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著書: 自由(意志の構造)上
第2部第2章 信仰
現代人は、目標を見失い大海を漂っている難民のように私には思える。各自がてんでんバラバラ自分勝手に、蜃気楼の様な幻想を抱いて、自分達の居る場所すら見失っている。現代人が辿り着く先は、不毛な砂漠か、楽園なのか、誰にも解っていない。或は、永遠にさまよい続けるのかも知れない。ああ、神様、現代人に救いはあるのでしょうか。神が、人間を見捨てたのではない。人間が、神をいつの間にか、忘れてしまったのである。大宇宙からみれば、人間の為せる業など米粒の上に生えたかび程の事もない。少しばかりの成果に酔って、現代人は、自分達が、何者かに生かされている事を、忘れてしまっているのである。しかし、人間は、自分達が何者かに、生かされていることを、自覚しないかぎり、己の限界をを知ることは出来ない。自分の限界を知らぬものは、常に、危うく、いつかは自滅してしまう。人間の尊厳は、神の尊厳を源としている。人間の命は神に依って与えられたものである。自分の人生を粗末にすることは、神の尊厳を傷つけることである。故に、人間は、自分の命を粗末にしてはならないのである。同時に自分の人生の意義を見いだすためには、神への信仰が重要なのである。神を知らぬものは、自分の存在の意義を見いだすことが出来ない。天上に輝く星を見上げない限り、人間は、自分の位置を知ることすら出来ないのである。
現代ほど、信仰心の失われた時代はあるまい。現代人は、幸福とは自らが追い求めるものではなく、人間が、自分の欲望を、無原則に開放すれば、結果的に幸せになれるものだと、思い込んでいるらしい。金を儲けた結果として幸せになり、快楽を知った結果、満ち足りるのであり、名誉や地位を得た人間が結果、偉くなるのだと、思い込んでいるようである。その結果、何が人間とって幸せなのかについて考えることを止めてしまったのである。そして、人間の繁栄は、欲望を追求した結果もたらされるのだと、錯覚しているのである。幸せとは、人間の心が生み出すことを、現代人は忘れてしまっているのである。欲望は泡のようなものである。その様な欲望によって、人間が手にした幸福は、脆く、かつ、淡いものに過ぎない。現代人の幸福は幻想の上に築かれたものである。その事に現代人は気が付いていないのである。科学や物質文明の発展が人間から信仰心を奪ったのだと言うものがいるが、それが真実だとしたら、それは人間の驕りに他ならない。人間が豊かで幸福な一生を送れるのは、人間が、何者かに護られ生かされているからである。それは神の御恵みである。それ故に、人間は、本来、豊で幸せになればなるほど、神に感謝し、自制していかなければ、自滅するだけなのである。驕る者久からずの喩えを現代人は忘れてしまっている。科学文明の発達は、即ち、人間の精神の発達ではないことを思い出さなければ、人類は、危機的状況になるであろう。
神を信仰したからと言って、不老不死になると言うわけではない。神を信仰しても、又、どんな聖人君子でも、死ぬ時には、死ぬものである。ではなぜ、神への信仰が大切なのか。それは、神を信じること自体に、自己の魂の救済があるからである。神を信じる価値があるのかと、問う事は、神に、人間は、存在する価値があるのかと、問うのと同じ事である。人間は自己以外の多くの存在に依って生かされていることを忘れてはならない。人間が存在しうるのは、人間が生きられる環境の中だけに、限られている事を、思い起こして欲しい。現代人の多くは、功利主義的な考えに冒され過ぎている。功利主義者が犯している最大の過ちは、人間は、結局欲望を満たすためにのみ、存在しているのだと、思い込んでいることである。そして、欲望を満たすためにならば、何をしても許されると信じていることである。その結果、多くの人々が他人の苦しみや、飢餓に無関心になっている。自分と同じ痛みを感じる事の出来る者以外を、信じられなくなっているのである。そして、自分の都合だけで勝手に物事を解釈しているのである。自然や神に対する冒涜は、その最たるものである。神への信仰は、神の為にではなく自らの救済の為であることを忘れてはならない。神は、人間が存在するずっと以前から存在し続けているのである。しかも、神は、人間の助けを得なくても存在することが可能なのである。しかし、人間は違う、神の助けなくしては一日も存在することは出来ないのである。
現代人は、欲望に、絶対的価値を見いだしているようだ。私には、現代人は、自由に関しても、自由とは、自分の欲望を無条件に開放することだと錯覚しているように思える。欲望を満たすためならばどんな事でも正当化され、また、実際に実行している。欲望に経済的価値観が加味されることによって現代社会の法は、成立しているかのようである。欲望と金、そこに、現代社会の正義の根拠がおかれているとしたら、現代社会の正義とは、何とも貧相なものである。
現代人は、神への信仰を捨て、欲望を信仰しているようである。欲望を無原則に開放することが自由なのではない。それが真実の自由だと言うならば、自由などない方がいい。しかし、欲望への信仰が、一体何を人間にもたらすと言うのであろう。人間の欲望は、際限なく増大する。どんなに豊かな生活をしていても、不平不満は尽きないものである。貪欲は、人間を不幸にするだけである。満ち足りることを知らない者は、常に、神を罵り、神を冒涜をする。現代人は、刹那的な快楽に溺れ、欲望に心が塞がり、自己を超える存在を信じることが出来なくなっているのである。それどころか、神を信じるものをあざ笑い、軽蔑すらしている。そのくせ、自らが創作した世界の終末を恐れているのである。人類が滅亡しても世界が終るわけではない。人間の生み出した終末観とは、人間自体がその根本的な原因を生みだしているのである。しかし、大自然の力はもっと偉大なものである。所詮、人類は、自分の影に、脅えているのに過ぎないのである。
人間と神とが対立していると思い込んでいるのは、人間の思い上がりにすぎない。神に対抗する力すらない人間が、手前勝手に思い上がり、一方的に神に挑んでいるに過ぎない。神は、最初から人間など相手にしてはいない。自然界を見るがいい。人間以外の生物は、自然のおきてに従って生きているではないか。人間は、多くの生物達を見境なく乱獲し、乱伐し、自然界の調和を乱し続けてきたのである。神にとって此の世に存在するものは、総て平等に存在するのである。人間だけが神から愛されているわけではない。生きとし生ける者、総てに、神の愛は、注がれているのである。
人間の一生に問題が多くあることは確かである。しかし、問題があることが罪なのではない。問題があることを認めなかったり、隠したり、ごまかしたり、或は、問題を発見するための努力を怠ることが罪なのである。人生は、悩み多く問題が沢山あることは認める。しかし、認めるにしても、だからと言って、それが自分を不幸にしている原因だと思い込むのは早計である。病気になること自体が罪悪なのではない。病気が存在することは宿命である。しかし、病気の存在を認めようとしなかったり、治療法の研究を怠ることが罪なのである。そして、現代人の最大の難病の病根は心の中にあるのである。宿命を呪って、運命を開く努力を怠るのは自らに対する背信である。そして、それが神を呪い、神を冒涜することなのである。
人間が神を信仰する必要があるのは、自己の存在の根拠を知り、この世に自立して生きんが為である。神を信じることが出来ない者は、自己の存在の根拠を見失い、自己を抑制することが出来なくなる。自立するための依りどころを見失ってしまうのである。自立できないままに欲望に身を委ねてしまうと欲望の虜となって自己を失ってしまう。自堕落で刹那的な快楽にしか居所をなくしてしまう。その結果が社会を荒廃させ、自然の調和を乱し、多くの生物を絶滅に導いたのである。もし、私が人類以外の生物ならば神に人類の非道を訴え救いを求めたであろう。それでも、神は、人類をまだ許し存続させてくれているではないか。これを神の愛と言わずになんと言おう。人間の狭い了見で神に挑むなど笑止千万な事である。神は神であり、人間は人間である。人間の為に絶滅していこうとする生物達の叫びを人間達は聞いたであろうか。人間が神の非情を恨むのならば自分達が滅ぼした動物達の事を思うがいいのである。彼らが一体どんな悪いことをしたと言うのであろう。死はどのような者の上にも等しく訪れる。この様に神の意志は絶対にして不動なものである。故に、人類は自らの力に驕る事なく神への信仰を失ってはならないのである。神は、神故に神なのである同様に人は、人故に人なのである。
神は愛なり。神は力なり。神は全てなり。神は理なり。神は真なり。神は法なり。神は源なり。神は光なり。より善い世界を築き上げるために、人類は神への信仰を取り戻さなければならない。神と争うことほど愚かなことはない。所詮神を超えることなど人間には不可能である。神に挑むこと自体無意味な事である。なぜなら、神は惜しみなく人類にその愛を注ぎ慈しんでいるからである。神に逆らうのは、放蕩息子が父親に逆らうのに似て、傷つくのは人間自身なのである。確かに人間は運命に逆らうことは出来ないが、しかし、自分の運命を生かすことは出来る。人間が生存していくのにに必要なものは全て既に与えられていることを忘れてはならない。
現代ほど神の恩恵に浴している時代は過去あるまい。然るに現代ほど神を侮っている時代もあるまい。人間は、神が信じられない時に神を信じ、神を信じられるようになった時に神を信じられなくなったようである。信仰は、人々が神を侮っているときに試されるものである。その意味では現代人ほどその信仰心を試されている者はいないと言えであろう。現代人は何に脅えているのか自分達の犯してきた罪にではないか。神を信じることが出来ないのは、自分の犯した罪の大きさに恐れを為しているからに過ぎない。しかし、神を恐れるばかりで、自らの犯した罪を認め、悔い改めない限り、人類の救済はないのである。今こそ、神への信仰を取り戻し、人類の贖罪を求める時なのである。
現代人は、神を見失っているのではないだろうか。神は、常に、我々の手の届く所に居て私達を見守っていると言うのに。間違えてはいけない。救済すべきは自己の魂である。神様の為に信仰をするわけではないのである。神の愛を拒絶しているのは、人間の方である。神様を必要としているのは、人間の方なのである。裸の自分の姿を見るがいい。身に纏っているもの全て神が人間に与えてくれたものに過ぎない。此の肉体すらも。それなのになぜ人間は神を呪うのか。神が与えてくれた以上の力を求めるのか。自分が生まれてきたことを罪だと呪うのだろうか。神を恐れるのは、自分が犯した罪故にである。神に許しを乞うのは人間の方なのである。神の力を必要としているのは人間なのである。神の為に信仰を持つのでも神を救済する為に信仰するのでもないのである。
人間は何ものかに生かされている。それを自覚しない限り人間はその存在意義を失う。人間は神を必要としているが、神は人間を必要としてはいない。水や空気は人間が生存していく上に不可欠なものであるが、しかし、水や空気にとって人間は必ずしも必要なものではない。水や空気が人間を生かしているのは水や空気の恵みである。それ故に、水や空気を汚染するのは人間の愚かさ以外のなにものでもない。水や空気は只存在しているに過ぎない。ただ存在しているだけに過ぎない水や空気を必要としているのは人間のほうなのである。同様に人間が生かされているのは神の愛故にである。神は、只存在しているのに過ぎない。神に存在意義を見いだし神を必要としているのは人間なのである。神の愛を受け入れない限り人間は人間の運命を変えることが出来ない。故に、神を呪うのは人間の業以外のなにものでもないのである。
一体人間は何をしているのだろう。何を求めているのだろう。快楽は空しく、人間の一生を不毛なものにしてしまう。真の豊さとは何か。夢のない一生ほど貧しいものはない。労働に歓びを見いだせなければ、生きることは苦痛だ。人を愛せない人間がなぜ自分の人生を愛することが出来るであろう。人生には、予め定められた宿命と、自らが切り開いていく運命がある。定められた宿命に逆らうのは愚かなことである。しかし、自らの運命は自らが切り開かなければならないのである。人間は神に与えられた宿命を素直に受け入れた上で能動的に自分の運命を切り開いてこそ豊になれるのである。人間は自分が生きていることに感謝し、生きること自体に歓びを見いだしてこそ人生を実り多いものに出来るのである。人間同士が争い滅びたとしてもそれは人間の愚かさ故にである。人間が環境を汚染す住難くしたとしてもそれは人間の罪である。悔い改めよ今こそ本当の信仰を取り戻し、人類が一致協力して恒久的な平和と繁栄を求めなければならない時なのである。そのためには一人一人が自らの限界を超越し、その存在を存在たらしめている何者かを素直に信じることによって心を一つにするいがいにないのである。それ故に、人類にとって神への信仰と神への愛が不可欠なのである。
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