観念や自己の構造は、外界からの刺激によって形成される。しかし、外界からの刺激によってのみ、人間の観念や自己の構造は成立するのではなく、外界からの刺激を体系的に連合していこうとする主体的な作用が働かなければならない。其れが学習である。学習に依って得た知識を自己内部でより発展させていこうとするのが研究である。そして、自己内部で整合化されたものを外的世界に還元していくのが指導である。学習、研究、指導を有効に機能させる為には主体的存在、つまり、自己の確立が要求される。では、自己はどの様な形で立ち現れてくるのであろうか。自己は、外界からの刺激によって目覚める。外界の刺激によって目覚めた自己は最初外界の力によって動かされる。主体性のないまま動かされていた自己も、その運動に触発されて、先天的に備わっている機能が呼び起こされ、その様にして呼び起こされた機能を発展させる事によって自己独自の世界を形成していくのである。この様にして形成された世界の中心に自己を据えて、自己の体系を成長せさ、自己の自律的機能を働かせ自己の保存を謀るようにするのである。
自己は外界から入力される情報によってのみ自己の内的構造を発展させる事が出来る。元々人間の知恵は自然の中で生き抜くのに必要で生まれたのである。そして、人間は言葉や文字で対象を判別し、また意思を伝達する以前から自然の中で生活してきたのである。故に、人間は言葉による観念に依って自然界を理解し始めたのではない。自己の行動に対する外的状況の反応に依って自然を理解したのである。この様な自己は外的な状況に敏感に反応する。反応しなければ、自己の肉体や生命を維持する事も出来なくなる。故に、自己の内的構造は、自己を取り囲む状況や環境に重大な影響を受ける。外界からの情報は、いったん深層構造を経由して表層構造に浮かび上がってくる。その過程で情報は淘汰され不必要な部分は切り捨てられる。その為に自己の意識上に上がってくるのは限られた情報になってしまうのである。しかし、外界からの刺激や情報は深層部分に確実に蓄積されており、思わぬところで自己の判断に影響を及ぼしてくる事がある。特に、自己の生成発展期に原初的な価値観は学習によって刷り込まれ常に深層部分で作用している。故に、外的状況や環境が自己に与える影響には、重大なものがある。民族固有の文化や文明の発展は言葉に影響される。自己は、外的環境によって育まれるのである。
 対象認識や自己変革は、論理的に為されるものではなく、むしろ、形態的に為されるものである。例えば、我々が人を判断する際外見や相手の態度、雰囲気といったものに左右されがちであり、また、自分の性格を変えようとした場合、言葉遣いや生活態度、姿勢、服装を変えない限り実行できない。また、人間の心理は、言葉の内容よりも挙止動作の方により端的に表される場合が多い。外見上の問題や形式的なことを現代人は、とかく軽々しく扱いがちだが、外見や形式に依ってしか判断できない場合もあり、意外と重要な意味を持っているものである。
 例えば、在る宗教教団や政治結社に入信する際、其の教団や結社の理念や思想を理解するよりも、自分の悩みや夢、現実の矛盾といった心理的要素や、其の教団や結社が主催する儀式や祭礼、象徴といったものに陶酔したり、惹かれるといった感覚的要素の方が強い。対象を認識する場合も対象の外見や形態といった、知覚しうる表象を根拠として、対象の概念は深化されていくのである。故に、人間にとって自分が置かれている環境、特に、生活環境は重大な意味があるのである。人間を外見から判断してはならないと言うが、外見からしか解らない場合もある。威儀を正す、姿勢を正すと言うように服装は、最初でかつ最も効果的な自己表現の手段であることは紛れもない事実である。礼儀とは、つまり、行動を様式化する事によって其の社会の基盤となっている原則を表現しているのである。故に、礼節は時に法律より強い拘束力を持つことすらあるのである。
 一つの情報が自己の内的体系に入力されると、自己の内的構造全体に影響を及ぼす。例えば、無作為に、一つの情報(これは、音声でも映像でも臭いでも形態はなんでもかまはない。)が入力されると、その情報は、自己内部に蓄積された他の情報や概念と結び付き、内的構造の中に位置づけられる事によって識別される。この様に、記憶はいくつかの要素が連合され、かつ反復される形で登録され蓄積されていくのである。その様にして入力された情報が他の情報に連鎖反応を起こさせ、それによって入力された情報の意味を自己は判別するのである。
 また、自己の意思を伝達する場合でも、仮に自分が相手に伝えたい情報を思い出せない場合や適当な表現が見つからなかったりした場合、相手に、いくつかのその情報に関連した他の情報を与え相手にその情報を連想させ間接的な手段で伝える事もある。また、同様に直接的な表現が出来ない場合など、宴曲的な表現やその場の雰囲気と言った間接的手段を用いて自己の意思を伝達する場合もある。この様に、人間の意思表現にせよ、対象認識にせよ論理的、意識的に為されるとは限らない。むしろ、意思表現や対象認識は全身で為されるものであり、非論理的、無意識に為されている部分の方が大きいのである。
 儀式や祭礼、神話はその社会の構造や成立状況を形式化し、現代に継承しているものが多い。また、礼儀や作法は、社会の行動規範を様式化したものが多い。故に、その意味も考えずに内容だけ見て。「やれ迷信だ。封建的だ。」と決めつけるのは早計である。我々の価値観や行動には、そうした深層構造への働き掛けを無意識の内に取り入れたり、表現しているものが多く含まれている。そして、言葉では理解していなくとも、無意識に漠然と解読している部分も多いのである。そして、思想や哲学、芸術、道徳といったものはこの個人の深層構造を土台としており、法律や制度といった社会の上部構造は、文化や礼儀、作法、神話や祭礼といった社会の深層構造を基盤として成立しているのである。また、深層構造を構成している要素は、論理によってはなかなか捉えられない範疇のものでありかつ、潜在的に上部構造に影響を与え続けている。故に、儀式や祭礼、礼儀作法を只単に形式的なもの封建的なものとして否定した場合、社会の深層構造が破壊され、社会そのものが破壊されてしまう危険性すら有る。また、迷信に近いものであっても其れなりに根拠があるものもあり、一概に其れを否定するのもどうかと思う。例えば自然災害は、地の神、山の神を原因とすることによって感覚的に自然に対する恐れを植え付けておいた方が分かりやすくかつ効果的とも言える。現代言われている合理主義とは、意識された部分、論理的にし得る部分でのみ合理的なのだと言うことを忘れてはならない。自然認識も同様である。自然は、いくら論理的に突き詰めても解明できないものがこの世には多く存在することを忘れてはならない。なぜならば自然は絶対であり、論理は相対的なものだからである。故に、論理的なものは、常に、仮定、仮説の域を脱することは出来ないのである。
 人間の世界を分裂させるのが、その民族固有の文化であるならば、人間の社会を支えているのもまた文化である。文化は、真理の海に浮かぶ島のようなものである。自然は、人類に共通の世界をもたらす。個々独立した文化を結ぶものは、正しい自然観と人類の運命である。人間の世界を分つのは、人間の我執である。人間は我執を断ち切れなければ人類は滅びるであろう。自然こそ人間の持つ我執を断ち新たな未来を切り開く為の依り所なのである。
 自然から与えられる情報は無限であり、自己の認識能力は有限である。対象を認識する際、我々に与えられた認識能力には限界がある。その限界も、訓練次第である程度は克服できるとは言うものの、其れにも限度がある。人間の能力は有限であり、対象が生み出す情報は無限である。そして、人間の能力を超えた、つまり、人間の処理能力の許容量を超えた情報が与えられると、当然情報を処理できなくなり、主体的な判断が下せなくなるのである。つまり、意思決定不能状態に陥るのである。その様な状況に陥ると、自己の主体性を喪失し、他人の意志の支配下にはいるか、社会への適合性を失うか何れかの状態にならざるを得ないのである。只単に知識を記憶するだけならば、不必要なものを無意味に蒐集している者と同様、必要な知識を蓄えておく場所を狭めているのに過ぎない。其れは只単なる自己満足に過ぎない。人間が自己の能力を最大限に引き出すためには、効率のよい意志決定が要求される。その人にとって不必要な情報によって心が占められてしまったら、役に立つ知識が失われてしまいその結果は悲惨なものとなるであろう。数少ない知識でも効果的に活かして使えば、只多くの事を知っているだけの人間よりも、より多くの真実を理解することが出来るのである。人間にとって大切なのは情報自体もしかりであるが、それ以上に与えられた情報をどう活用するかである。故に、教育に要求されるのは、人間が一人前の社会人として生きていく上で最低必要な事は何であるかを教える事と、そして、自分に必要な情報を選別加工し、価値観を組み立て、知識を活用する能力を身に付けさせていく事である。そして、その様にして教育される事によってのみ主体性は育まれるのである。知識を只丸暗記させるだけの教育や、試験を合格するための技術を修得させる事だけを目的とした教育は最低である。主体的人格を前提とする民主主義体制において、本当に必要なのは、偉大な支配者ではなく、偉大な指導者、教育者である。そして、偉大な指導者とは、真実を見極める為にはどうすべきか、自然をどう認識すれば良いのか正しい認識方法を指導できる者を指すのである。
 自然と人間を対立的に捉えるのは、人間の無知故にである。有限な人間が無限の自然に対立したり挑んでいくこと自体無謀なのである。人間は自然の恩恵を素直に受け止めて初めてその限界を越えていくことが出来る。自然を自分達の都合や観念だけで理解しようとしても自然の力を活用することは出来ない。かつて、人間は神を知ることに依って自分達の世界を広げた。しかし、神に対する信仰を一部の人間が利用することに依って神の本質は見失われた。科学は自然を率直に観察することに依って人間の可能性を高めた。しかし、今人類は科学の力に奢り自然環境を自分勝手に変えようとしている。神に対する敬虔な気持ちや自然に対する謙虚な気持ちを人間が喪失したとき、人間は神と、そして、自然と対立するのである。
 自然には、対立は存在しない。対立は、認識の仮定で生じるのである。つまり、対象間の関係を識別する際に、便宜上対象を対立的に捉える必要が生じるのである。対象認識は弁証法的な手段が往々に用いられるが、対象自体が弁証法的なのではない。自然は平等である。高貴な場所劣悪な場所という場所は自然には、存在しない。それは自己ないし人間にとって劣悪か否かの問題なのである。同様に人間の肉体の部分に貴賎の別はなく、自然界の掟に善悪の理はない。また、自然の風景に美醜の定めはない。人類が人類に害を為すものを悪魔だと言うならば、人類以外の動物にとって人間こそ最も悪魔的な存在だと言うだろう。プロメテウスは人類に火を与えたことで、神々の怒りに触れた。否定するにせよ、肯定するにせよ神を自分達に都合良く考えているのは人間の方である。万物の霊長などと勝手に人間は思い上がっているが人間によって滅ぼされた生物の何と多いことか。彼らからみれば人類は天敵以上に悪魔的だろう。人間が地上に現れる以前から棲息した種は多くあり、人類のみが地球を支配したわけではない。神は人類の為にのみ存在する訳ではないのである。不平等は、人間の意識が生み出したものである。意識によって生み出されたものが、制度化される事によって顕在化され、逆に人間の意志を歪める。愚かな事である。確かに、部分部分を引き出し分析すれば、全てが対立し矛盾しているように思える。また、対立点や矛盾点をことさらに挙げて、全てが駄目だと言い立てる者がいるが、それは、自分の周囲に存在するものは、あらゆる面で一致していなければならないと言う論法に似ていて危険である。対象を或局面からみれば対立しているようにも見えるし、他の局面からみれば協力関係に見えることがある。つまり、対立、矛盾、差別は相対的な自己の観念が生み出したものにすぎないのである。
 部分は、全体像の中で捉えるべきであり、それを全体の中にどう位置付るかが問題なのである。位置づける過程で対立や矛盾が生じる。そうした問題点を善悪や勝負事のように捉えていると、物事の本質を見失う恐れがある。それでは、何の生産性も創造性もない。問題なのは、論拠である。論拠を理解しない限り、その理論を位置づけることは出来ないし、論拠を理解しない限り、その理論を批判できない。逆に、論拠を明確にしない限り、その理論の正当性も証明評価されないのである。自己固有の観念の限界を越え、自己の主張に正当性を与える唯一の論拠は自然である。
 科学をそれ自体が真理だと考えるか、あくまでも、真理を説明する学とするのか、それが問題なのである。結論から言わせれば科学は真理とは成り得ない。かつて、科学には宗教裁判にかけられた迫害と受難の歴史がある。しかし、近代になるとその副産物である技術革新によってあたかも万能の秘法であるかの迷信が支配するようになり、今度は、宗教や神秘的な存在を迫害する側に回ったのである。その結果全てを物質に帰結しようとする傾向が生じ、唯物主義的な思想が思想界を支配するようになるのである。しかし、科学万能主義や、全てを物質に帰結させ様という考え方に異議を唱えてきたのは他ならぬ科学者だったのである。
 科学者の多くは信心深かったし、今でも同様である。自分達の説が宗教の存在自体を否定したり、矛盾するものだなどと思ってはいない。自然の法則を探究すればするほど人知の及ばない世界を知り人間という存在の卑小さに気が付き、むしろ神を讃えざるを得なく成るのである。科学と宗教上の問題は次元を異にする問題であり、それを明確に区分することによって近代科学は成立したのである。また、そう信じたからこそ科学者は研究が出来たのである。つまり、科学者は、神の領域を避けて通ることによって物質的な世界の謎、形而下の問題の解明に専念し、非物質的な世界、形而上的な問題に深入りしない様に注意したのである。科学は科学とは無縁なところで万能神話が作られ利用されたのに過ぎない。なぜならば、科学者は自己の存在を超越した存在を信じ前提としない限り科学を成立せしめることは出来ないからである。
 道具を創り出す者と、道具を使う者とは違う。道具を創り出す者が、道具を使う者の倫理観まで左右する事は不可能であり、また、すべきではない。包丁が殺人の道具に使用される事は、包丁を作る側の人間には規制できない。包丁を作る側の人間は、包丁が本来使用される目的を前提としてその機能を追求すべきである。科学の追求するものと、宗教や哲学が追求するものは違う。科学的真理と宗教的、哲学的真理とを明確に区別しない限り、科学を理解することは出来ない。それはまた、科学者は科学的動機とは別の次元で自分の行動を抑制しなければならない事を同時に意味する事を忘れてはならない。
 包丁を作る側の人間が、包丁の使用方法まで規制できないと言うのは確かに真実かも知れない。また、使用者も偶発的な自己まで防げないと言うのもまたしかりである。しかし、それが最初から兵器として創られてた場合は明らかに違う。そして、包丁自体も包丁を作る技術も常に兵器に流用できる事を忘れるべきではない。核兵器や生化学兵器の開発に従事した科学者は明らかにその使用される目的を理解していたはずである。科学者としての責任以前に人間としての責任を問われても仕方がないのである。
 科学的原理と自然界の真理とは別物である。科学的原理によって解明できないことがあったとしても、それだけの理由によって自然界の現象を否定することは出来ない。そして、それを明確にしたところに科学の正当性があるのである。故に、科学的原理を自然の真理と等値したり、絶対的な真理とする事は間違いである。科学者の使命は、科学的原理を絶対的真理に近付けていく事であり、科学的原理を絶対的真理として聖典化することではない。科学的原理を絶対視する事は、逆に科学の正当性を否定する事になるのである。
 自然とは、唯単に物質的な世界のみを指しているのではない。自然は同時に生物達の世界でもある。物質的、物理的現象から此の世の全ての出来事を割り出そうとするのは危険である。人間の在り方総てを、物質的な問題に帰結させ様とするのは、人間本然の在り方を見落とさせる事になる。物質的現象は、科学上の仮説を論証するための根拠に過ぎない。物質的現象によってのみ対象を規定してしまえば、主体的意志や非物質的現象を否定してしまう事になる。科学的真理を含めて真理は、眼に見えない部分を多く含んでいる。むしろ、非物質的現象の方に自然の本質は隠されている。現在知られていない世界により多くの可能性が残されている。現在不可能なことであっても将来実現するかもしれない事も多くある。科学は完結してはいないのである。科学的に証明できない、また、有り得ないと言う理由だけで迷信と決めつける事は危険な事である。科学は本来物質的現象を説明する学に過ぎないのである。科学を過信することは、中世における宗教裁判と同じ過ちを犯すことであり、人間本来の在り方を圧迫する事になるのである。 科学とは、中身の見えない機械の仕組みを外観から推理するようなものである。唯科学は、根拠のない無闇な憶測や推理による独断を許さないだけなのである。明析な根拠と飛躍を排した論理の展開、そして、実証を重んじる態度によって、対象の実像に迫ろうとする姿勢を科学的と言うのである。機械ならば分解すれば内部構造は理解できるが、現実の対象はそうはいかない。結局、こういう仕組みに成っているのだろうと仮定するのである。しかし、それが実際の仕組みと一致しているとは限らない。唯結果に於て合致している場合、立証されたとしているに過ぎないのである。ぜんまい仕掛の時計と電子時計は外見から見分けが付かないものもある。どちらの原理が働いているか知りたいとき、時計ならば分解すれば解る。しかし、分解することの出来ない対象ではどの様な原理が働いているのか本来理解する事は出来ない。論理的に矛盾がなく、仮説に基づいて実験や観察したときに、現実の現象と大きな隔たりが見いだせなかった場合、一応その理論は立証されたものとして仮定されるのである。しかし、直接対象の裏側を見えるわけではない。科学は万能でも絶対的なものでもないのである。
 自然は、我々の前に明確な意味を持って立ち現れてくるわけではない。我々は風景を見るとき、その意味を考えたりはしない。唯その美しさに感動するだけである。理屈で人に惚れるのではない。好きになると言うのは実も蓋もないことである。好きに成った理由など後で考えることである。そういった自然な情まで否定してしまったら科学は成立しようがない。先入観を持って対象を捉えようとしている限り、対象を理解する事は出来ないのである。最初の認識は総て直感的で個人的なものなのである。
 雄大な自然を前にすると人間は身が震えるほどの感銘を受ける。だから、人間は自然をまったく理解出来ない訳ではない。唯それを表現する手段を知らないだけである。そして、何等かの手段で自然を表現すると、自然そのものから初めに受けた感動は本然の新鮮さを失い色あせてしまうのである。自然を表現するのは、自然から受けた感銘を伝えたいからであり、自分の表現の技術を誇示したいからではない。ところが表現がそれ自体で評価されるようになるとその本来の目的が見失われてしまう。大切なのは真実である。伝えたいのは生々しい感動である。説明の上手下手ではない。自分の自然な感情を言葉で言い表そうとしたとき、もはや自然な感じは損なわれてしまう。しかし、それでも自分の気持ちを相手に伝えようと思ったら言葉にしなければならない。そこに人間の観念の矛盾がある。そしてその矛盾は人間の宿命なのである。人間が自己の限界に挑まざるを得ない必然性はその矛盾から生まれると同時に自分を正しく位置づけなければならない理由もそこにある。人間は人間の力の限界を正しく認識しなければ、人間本来の姿を見失ってしまうのである。
 人間は環境に支配されている。観念は、頭の中だけで生み出されるのではない。対象を見て生み出すのである。見て考え、読んで考え、触って考え、聞いて考えそうやって観念は生まれ発展するのである。動物達は自然の法則を理解していないかもしれない。しかし、自然の法則に従って生きている。自然の法則は、人間が意識しようとしまいと関係なく常に人間を支配している。小説を読むとき、我々は、その文章構成や一つ一つの意味を理解しているわけではない。それでも、我々はその内容を自然に受け入れ理解するのである。言葉を修得する際文法を先に習うの訳ではない。それでも子供でさえ言葉を話せるようになる。説明できないから理解できないと言うわけではない。全体は部分によって成立し、部分は全体から解釈される。真実は部分であり、全体である。人間は全体を見る時部分を見失い。部分を見る時全体を忘れる。自然は全体でも部分でもない。そして、自然はまた、全体であり部分である。自然はそれ自体で存在しているのである。故に、我々は常に、全体を見る時、部分を見失わず、部分を見る時全体を忘れないように意識するよう努めるべきなのである。言葉や表現の意味を詮索する事によって真実を見落としてはならない。知りたいことは真実なのだからである。人間は言葉にせよ自然にせよ理屈や論理で身に付けるのではない。人間の最初の自然認識は常に無分別知を前提とし、本性直感によって為されなければならないのである。
 自然に対する畏敬心を失えば、自然科学は成立しない。自然を支配したり、自然を保護すると言った発想は人間が自然より優位に立ったとき成立するがその様なことは有り得ない。人間は、自然の法則にしたがい、自然界の調和を守っている限りに於て生存できるのである。広大な宇宙の中で人類が生存できる地域は只でさえ限られている。その地域を拡大するか縮小するかは、自然の力に負うところが大きく人類が左右できる幅は小さいのである。自然は常に人間を支配し、また、保護してきた。この関係は未来永劫変わらないのである。自然は万物の母にして、その存在は全ての存在の前提なのである。科学は、人間と自然のこの関係を前提として初めて成立する事を忘れてはならないのである。    
 所詮人間は自然に事よせて自分の影を見ているのに過ぎない。人間の世界は、人間の姿を反映させたものに過ぎないのである。そして、人間は、状況が過酷であればあるほどその本性を現す。人間にとって住み難いから不自然であり、人間が住み易いから自然なのだと言うわけではない。自然はそのままで自然なのであり。自然は、人間が生まれるずっと以前から存在し続けているのである。自然の摂理を多少理解し、自然の力を利用できるようになったからと言って、なぜ、自然を支配したとか、克服したなのど言えるのだろう。大自然に裸で放り出されたら人間ほど無防備な生き物はいない。しかも、皮肉なことに文明が発達すればするほど人間そのものは脆弱になっているのである。掌の中の猿の様に人間は自然を越えることは出来ない。結局人間は自分の影を見ておびえたり、自慢したり、罵っているのに過ぎないのである。人間は自分の限界を自覚したからこそ今日の繁栄を築けたことを自覚すべきなのである。
一体人間は何と戦おうとしているのだろうか、人間同士が争ったところで何も生まれない。況や、自然と対立したところで意味がない。人間は自ら羽織っている虚飾を剥ぎ取るべきなのである。赤裸々に自己本来の姿に戻り裸の自分を見つめ、自然の何たるかを知るべきなのである。人間が争い憎しみ妬み合っていることの不毛さをその時知ることができるのであろう。人間は一致協力して、自然界の法則を解き明かすことによってのみ未来を切り開く事が出来るのである。

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