Welcome to

著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第1章第5節  科学

 科学理論は、その理論を成立せしめる幾つかの命題と前提の上に構築される。故に、理論の正当性と根拠は、その命題と前提を検証することに依って確認される。その前提の正否に依って理論の信憑性が問われるのである。理論の展開は、ある根拠から、経験的にある前提を導き出し、導き出された前提に基づき論理的手続きを経てある結論を導き出すのである。理論の信憑性は、何処に根拠を置くかと言う点や前提を経験的に立証できるかと言う点、論理的手続きの無矛盾性といった点によって問われる。何処に根拠をおくのかと言う点は、根拠の了解可能性の問題と考えていいのである。
 科学は、理論的根拠を神や天、予言といった観念的なものにおかずに、現象や物体といった直接知覚できる対象、つまり、客観的実在におく人によって了解可能性をより確かで広範囲なものにしたのである。科学は、客観的実在にその根拠を置き、その根拠から原理、法則を類推し、その原理法則を前提とした上に、その前提を数学的手続きによって発展させ、ある結論を導きだし、実験や観察によって立証することによって成立する理論体系である。
 科学的原理や法則は、実験や観察によって得られたデータを数学や統計的手法によって裏付けその信憑性を高めて一般的合意を成立させる。数学は一つの完結した論理体系としてその論理の無矛盾性によって成立する。故に、数学は論理の無矛盾性を追求する過程でより精緻な体系となりかつ信憑性が高まるのである。又、科学は仮定の学であり、導き出された結論や結果は実験や観察によって立証確認されなければならない。この様に、科学は実験や観察した結果を数学的に裏付け更にそれを実験や観察によって裏付け立証すると入った手続きの累積によって成立している。又、科学は立証された定理公理を組み合わせることによってその論理体系を増殖していく。この様に科学は厳重な検証と手続きによってその正当性を守っているのである。この様な手段によってここの命題の位置づけと関係付がされ論理の無矛盾性が保たれている。
 科学は、厳格な検証や論証によって裏付けられているが、そこに展開されている世界は確率統計的な世界であることを忘れてはならない。近年数学の目ざましい発展によって科学の論理的分野が拡大し、(特に確率統計手法)数学が逆に論理的側面から科学の進歩を誘導していくと言う例が往々にしてみられるようになったが、しかし、その数学の無矛盾性にしたところで完全なものではない。厳密に数学の論理的基盤を見ると曖昧な部分がまだある。又、科学の定理公理にしたところで一応決定的な反論やデータがないから承認されているに過ぎないのである。それ故に科学はあくまでも仮説的なものであり相対的な体系なのである。荒言ってしまえば科学とは実に心許ないものに感じるかも知れないがそれでも充分間に合っているのであるからそれで満足すべきなのである。ただ、科学は決して完成されたものでも絶対的なものでもないことを肝に銘じておかなければならない。科学は両刃の剣であって人類を活かすも殺すも人類の使い方次第で決まるものであることを忘れてはならない。
 科学は、その理論研究と言った実務、数学的手続きと言った事務、実験や観察と言った実践によって成立する。つまり、科学的な根拠とはその現象にせよ、命題にせよ、仮定にせよ、結果にせよ実体を伴わなければならない。それ故に、科学は、分析や予測、予知の為にのみ存在するのではなく、分析や予知、予測の結果を実証しなければ成立しない。科学者は研究の為の研究と言った実体を伴わない欺瞞を許してはならず。実務や実践を通じて研究の成果を実在化していく責務がある。つまり、科学は立証不可能な人間の勘や迷信を排し、誰しもが確認可能な前提の上に成立しているのである。大胆な仮説、厳密な論証理論を実証していこうという強い信念、それらは、科学にとって不可欠な要素である。仮に、人文科学と言うものが存在するとすれば実証哲学のようなものだと考える。即ち現実の制度や政策に反映され立証されることによって成立するものである。実用的でない人文科学は科学ではない。現実の社会の中で実証していかなければならないとすれば、それは医学にとって新薬や治療法が人体にとって有害であるかどうかが検証されるように社会にとって有害であるか否かが検証されなければならない。故に、現実に役に立たないまたは、有害なものはそれを実証する過程で排除していかなければならない。それは即ち医者が厳しい倫理観が問われる様に現実の世界に対する厳しい倫理観を科学者に要求する根拠でもある。体制に迎合し自己の節を曲げるような態度は科学者にあるまじき態度である。核兵器に代表される非人道的な近代兵器の発展は科学者の無責任な態度にその多くの原因がある。同様に自然科学者でありながら自然の秩序を乱すような産業体制のあり方を支持するような者は科学者とは言えない。科学者は自己の科学的野心の為に自分の研究がもたらす結果が及ぼす社会的責任を無視すべきではない。科学者が真実に対する畏敬心を失い、自己の説を絶対視し、自我に溺れることは至極危険なことである事は言うまでもない。それは科学の冒涜であり科学者が自ら合理的精神を放棄することである。科学者は自己の信念に殉じる覚悟が必要である。そして又、真実や事実を自分達の都合によって歪曲する者を厳しく糾弾するような精神を養わなければならない。多くの科学者は自己の人格的問題と研究課題を切り離し、世俗的問題から逃避しようとする傾向が強い。しかし、その姿勢こそが今日の世界をこれほど危機的なものにした事実を直視すべきである。科学者は自らの研究の成果に責任を持つべきである。科学が発展すればするほど科学者の良心が問われるのである。超俗的な態度で世俗的責任を回避しようとするのは最も卑劣な態度である。現代の社会の中で最もその影響力が大きい癖に最も自分の仕事に対しも無責任なものは科学者と言論人である。科学はその成果が革新的であるからこそ科学は科学たりうるのである。それ故に、科学は真に革命的であると同時にその危険性も大きく科学者の責任も重大なのである。
 勿論、大胆な仮説を立てるのは、既成の理論の打破しより革新的な理論を構築するためにである。人の耳目をそばだてるのが目的ではない。これは、科学に限らず、文学にせよ絵画にせよ創作活動全般に言えることであり、創作活動そのものが売名行為ではなく自己実現の過程で生じるものであることを忘れてはならない。無論創作活動によって生計を立てる以上世の中に認められなければならない。しかし、名前ばかりが売れて肝心の内容が伴わないのでは意味がない。それは包装ばかりが立派で中味のない贈物のようなものである。かえってその様な行為は、誤解を招き易く、自分の理論や作品の正当的な評価の妨げになるのがおちであり、厳に慎むべき事である。外見に装うよりも人間として磨くことの方が重要な様に先ず自己の理論の中味を磨くことが大切なのであり、世に認められるのは副次的なものである。売名行為を目的として奇抜を狙うのは商業主義の悪しき習慣である。
 科学は、唐突にある法則を設定することによって成立するものではない。任意な条件を特定の現象に対し設定することによって現象を一般化し単純化し、現象の背後に存在する法則を発見することによって成立するのである。故に、科学は空中楼閣ではない。つまり、屋根から家を立てるようなものではなく、地上にしっかりとした土台を作りその上に積み重ねることによって築かれるものである。そのためには、基礎工事のような、日常的な思考の洗練、単調な実験の繰り返しや現象の観察吟味と言った地道な仕事を入念に行い理論の為の地固めが充分に為された上に構築されていくものである。その上に構築された建造物が如何に華麗なものであったとしても、その根底には、多くの人間の多年の努力が隠されていることを忘れてはならない。又、翻って言えば基礎的な研究がしっかりしいるからこそその上に建てられた建物は一人一人の個性や独創性が活かされるのである。そこに科学の多様性があり、自由がある。 
近代社会は数学的な世界である。しかもそれはアナログな世界からデジタルな世界に更に変貌をしようとしている。 又、数学と言う万国共通の言語によって科学は普遍的なものとなる。複数の人間が一つの概念を共有する為には、操作性と視覚性の二つが要求される。数学はこの二つの条件を満たしている。数学と言う共通の言語があることによって科学は思想や信条、言語や国籍、体制の差を超えて万国に通用するものに発展し、しかも自由で多様的であるにかかわらず統一性を保てるのである。数学こそ科学を空間や時間を超越し世界的にかつ普遍的に発展させる原動力となったのである。近代という時代は、次の三つの要素が絡み合って成立している。一つは、民主主義。いま一つは、科学。もう一つは、近代会計学。そして、それを象徴しているのが近代スポーツである。そして、この四つに共通しているのが数量化、法則化、情報化である。そして、これらが近代化された国々の国境を越え一つの体制、世界を形作るようになったのである。
 科学は日常的な現象という確かなものの上に立脚している。それは、とりも直さず、日常生活の中にごろごろしている雑多な事柄は、科学的なものに成り得ると言うことです。事実、科学的発見の糸口は、日常生活の中に見いだされる事象である。科学は、それだけ間口が広い。又、それだけ多様でありそれだけ整理するのが困難な学問でもある。
 科学は、誰しもが接し得るような事柄を題材としている。それ故に、ある程度の興味と根気さえあれば誰しもがある程度までは理解できるものである。教義、教典のようなものに拘束されるものではなく、事実を唯一の根拠としている以上、科学を志す者は、それが一学徒であろうが、著名な科学者であろうが、論拠が明確である限り対等な立場で話し合える。科学とはその様な平等性を有した学問である。その平等性が、科学者一人一人の独創性、つまり、自由を培ってきたのである。そして、その自由と平等の精神が科学発展の原動力となってきたのである。科学は、自由、平等を言葉の概念として思想化したものではなく、思想を実験や観察を通して実際の世界の中に実在化させたものと考えられる。つまり、観念を言葉によって表現するのではなく、概念を現実の世界に実在化することによって成立するのである。
 科学は確かな事象にその根拠をおいているため、不確かな事柄に対しては、これまではどちらかと言うと苦手にしていた。それ故に、一生のうちに一回かそこら遭遇するかしないかと言う現象に対して非科学的として否定してしまう科学者も数多く居る。しかし、科学者が問題とするのはあくまでも事実であって頻繁に起こっているかいないかが問題なのではない。たまに起こっていることであっても、それが充分信憑性があるものならば、それを解明したいと思うのが科学者本然の情である。説明がつかないことは総て否定すると言うのね随分非科学的な発想である。根拠なく否定することも非科学的なのである。元々、科学とは、説明のつかないことを説明しようとするところに目的があるのであり、説明がつくかつかないかと言うことは、科学とは無関係な問題である。大体科学そのものが迷信であり、異端だとして裁かれた時代すらあるのである。科学が進歩するにつれて、それまで確かなことと信じられていた事柄が迷信だったりまた、迷信だと思われていたことが事実であったなどという話はよく聞くことである。科学は、常識では理解し難い世界だと言う考え方も一般的に成りつつある。これまで確定論的だと思われていた世界が確率統計的な世界に変化してきているのである。つまり、確率の高さによって確実度が測られるように成りつつあるのである。
何万回に一度と言った現象は、実験上の誤りか、精度上の誤差として無視されてきた。しかし、最近その様な現象の真実性というものが見直されつつある。また、数学の分野における近年の著しい発展が、科学そのものの質を大きく変えようとしている。つまり、現実の世界は、必ずこうなるのだと確定、決定され尽くした世界ではなく。もっと偶然に支配された部分を多く含んでいる。即ち、確率統計的な世界だと言うことである。そして、これまで科学が扱ってきた分野は、実は非常に限られた世界であり、法則化とは一般化に他ならないのである。無論この事実は科学の効用を否定するものではない。しかし、科学を絶対視し科学によって説明のつかないことを根拠もなく否定するのはこの事実から推しても危険なことである。我々は常に事実に立脚すべきであり、信じられるか否かは自分が事実に接することによって推し量るべきである。
 あってはならないことと有り得ない話とは違う。してはならない事と、成し得ない、出来ないこととは違う。あってはならない事、してはならない事は自己の願望や意志の問題である。それは自己の都合や価値観によって左右されるものであるが、有り得ない事や成し得ないこと、出来ないことは自己の都合とは関わりのない対象の問題である。それは人知や人力の及ばない世界である。願望と必然性、必然性の問題と可能性の問題は違うのである。あってはならない事、してはならない事は断固として自己が決する問題であり、それを守るか守らないかは信念の問題でなのある。それに対し有り得ない事や成し得ないことは自分勝手決められない自分の力ではどうし様もないことである。勝たなければならないのと勝てるかどうかは別の問題である。いくら勝ちたいと思ったところで条件が整わなければ勝てないのである。あらねべならない事、在るべき姿、成すべき事、成さねばなら事も自己の願望なり、欲求である。その様に、自己の問題は自己が決することであり、その責任は自己に帰すものである。我々は問題を判断する時それが願望なのか必然なのかを明確に見分ける事が必要なのである。その上それが可能か否かを判定しなければならない。しかし、人間は、それが在るはずがないにせよ、有り得ないのにせよ、成し得ないのにせよその判断を下すとき、必ず今までの経験の範囲内また自己の知覚し得る範囲内に於てでしか根拠を持ち得ないことを忘れてはならない。状況の変化や新しい事態と言ったそれまでに経験したことのない事態が発生すれば当然そこで下される判断も大きく変更せざるを得ないのである。それ故に、常に正確な判断を下すためには自己の感性を研ぎ澄まし、周囲の状況や事態の変化に敏感でなければならないと同時に事実を謙虚に受け入れなければならないのである。そのためには、自己を純化することが必要なのである。自己の力には限界がある。わが身は一つしかない。しかも自己は間接的認識対象である。それ故に、自己を純化するためには人間は他者と協力して自分や物事を見つめていかなければならないのである。余程うまく人間関係を作っていかないと寧ろ夾雑物が増えるのである。しかも、人間関係の煩わしさほど人間の労力の無駄はない。この様な人間関係の無駄を省き自己の純化を円滑にするために制度や信仰が必要なのである。
 科学者は常に研ぎ澄まされた感性を持たなければならない。知識は、相対的なものである。知識の前提となるものを確認しなければならない。科学といえども人間の決め事の上に成立しているものであり、その前提が変われば全てが変わるのである。我々は、時々この事実を忘れてしまう。そして、いつの間にか科学を神聖不可侵なものに変貌させてしまう。これは、恐ろしい錯覚である。人間が決めたことに神聖不可侵なものはない。知識は、そこに与えられた条件や前提によって様々に変化するのである。そして、知識を様々に変化させることが出来るからこそ我々は自由な判断が下せるのである。その様な知識の変換様式を知らなければ、知識を自分のものにする事は出来ないのである。科学者は常に自己の知識を状況の中に投げ出すことによって、知識の変容を観察し、自説に拘泥する事なく、そこに現れた真実のみを信奉する者でなければならない。
 自分が、知らずに過ちを犯す事は恥ではない。自分の非を認められないのが恥なのである。私は、聖書や教典を読む時、歴史や時代を超越したある種の新鮮さに心が打たれる。そこに書かれている出来事や言動はあたかも最近自分の周辺で起きた事の様に感じるからである。しかし、その新鮮さも、その聖書や教典をただ権威のある知識として絶対的で動かし難いものと教えられたとき、煙のように失せてしまう。自分の言動を絶対化する事はイエスや釈迦、老子、孔子、マホメット達の本意ではないと思う。確かに彼らの教えは普遍的なものであり時代や歴史を超えて私共の心に訴えてくる。しかし、だからと言ってそのまま現代社会に持ち込もうとする人間は、大変な過ちを犯す事になる。また、彼らが比喩や譬え、諺(例えば、信仰篤き者は、毒蛇噛まれても死なない等)を用いて説いたことをそのまま信じてしまえばかえってその真意を理解することは出来ない。彼らの言動を現代的に解釈したとしても彼らの言動が説得力がなくなるわけではなく、寧ろより説得力が増すのである。彼らの言動に絶対的な権威を与えるのは、人々の信仰心を利用しようとする者であり、彼らこそがどうしようもない宗教的対立を生み出している元凶のである。同様に科学を絶対視する者は、同じ過ちを犯している。科学者は、常に事実と照らし合わせて仮説の正当性を立証しなければならない。実験上の過ちを理論が負う必要はない。しかし、科学は机上の理論を机上の空論としてもならない。単純に意見が相違したからと言って自分の全人格まで否定されたと憤るのは短絡的なものの考え方である。事実に立脚したがいに事実を尊重しようと言う姿勢があれば必ず何処かに接点があるものである。色には黒白だけしかないわけではない。
 自分の仕事に誇りを持っている人に出会うと素敵だと思う。信念に基づいて生きている人を見ると深い感銘を受ける。深く愛し合っている人々を見ると強いと思う。自分が担うべき場所を見い出し得た者は、自分を純化することが出来る。お互いがお互いを強く信じ合ってはじめて自分を純化することが出来るのである。何もかもと心が搖れるから自分を見失うのである。一意専心。一つの事に専念する者こそ大事が成せるのである。しかもその人々が自由に且つ平等に連合しえた時その人々は更に自己の仕事に専心し且つその力を発揮することが出来る。そして、その様な人々の立場を保障し活躍の場を与えるのが科学的な世界であり自由と平等の世界である。それは丁度スポーツの様な世界でもある。私には科学の発達とスポーツの発達の間に相関関係があるように思えてならない。仕事らしい仕事もせずに、ただおのが知識をひけらかし、節操もなく僅かばかりの権威にしがみついて、人を見下した態度をとる者は結局自分の本性すら見極めることも出来ない。それはスポーツや科学と正反対の世界である。スポーツも科学も実力の世界であり、結果の世界である。私は、言論人や知識人と言うものに空しさを感じる。言論界という狭い社会の中だけにいてその知識や経験のみによって人生を見極めることが出来るのだろうかと疑問になる。それでありながら言論人はそれを立証するすべがない。また、立証する必要がない。どんなに荒唐無稽な話でも活字の世界ではそれが真実となってしまう。言論の持つ恐ろしさがそこにある。それ故に、本来言論は現実を投影したものでなければならない。そして、言論人はそれを自覚しなければならないと考える。その意味では現代の言論人ほど無責任な人種はいまい。言論人が自己の言論の結果に対し責任を持たなくなったとき、言論は現実から遊離することになる。言論人にとって自分の言動が世の中にどの様な影響を与えているか直接知ることは出来ない。常に自分は安全なところにいて人を批判する。しかも、言論の自由によって護られているのである。言論人が自らの論理を実証するためには世に実用の論を説くべきである。それは自分がよって立つ立場を明確にし、世に真実を問いかけることである。自分の立場を明らかにしないままで人を批判するのは言論の質を低下させるだけである。スポーツにせよ科学にせよ複数の人間が共通のルールの基で数字として現せられる結果を争うことである。そして、それ故に科学もスポーツも自由であり、平等でいられるのである。共通のルールによって結果を検証できるシステムがない限り科学もスポーツも成立し得ないのである。また、自由で平等な制度によってのみ科学やスポーツはその効力を発揮する事も発展することも可能なのである。
 私達は、確率統計的な世界つまり、多くを偶然な出来事に依存している世界に住んでいる。確かに、近年科学の発展にともなってかなり正確な予測が出きるようになってはきたが、絶対にと言いきれる事柄は極めて少ない。それ故に、人間によって生み出された理論は相対的なものにならざるを得ない。人間が決めた法則や原理に則て形成された理論なのである。それまで知られなかった事実が新しく見つかると、理論全体が微妙に変化する。だから、法則や原則は、仮説の域を出ないのである。しかし、だからと言って新しい事実が発見されることによって多少の修正は余儀なくされたとしても理論全体の基盤が瓦解すると言うこともない。法則や原理は、仮説の中でも九分九厘間違いがないと大多数の者が認めたものを言うのである。仮説の根底にあるのは、その仮説を承認できるか否かである。科学は、自己の理論を相対的なものと自覚することにおいて革命的たりうるのである。無論自己の理論を相対化する為には、現象を絶対化する事が前提とされる。但し、絶対化された現象や存在は、直感的認識によらなければならないのである。即ち、絶対的な存在は直感によってしか認識できず。科学的認識は、その絶対的認識を前提とすることによって対象を相対化する事が可能となるのである。いいかえれば、科学の相対性とは自らが絶対性を放棄し、対象の絶対性を前提とすることによって成立することを忘れてはならない。故に、科学は絶対性を否定しているのではなく。科学が自己の理論を絶対化しないことを意味しているのである。その意味では我々が住む世界を科学は確率、統計的な世界としてしか捉えることが出来ないのである。
 日本人は物真似上手だと批判する者がいる。しかし、物真似自体は恥じるべき事ではない。寧ろ、物真似上手は一つの技術である。人間の成長は学習に依って成される。そして、学習とは、物真似、模倣に始まる。子供の遊びは学習の原型であるが、ごっこ遊びに代表される様に遊びの基本は物真似である。科学もその基本は現象の再現性であり自然を模写し真似ることである。一言で真似と言うが、忠実に真似をしたり、模写するためには、相当の洞察力や観察力、技術といた実力が必要である。独創性とは、その様な模倣を旨く事故の内面に吸収消化することによって初めて生じるのである。個性とは何も奇をてらったり人に逆らうことではない。また、自分の観念を相手に押し付けることでもない。自分の内面にあるものを素直に表現することである。それは外的な対象を素直に受け入れない限り磨かれるものではない。科学的な批判精神とは偏見や先入観といった内面の抵抗を少なくし、自然現象や科学的理論を自分の物にした上で自己の論理に依ってはんすうすることである。他人の言葉で先ず自分の言葉とするその上でその矛盾を正していく姿勢こそ科学的な姿勢である。相手を理解するためには相手を真似ることである。相手を真似ることに依って言葉で表現できないことも理解することが出来る。また、真似ることの出来ないものにぶつかることに依って自分を理解することも出来るのである。物事を頭で解釈し理解しようとしても限界がある。もし、相手の考え方を自分の物としそれに自分が責任を持てるようになればそれは物真似の域を脱しているのである。無論それは、自己を殺し自己の内面の世界を否定し自己以外のものに隷属することを意味するのではない。また、猿真似やオウム返しの様な空疎なものでもない。己があってはじめて真似が出来るのである。自分を見失うようなものは物真似ではない。真の物真似とは、最初から偏見や先入観に依って物事を判断するのではなく対象の本質を真似る事である。そして、それこそ科学的な精神なのである。
 仮に人類を破滅に導くものがあるとしたら、左翼右翼、思想、宗教、信条いかんにかかわらず狂信である。それは、存在以上のものを信じるからである。存在以上のものを信じるから自己の存在も他者の存在も否定してしまうのである。そして、狂信者は、存在以上のものを信じるが故に自己を絶対化しこの世の全ての存在を否定しきることが出来るのである。科学は、この様な姿勢を否定することに依って成立している。しかし、狂信者を生み出した科学以外の概念もはじめはそうであった様に科学も狂信者達によって現実を否定し絶対化する危険性がないわけではない。科学はあらゆる存在の上に成立しているものであり、絶対的な概念ではないことを常に確認し続けなければならない。
 映像と描像とは違う。映像は視覚によって創られる像であるが、描像は、視覚も含めた感覚全体によって創られた像である。故に、描像には、臭いもあれば痛みもある。また、言葉もあれば、方程式もある。観念は、この様な描像によって作られる。つまり、一瞬一瞬に消えていく自己の経験や現象を自己の内面の世界に定着させ様とする時、その時々の描像を脳裏に焼き付け、記憶していくのである。それ故に、ある思想や学問は、最初は、ある全体像、想念、構想として現れ、それから不要な部分を切り取ったのちに、体系として言葉や方程式、もしくは制度や行動と言った形で再構成され整理された上で表現されるのである。そして、その様な想念の言動量は空想力と想像力である。思想を理解するためには表現された作品からその背後にある描像を再現しなければならない。言葉や文字、映像や音と言うのは部品に過ぎない。そうした、描像を体系ある概念とするのが創造力であり、その描像を生み出すのが空想力である。故に、空想力を馬鹿にし、空想的なものを非科学的なものと言う者が居るが、それは科学が空想力に発している事を知らないからである。空想力や想像力こそ科学の産みの親であり、創造力や構想力が育ての親なのである。
思想の根底には、必ずこの様な描像や構想が存在する。そして。思想表現は、その描像や構想を実在化させる過程で様々な形に変化する。俗に言う思想とは、描像や構想を言葉や文字に置き換えたものだけをさすのではない。行動やその人の生き方のようなものに依っても表現されるものである。例えば、ある同じ思想を表現するにしても千差万別表現の仕方が違えば現れてくるものも違ってくる。思想表現とは自己表現の一つである。それ故に、誰でも何らかの形で自己の思想を表現している。例えば恋愛のあり方に依って自己の思想を現したり、仕事の進め方に依って示しているものもいる。無論絵書きは絵を書くことに依ってある意は何もしない事に依って自己の思想を表現している。自己が存在し外的世界に何等かの意志に依って働きかけること即ち思想表現なのである。人間は、自己の存在を実在化たらしめる事に依って、自己の存在を表現し、また認識する。その為に自分の事を他人に伝える目的だけでなくどうしても思想表現をしていかなければならないのである。
 人間は、対象を最初は漠然と捉える。対象を自己の経験と結び付ける事によって、対象を自己の内部に消化し、更にその対象を外的世界に表現しようとする過程で、はじめて対象に概念が生じる。自己でさえ、元来無意味な存在である。自己に意味付をするのですら自己である。科学にせよ、哲学にせよ、事実から考えれば、二義的なものに過ぎない。科学も哲学も、絶対的なものにはなりえない。絶対的なのは対象である。対象をいかに表現するか。それは、人の趣味趣向の問題である。ただ、自己表現は自己が外的世界に存在していく為に必要だから成すのであり、対象表現は、対象を他者に伝達することを目的として成されている事を忘れてはならないのである。科学はあくまでも自己を媒介として至発生し発展してきたのである。つまり、科学とは人間が生存していくうえで必然的に生じたものであり、それ自体が人間と無関係なところで成立したわけではない。科学は極めて人間的なものであり、また、その内容は人間の価値観に依って左右されるものなのであることを念頭においておかなければならない。
 科学の革命性の一つに対立の解消がある。争いの原因は感情である。対立は、対象認識過程で必然的に生じる。共通の認識に立ち合意が成立すれば対立は本来自然に解消されるはずである。しかし、共通の認識や合意に到達しなければ対立は解消しない。そこで科学は、一定のルールと手続きによって各々の対立点を検証し判定した。対立が高じて争いの原因にならないように事前に予防したのである。これは、近代を発展してきた民主主義、会計学、スポーツにも共通したことである。また、科学は対象を多次元的に捉えることに依って対立の解消を計ってもいる。対象を一次元的また二次元的に捉えていると対象の全体像を掴むことが出来ない。そこから発生する対立は総てか無かといった具合いに妥協の余地がない。一見矛盾しているような理念も採用する体系や前提、次元によって両立することが出来る。要はその概念を何処に位置づけるかが問題なのである。しかし、それは同時に科学を決定的に相対的なものに性格付たのである。
 自己も対象的観点から見れば部分である。それ故に、自己を活かす為には、自己を対象の中に位置づける必要がある。自己を対象の中に位置づけていくためには自己主張をする必要がある。自己はソーナーやレーダーの様に自己の発したものに対する外界の反応を分析することに依って自己を外的世界の中に位置づけていくのである。その過程において意見の対立が起こるのは必然的な問題です。自分と他者の意見が違うのはお互いの立場が違うからである。また、立場の違いだけではなくその他に個人の好悪、思想信条と言った問題も意見の相違を生み出すのである。故に、意見の相違を単純に対立と捉えるのは早計である。先ず相手のよって立つ立場や状況と言った前提条件を確認する必要がある。その上で全体像を掴みその全体像の中に自己を位置づけていかなければ正しい判断は下せない。まん中も右からみれば左なり。しかも、外的反応を自己が判断する時自己の価値観や経験、感情によって更に歪められる。ソーナーやレーダーの例でも解るように多方面に渡る働き掛けをし且つ歪みや癖を修正しないと正しい全体像を掴むことは出来ない。反発や同調は必然であり、単純に反発や同調によって全体を判断してはならない。全体と個人これを両立するために民主主義は生まれたのである。民主主義的な手段や制度それは自己の主体性を前提にし、自己と全体との対立の解消を目的として必然的に生じたのである。そして、この様な考え方こそ最も科学的な発想なのである。故に、民主主義と科学これは切っても切れない関係にあるのである。故に、科学的かつ民主主義的教育とは全体的環境作りにある。学習は、自己の発展過程である。つまり、学習は、自己を知り、自己を意味付、自己を位置づけていくことである。それ故に、教育の基本は環境作りにある。学習は、自己主張、自己表現をする過程に於てにおいて、それに必要な知識手段を身に付けていくことである。それ故に、教育はその個人個人の成長に即応して、知識や手段を教えていくことである。民主主義、科学の前提とは、人間は自己の立場によって考え、発言をし、行動をすれば良い。それを保障するものは民主主義的体制であり、その様な自由な体制を破壊するような対立を生み出すのは独善と不平等である。つまり、独善と不平等は無用な感情的摩擦を引き起こし、感情的な摩擦が妥協のない対立を生み出すのである。そして、独善と不平等の発生を防ぐためには健全なつまり、民主主義的科学的教育が不可欠なのである。
 他人を批判するのは自己と相手各々の関係、立場を明らかにし、お互いを位置づけるためである。他人を批判するのは相手を辱めたり、うち負かすことが目的なのではない。それ故に、人を批判するときは先ず自分の立場明らかにしなければ不公正である。自己の立場を明かにせず又忘れて他人を批判するのは批判ではなく中傷である。自己を主張することに依って相手は、自己の立場や距離を理解しその上で理性的に話し合うことに依って民主主義は成立する。それが民主主義における相互批判である。お互いに対する批判を通して自己と他者との相違を自覚し、共通の基盤と自己独自の世界を両立させるのである。自己の立場を他人に強引に押し付けていこおとするのは、寧ろ自己の立場を危うくする。お互いが干渉していい部分と干渉しなければならない部分、干渉してはならない部分を明確に区分し、制度化する事こそ人間の真の開放につながるのである。民主主義とは、この様な制度に則り個人と個人の引力と斥力を均衡することに依って成立している。
科学は、予想の学である。事実に立脚して将来を予想するそれが科学である。予言や予告は、宣言のような性格を持ち、自己の願望を強く反映している。予定は、予想と内的願望や内的予言との均衡によって組み立てられる。故に、予想は予定の前提となる。そして、予定は予想と内的願望のどちらに重点が置かれているかによってその客観性が推察される。科学はこの予測を客観的整合性によって裏付けしたものである。予測は、付帯条件や初期前提の設定によって想定される状況や状態が多種多様に変化する。それ故に予測される結果は相対的なもので多岐に亙る。予測は、場合分けや場面設定が多岐に亙る関係上空間的な広がりを見せる傾向がある。それに対し予言は、自己の内的状況や願望を強く反映する傾向があり客観的な判断より主観的な思い込みが強くその為に一度信じたら容易に他の考えを受け付けなくなる。つまり、予測は外的事実に基づくものであるが予言は内的価値観に基づくものであるからである。内的予言には常に自己を断固たるものとしようとする力が秘められているのである。それ故に内的予言は、将来に対する方針を決定付ていく関係上時間的な広がりをもつ傾向がある。予定は、予測と予言との均衡によって時空間的な分析並びに判断を可能ならしめているのである。計画とはこの様な予定を時系列に並べたものであり、計画を実行するためには予測がしっかりしていなければならないのである。計画と科学を同一視する見方があるが科学と計画は別物である。計画が科学的であるかないかはその前提となっている予測が科学的な調査や手法に基づいているかいないかによって決まる。いくら精緻な計画でもそれが予言のみを前提として作られている限り非科学的なものなのである。
科学は、人間の行動様式に於て創造や判断にに必要な材料を提供するのがその役割である。科学は、それまでの知識や経験に基づいて将来を占うものであるから、予期せぬ出来事や予測し得ない事象には、存外脆いところがある。決断を下す時、その都度その都度における状況判断は必要であるが、それはあくまでも補助的な役割に過ぎない。どの様に科学が進歩したとしても、科学が人間に変わって決断を下すことは出来ない。結局最後に意を決し自己や人類の運命を定めるのは自分でありまた人間なのである。
ことさらにけじめを付けようとしなくてもその時々に於て自分の全力を尽くせば自ずとけじめは付くものである。何処から何処までが遊びで何処から何処までが仕事だと言うふうにまるで時間をぶつ切りにするように規定するのは滑稽なことである。同様になんでもかんでも一定の枠の中にはめ込んでしまうことを科学的だと錯覚しているものがいる。科学がよりどころにしているのは、あくまでも事実であり論理ではない。事実を重視するために論理の整合性が付帯的に重視されるようになったのである。故に、科学的な論理は厳密さと同時にゆとりが要求される。遊びのない論理はそれだけ科学の持つ柔軟さを失わせ論理を硬直化してしまう。そうした遊びは現実や論理を突き詰めると必然的に生まれてくるものである。科学的な物の見方に徹すれば必ず科学の限界が見えてくる。科学を万能だとしてただ鵜呑みにしている者は科学を理解していない者である。そして科学が事実を基礎としている以上必ず科学的論理には遊びが生じるはずである。科学を無条件に万能なものだと思い込み崇拝する事は誤りである。科学技術は手段であり道具に過ぎない。科学を上手に使いこなせるか否かは人間の側の問題である。大切なことは科学に対する基本的な考え方哲学である。科学を硬直化させる者があるとしたら、それは科学自体や科学者ではなく科学に対する硬直的な考え方や幻想である。
 科学する者にとって大切な資質の一つは無邪気さである。科学者が無邪気さを失えば偏見や独善に支配されるようになる。対象を素直に受け止める態度それが無邪気さである。しかし、無邪気は無分別を意味するのではない。科学兵器を無邪気に作られたらたまらない。科学者にとって必要な無邪気さとは科学的な関心に対して純粋で素直であるべきだと言う意味に於てである。それは、自分に対しまた自分の信念に対し正直にかつ忠実であることを意味するのである。勿論、自分の醜さや脆さ弱さに対しても直視する勇気と正直に反省する心を失わないことでもある。故に、無邪気に兵器など作れるわけがない。科学者の無邪気さとは大人の無邪気さでなければならないのである。
科学は人類発展の為の道具であり、また発展に必要な材料を提供する学問である。道具であり材料を提供する学問である以上科学をどの様に使うかは人間の側の問題でありその結果に対する責任は人間にある。包丁が殺人に使われたとしても包丁を造った包丁に問題があるわけでもなく人間が罰せられることはない。殺人を犯した人間が悪いのである。だが兵器となると話は別である。包丁が殺人に使用されるのは、造り手の意図と使用者の目的が食い違っているのであるが刀は明らかに殺人を目的として造られる。よもや兵器が殺人を目的にしたものだと自覚しなかったと言う言い訳を聞く者は居まい。核兵器の開発にかかわった人間は核兵器を使用した人間と同罪である。結果を考えなかったと言うのは科学的な無邪気ではなく単に幼稚なだけである。無邪気とは、疑る事を知らずに先入観や偏見に囚われない心である。科学は、先ず疑ることだと言う考え方をしているものは科学を正しく理解していない者の言葉である。科学は、先ず事実を正しく受け入れ信じることに依って成立する学問である。科学が疑ってかからなければならないのは、観念的なものつまり人為的なものである。科学者が事実を偏見や先入観によって信じることが出来なくなったら自滅である。無邪気とは、先入観や偏見を排し即ち観念的なものによって事実を歪める事を避け史実を事実として率直に受け入れる心を言うのである。それは人間として如何に生きるべきかと言うこととは別物である。それ故に、身勝手とか独断は科学的な無邪気さを損なうことである。そして、人間としての良心を持たない科学者は最も邪悪な存在である。 無邪気とは、あるがままの自分の姿に対して素直であろうとする精神である。悲しくなったら恥も外聞もなく泣き。苦しい時は苦しいと感じ。嬉しい時には、嬉々として笑う。自分が過ちを犯したと自覚したときには、心から恥じ。不正を見たら心の底から腹を立て。人が好きになったら、わが身を顧みないでその人の為に尽くす。哀しみや苦しみを恐れず。恥を恐れ。不正を憎み。あるがままの自分の姿を素直に受け止め、愛し信じ。自分を隠さず。かといって自分を誇示するわけでもなく。自分が自分であろうと努力をする。峻烈までに自分の真実を尽くそうとする姿勢を崩さず。自分に対し嘘をつかず、自分を誤魔化しもしない。真実を愛し、真実に忠実でいる。事実を重んじ現実を直視する勇気を失わない。その様な態度こそ本当の無邪気さを生み出す素なのである。無邪気とは、鮮烈であり新鮮である。無邪気とは居直ることではない。無邪気さの底には、自己の存在に対する強い確信が存在する。その確信が壮絶までに自己を素直にする。その素直さこそ無邪気さを支えているのである。自己の存在を強く信じられれば、自己の存在の証を求めたり、自己の死後の問題で悩んだり、つまり、自己の事に思い患う必要がない。そしてそれは死という現実を直視し受け入れその上でそれを越えていくことによって得られる境地である。その時人間は無私の状態になる。その様な無私の境地こそ無邪気な状態なのである。信じていた人に裏切られ、迫害にあって自分の身が危うくなったとしても真実を尽くそうとする凄まじい覚悟が人間を無邪気にするのである。それ故に多くの科学者は迫害を受け、その迫害を克服することによって今日の科学が発展したことを忘れてはならない。今日のように科学技術が世の中に認められ科学者達の社会的地位が高まると科学の原点がとかく見失われがちとなります。たとえそれが自分達にとって都合の悪い事や怖いような現実であったとしてもそれを直視し冷静に解決策を立て実行していく態度こそが科学者の真の姿である。科学者は真実にのみ忠実であるべきである。科学者の無邪気さは、真実の為に捨身になるほどの凄味がなければならない。公害の問題や環境保護、資源の確保、平和の維持、難病の克服これらは科学者が冷静に且つ断固として取り組まなければならない問題であり、事実を歪曲し無闇に民衆を欺いたり逆に人心を惑わすことは科学者として恥べき行為である。
その時点その時点に、自分の全てを賭けることが出来るから自分や他人の醜さ脆さに寛容になれる。同時に、自分や他人の過ちにも厳しく出来る。真偽も長所短所も、利点や欠点も全てをあるがままに受け入れ己がとる道も明確にすることができ、他人のとった道を尊重することも出来る。自分や他人に対する真の優しさや愛情はその様な純真な心から生じるのである。自分の限界を知り、自分の進むべき道を切り開くことが出来るのはその様な姿勢によってである。科学者には真実に対する確信がなければならない。自分に対する自信がなければ何事を信じられなくなり、その結果必ず疑り必ず恐れるだろう。そこから現実から逃避したり、相手を試そうとする気持ちが生じる。自分に都合のいい予言を盲目的に信じて他人の言葉に耳を貸さなくなったりもする。自分の覚悟や勇気を試したり、自分の力を顕示したりもする。だがその様な行為は、自分の弱さ醜さ脆さの証にしかならない。暴走族は、騒音を立てること以外に自分の力を誇示することが出来ない。暴力団は自分より弱い人間を虐めること以外に自分の勇気を表現するすべがないのである。ただあるがままに生き。あるがままに死ぬ。己の真実は、過去にも未来にもなく、その時にしかない。同時に相手のあるがままの姿を受け入れ真実を正しく認識して対応するそれが科学である。
 科学は複雑怪奇なものであり素人には理解し難いものという錯覚がある。これこそか学に対する偏見の最たるものである。科学は物事を単純にする事であり複雑にすることではない。複雑な物事を単純にすることが科学である。故に科学はその一つ一つの要素は簡単であり万人に理解し得るものである。しかし、それが組み合わされることによって複雑なものと見えるのである。そして、この偏見が科学万能の神話を生んでいるのである。
 自分の過ちや失敗は自分で努力すれば改善することは出来る。しかし、自分の過ちや失敗は自分がそれを認めない限り正すことは出来ない。自己の限界は他人の意見や力を素直に受け入れていくことに依ってある程度克服することが出来る。しかし、他人の意見を謙虚に聞こうという姿勢がなければ自分の限界を越えることが出来ない。先ず真実を正しく見極めるためには自分の姿勢が正さなければ不可能なのである。科学は先ず自己が正しい視点から物事を見なければ成立しない。自分の視点が定まらず偏見や先入観で物事を捉えている限り科学的な合理性など有り得ないのである。これは科学に対する考え方も同様である。科学を最初から絶対視し万能だと思い込むのは科学的合理精神を歪める最大の原因である。
 雑多な人間が共同して一つの社会を作っていく為にはいろいろな障害がある。違う世界の人間同士が一つの目的で協力し合う場合いくつかの事を共有し合わなければならない。物理学を共同で研究したり議論をするためには物理学上の基本を修得していなければならない。逆に人間の能力には限界がありどうしても自分の専門以外の人間と協力しなければならない場合が生じる。その様な場合特に複雑で多岐に亙る仕事を分担した場合自分の専門分野以外どんな仕事をしているのか知らないことすらある。極端な場合は自分達が何の仕事をしているのすら知らされていない場合がある。それは丁度背中合わせの関係に似ている。後背の憂いは背中を合わせた人間を余程信じなければ除く事が出来ない。そして背中を合わせられる信頼関係はお互いが共通の認識や目的、合意を持たなければ成立しないのである。共通の認識や目的、合意が成立しなければ人間は疎外感に襲われる。科学は、数学と事実を媒介にすることによって一つの問題を立場や考え方の違う人間が同じ問題を同時に共同でまたは平行して研究することが可能ならしめたのである。そこに、科学の革命性がある。しかし、その根底には科学者相互の強い合意がなければならない。
最初から是か非かを決めつけることは非科学的なことである。また、部分に拘泥するのも同様である。先ず全体を一度認識することである。分析は、その後の事である。最初は茫洋とした大様である。茫洋さが鋭さを生み大様さが厳しさを求める。そう言うものが科学である。対象に対する知的認識は元来茫洋としたものである。対象を論理的に把握することはない。分析は対象の全体像を把握した後に生じるものである。対立は、対象を全体像の中に位置づけていく過程で生じる。対立には対象間に反発力を与え、その斥力と引力のバランスによって対象間の位置と関係を定め、安定させる作用がある。これは社会的関係においても言える。自分と他人と意見を異にするのは、立場が違う以上必然的なものである。故に、対立を恐れてはならない。しかし、対立は自己と相手の位置を定める為に必要なのであり、一方が一方を全面的に否定することによって解消するものではない事を忘れてはならない。対立と協調一見矛盾する二つの立場は不可分なものである。協調が対立を支え。対立が協調を均衡する。意見対立を勝負のように受け止め優劣をつけることによって相手を抹殺するようなことは愚かであり危険である。それでは対立が即決裂へと発展してしまう。そうではなく民主主義的で科学的な体制とは対立を通してお互いの位置を確認し確立することである。 
 対象認識は、対象を自己の観念に合わせるようにしてはならない。自己を対象に合わせるように努めるべきである。つまり先ず自己が対象に同調していくべきなのである。科学は基本的に調査、観察によって支えられている。調査観察は観念的なものではなく実体に即したものでなければならない。占いや予言の類を科学的根拠としてはならない。自己の観念は自己の内的な力で調整することが出来る。しかし、真実を自分の力で調整することは出来ない。災いを自分の力で福に転じることは可能だが、事実を否定することは出来ない。自己の行動規範を自然合わせることは出来るが自己の行動規範に自然の法則を合わせることは出来ない。自然の法則を熟知すれば自分の力を最大限に発揮できるが、自然の法則に逆らえば逆らうほど自分の力は減退する。科学は人間が自己の限界を自覚したところから発達したのである。ただしそれは自己の能力をその限界ぎりぎりまで引き出すことによってはじめて認識されるものである。自分を相手に合わせることほど難しいことはない。枝葉末節に拘泥すればその根幹を見失う。かといってただ相手に迎合していいと言うのでもない。相手に合わせるためにはその相手に見合う技能がなければ出来ない。未熟な人間は相手を理解する能力すらない。相手の能力と拮坑することによって相手を推し量ることが出来る。それは厳しい修練と学習に依ってのみ可能なのである。対象に対する批判や反論はそうしたぎりぎりの処から出発しなければならない。
 科学者は自分本意の考え方を捨てなければならない。その結果が如何に自分や人類に取って不幸なものであり凄惨なものであっても科学的な結論がそうであれば率直にそれを認めなければならない。そうした科学的認識に基づいて対策を決めるべきなのである。故に、科学者は最悪の事態を覚悟していなければならない。最悪の事態を直視しない限り事態を回避する方策は生まれない。科学的な態度とは、予め場面を想定することによって想定された場面場面における対策を立てることである。最初から自分達に都合の悪いことや考えたくないことを除いてしまったら科学的な対策などはじめから出来はしないのである。寧ろ自分達が認めたくない又都合の悪い現実こそ解決しなければならないことである。臭いものには蓋をしろ式の姿勢では、問題の解決は出来ないのである。
 真の革命家とは科学的予言者のようなものである。それは幻想家や妄想家、夢想家また狂信者ではない。優れた実業家であり、科学者であり、また実業家でなければならない。後世どの様に計算し尽くして動いたように見える行為であってもその時点時点においては未知な部分の方が多いものである。現実には未知で計算しきれない部分がかなりあり、その様な判断が付かないものを洞察することによって重大な決断は下されている場合が多いのである。それ故に偉大な先駆者ほど失敗や誤謬が多いものである。つまりは、現実に与えられていない事柄や未知な分野を補い且つ切り開きながら新しい世界を創造していくのが真の革命家である。故に、真の革命家は現実主義者であり、かつ事業家でなければならない。その意味で革命は幻想でも夢想でも妄想でもない。革命は現実であり、事業であり、科学である。闘争や迫害は事業の過程で派生することがあるが絶対的な要素ではない。革命の本筋はあくまでも事業であり、事業を遂行する上で障害となるものに対し闘争や抵抗が現れるのである。革命の幻想に取り付かれ在りもしない夢想を信じ妄想による衝動的な行動をするのは狂人であって革命家ではない。空想を空想として終らせるのは非科学的な態度ある。確かに最初はそれが空想であっても現実との葛藤の中でそれを現実にしていくのが真の科学者である。それ故に、科学者は理想家でなければならない。そして、理想を実現しようとした時科学者は必然的に革命家に変貌するのである。故に、革命とは観念的なものではなく実際的なものである。多くの著名な科学者達が反戦や反体制者として活躍し異端者として迫害を受けのは彼らがそうしようとしてそうなったのではなく必然的にかつ結果的にそうなったのに過ぎない。思想はその人の言動よりその人の行き様にこそよく現れる。それを科学者ほど端的に現しているものはあるまい。思想を現すならば自らの人生に依るべきである。人間は戦うべき時には戦わなければならない。人間の一生は絶え間ない闘争の歴史でもある。しかし、闘争の為の闘争は感情であり、虚業である。そして、それは虚無である。真の闘争とは、現実との葛藤の中でやむにやまれずに引き起こされるものであり、相手に対する個人的感情や憎しみが入り込む余地はないのである。倒すべき相手にも戦うべき相手にも怨恨があってはならない。それ故に闘争には必ず痛みが伴うものである。事業である革命はその基盤に建設されるべき社会の具体的青写真や構想を内包していなければならない。ただ蜃気楼の様に具体性も現実性もない妄想や口実によって革命を美化し自分達の行動を正当化する事は許されてはいない。人民という美名のもとに何の痛みも感じずに無辜の民を殺戮することは最も唾棄すべき行為である。
 自己の観念的体系の規模や能力は自己の行動量に比例する。その時点その時点に於てその時点までに与えられた情報以上の考え方をすることが出来ない。空想的な観念とはそれまで与えられた情報や潜在的な観念の複合に過ぎない。そして、その情報は学習や経験、先天的な記憶によって与えられるものであってそれは自己の行動を基盤にしている。つまり、自己の観念は自己の世界以上の広がりは出来ない。故に、自己の内的な世界を拡大するためには、自己の行動半径を広げるか外的な情報を積極的に摂取する以外にない。自分の世界の中に閉じ篭り未知な世界に挑戦していく姿勢がない限り自己の能力はそれまでの行動量の範囲を越えることは出来ない。自己の内的世界より大きな世界の事を理解しようとしたら自分の経験だけでは不可能である。新しい理論や未知の現象や対象に遭遇した時それを既成の概念や従来のものの見方に捕らわれている限り理解することは出来ない。新しいもののみ方を理解するためには従来の考え方や自分の世界を打ち破りより広い世界を確立しなければならない。無論それは冒険であり挑戦である以上危険は付きものである。しかし、危険を恐れていては何も出来ない。挑戦と反省を繰り返しながら絶え間なく研鑽を続けなければ進歩はないのである。その様な血の滲む様な努力に依って人間は危機を脱することが出来るのである。科学者に必要なことは真実を極めるためにはどの様な危険をも顧みずに挑戦していく勇気である。何の調査も学習もせずに自分だけの小さな世界だけで全ての物事を理解しようとするのは非科学的なことである。
突発的に何等かの災難に遭遇した時にそれを正しく処理出来るか否かは事前に災難が起こることを想定してそれに対して備えていたか否かのよって決まる。現象は時間的なものである。現象が起こってからその現象に対する対応を考えても遅いのである。予測をしていない現象に対して冷静に対応をするのは困難な事である。人間が予測し得る現象と言うものは過去の経験によって限定されている。多くの予測を想定しても天気予報の例を見ても解るように百発百中正確に当てることは不可能である。いくら科学が進歩したからと言って自分達の運命や未来が総て予測し得るわけではない。小説や物語の中には科学はどの様なことでも可能にしたかのごとく錯覚しているものがみられるがそれは小説や物語の上での話である。綿密な調査に基づいた予測の上に立てられた精緻な計画であったとしてもいざ計画を実施してみると計画倒れに終わり易いものである。それ故に計画を絶対視するのは危険なことである。考え得るあらゆる事態場面を想定しそれぞれに対応策を予め設定しておいてどの様な事態にも対応できる柔軟な態度こそが科学的な態度である。また、いくら多くの事を想定したとしてもその現象の起こる確率は比較的小さなものである。対策や計画をいくら立ててもその多くが無駄になる。科学は壮大な無駄の累積の上に成立しているのである。中には何万年に一度何千年に一度起こるか起こらないかと言った現象もある。しかし、だからと言ってその様な現象を無視していいと言うわけではない。科学者や実務家は無駄を承知の上で多くの場面を想定し多くの企画や計画を切り捨てていくことが出来なければ勤まらないのである。
 変化に対応できる体制とはその体制を構成する個々の人間一人一人が物事を主体的に判断を下していける体制を作り上げることである。その様な体制は構成員各自の強い意志と信念、構成員の連帯感に基づく強い信頼感がなければならないのである。自分を社会の中に見いだし、位置づけ、生かす。それ以外に外界の変化に対応しながら新しいものを創造していくことは出来ないのである。何人もそれはその社会を支配する者であっても自分の我が侭や身勝手を押し通し、仲間の信頼を裏切っている限り、自分を見失い仲間から孤立し、ひいては自分を殺すことになってしまうのである。形あるものは変化する。普遍的なものは目に見えない法則や原理である。同様に民主主義社会を支えているのは社会人相互の目に見えない愛情や信頼なのである。そして、その愛情や信頼を支えるのは情報である。近代を形作っている要素は民主主義と科学と会計学であり、そうした近代を支える要素の根底には情報がある。それ故に情報の公開は近代社会にとって不可欠な原則である。必要な情報が公開されていない限り近代国家は成立し得ないのである。
 科学者が信じ前提とするものは何か。それは最低の合意事項である。否定して否定して最後に否定しきれなくなったもの、それを最後に自明なものとして信じ前提とするのである。そして、自明な事柄を信じ前提とするところから科学は始まるのである。否定し得るもの全てを否定しきることそれは全ての始まりであって終わりではない。そして、最低限の合意事項とは近代社会の基盤を構成する要素に共通することでもある。思想や信条、人種や民族の違う人間総てに最高の合意を求めるようとした場合一つの思想一つの信条一つの人種一つの民族に統合せざるを得なくなる。そこに差別が生じる。また、人間を一つの枠に填め込むことが教育や行政の目的となる。そこに独裁が生じ全体主義が芽生える。近代社会は一人一人の個性が違うことを前提とした上で一人一人の個性を尊重し、個性が違う人間が社会を構成していく上で最低限守らなければならない原則を一定の手続き、規則に則って合意していくことによって成り立っているのである。そして、科学の前提としていることもこの最低限の合意自ずから明らかな事つまり、自明なことなのであり、又民主主義的な制度とは最初の合意を最低限の基礎としているのである。そして、科学も民主主義もその最低限の合意の上に積み上げられた体系なのである。
自明という概念は科学にとって重要な概念の一つである。自ずから明らかな事。即ち疑る余地のない否定しようのない事柄それを根拠にしているのが科学である。それは日常的で当然過ぎる程当然な事柄。誰もが当り前だと思っていることその様な事象が科学の前提であり、空想小説に描かれているような世界ではない。又、超人的な人間が超人的な力で造り出した世界でもないのである。そこに科学の特徴がありまた、正当性、現実性があるのである。科学的な夢とは現実的なものである。科学が生み出した夢は空想家が生み出した夢よりももっと壮大な夢でありまた偉大な夢なのであり、それでありながらもっとも現実的な夢なのである。科学は思弁的なものではない。科学は宗教家や哲学者達が問題としている様なその物自体の事や創造主といった形而上的な事柄を探究しているのではなく物と物の関係、物の運動、物が置かれている位置に付いて探究しているのに過ぎないのである。平凡な人間が日常的な物事を突き詰めた時に科学は生まれそしてそれが科学の本質であることを忘れてはならない。現代人は科学の偉大な成果に目を奪われて科学の本質を忘れがちである。しかし、この偉大なる平凡こそが科学を支えてきた本質なのであり、その本質を現代人が見失っているからこそ科学に対する奇妙な神話が生まれ科学万能の迷信を生み出す原因となっているのである。科学は平凡な学問でありその事が科学の発展を促した最大の要素であることを忘れてはならないのである。ありふれた何でもない出来事や物事の背後にこそ偉大な真理が隠されており、科学はそのありふれた何でもない事象に根拠を置いた学問なのである。


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano