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著書: 自由(意志の構造)上
第2部第3章第2節 相対
広大な大地も、見渡す限りの海も、果てしなく続く砂漠も、地球からみれば部分に過ぎないのである。人間にとって巨大なこの地球ですら、太陽系の中では、質点に過ぎない。この太陽系も銀河系宇宙からみれば、その存在すら判別できないほどの存在になってしまう。また、地球上から見れば太陽は地球の周りを回っているのであり。逆に太陽から見れば地球は太陽の周りを回っているのである。地球が丸いからといって、家の設計図の土台を丸く書く設計士はいまい。しかし、ロケットからみれば地球は確かに丸い。人の寿命は百年も生きれば長生きしたことになる。しかし、人間の歴史から見れば微々たるものだ。その人間の歴史も地球の歴史からみたら僅かなものであり、地球の歴史も宇宙の歴史からみると一瞬に過ぎない。視点を変えると、物事の持つ意味は、全く変わったものになる。この様に、視点を変えることによって、対象の捉え方が、変化するという考え方を、相対的というのである。
相対と言うの概念は、科学的考え方の中核をなす概念である。科学的な物の考え方が、迷信や偏見から人間を開放したと多くの人は、信じているが、中でも相対的なものの見方が、重大な役割を果たしたと見なしている人は、少なくないのである。相対的な物の見方が、客観的な考え方を可能にし、対象を多角的に捉える認識方法を定着させたと言うのが、その主な理由なのである。つまり、神の絶対性から自己を開放し、主観的な観念の所産である神話や伝説の世界から、人間を解き放ったと考えるのである。また、対象を客観的に捉え、主観的な思い込みから、人間を開放したことは、近代国家の根幹になる思想を育みもしたのである。即ち、相対的な物の見方は近代国家の礎を築いたものとも言えるのである。しかし、一口に相対的と言ってもその捉え方は千差万別であり、その土台にある観念は不明瞭なものである。それ故に、この様に重要な概念である相対的な物の見方も、その意味を、正しく理解している人々は、意外に少ないものである。そこで、この節では、相対的な考え方とは一体どんな事か、また、どの様にして形成されたものかを明らかにしたいと思う。
愛情は、愛情によって育まれ。信頼は、信頼によって育てられる。子供は、自分を包み込む母親の愛情によって愛に目覚める。だいたい、赤ん坊は、自分一人の力では、生きていくことが出来ないのである。人間、生まれた時は、誰でも周囲の人間に護られ助けられて、はじめて生きていく事ができるのである。つまり、我々は、誰でも裸で無防備な状態で生まれてくるのである。それ故に、人は、信頼や愛がなければ生きられないように、運命づけられて生まれてくるのである。この様に無防備で生まれる人間にとって、生きていく為に必要な知恵は、最初から体系づけられた論理や理念によって、自己の内面に入ってくるのでも、また、理性や知性によって、識別されるのでもない。自分を包容するように、又、温もりのように、自己に染み透ってくるのである。つまり、何を信じ、何をしてはならないのか、そういった価値判断も、生まれた時から、明確な論理として身についているわけではなく。最初は、経験や学習によって漠然とした情報として擦り込まれていくのである。
このようにして、自己の内的な世界は、混沌とした状態から、徐々にその形を現してくる。しかし、最初の頃、まだ自分のを目すら意識をしていない。自分の目どころか自分自身の存在も自覚していないのである。つまり、自己を自覚し、自己と他者を識別しているのではない。自己と他者との識別は、成長するに従って、他人の目に気が付き、自分の目を意識するようになってからの事である。即ち、自己の主体的感性によって他者の存在に目覚めたときはじめて、自己の存在を自覚するのである。
自分以外の人間が熱湯に触って熱いと感じても、熱湯に触れていなければ、熱いとは感じない。逆に、いくら自分が怪我をし、痛い思いをして、誰かに代わってもらいたいと思ったところで、他人が、それを代わってくれるわけではない。自分が善いと思っても、他人はそれを認めてくれない事もある。自分では、どうしようもないことが、この世には、いっぱいある。この様な、体験を通じて自己と他者との違いに気が付き始めるのである。そして、それは、自己の世界と他者の世界が違うことに気が付くことでもある。自己と他者との違いの理解が、自己と他者との認識の違いへの認識へと発展するのである。この様に、自分の世界や自分の視点と他人の世界、他人の視点との違いを感じるようになる事によって、相対的なものの見方は始まるである。
人間は、自己の視野内に住んでいる。この場合の視野とは、時空間的なものである。通信技術や情報機関の発達によって、自己の視野が広がったように思えるが、それでも、結局、窓から外の景色を眺めているのと同じ事なのである。人間の意識は暗闇を懐中電灯で照らしているように照らし出されたところしか見ることが出来ない。この様な自己の世界を意識し、外の世界と比較していくことによって、未知の世界を理解していくのが科学的認識である。それが相対論の萌芽である。ここで注意しなければならないのは、相対論とは、自己の世界の限界を認識する事によって生じるという点である。もし仮に、自己が、自分の見える範囲の世界のみを絶対視してしまえば、相対的な考え方は成立しないのである。
この世界には、人間の内的な空間と肉体を通じて見る空間と、純粋な外的な空間の三つがある。各々の世界は、関わりがない限り絶対的な空間である。個々の空間は、他の空間との関わりが生じた時、絶対性を失う。人間の認識は、この三つの空間が関わり合うことによって成立しているのである。故に、意識された瞬間から空間の絶対性は失われるのである。
起きて半畳、寝て一畳。王侯貴族や大富豪のように端からみて羨ましいような生活をしている人間であったとしても、結局、一生にできる事には、つまり、人間が、占める事のできる時間や空間には、限りがあるのである。四苦八苦、人間、苦しみの内容は、一人一人違っていても、苦しみの本質は、皆、同じものなのである。どんなに恵まれていても、欲望には、限りがないのである。限りある一生の中で、限りのない人間の欲望を、満たそうとすれば、自ずと葛藤が生じる。
人間は、主観的な動物である。蓼喰う虫も好きずき。人間は、自分の好物や趣味の世界に住んでいるのである。人間は、感情の動物である。誰を好きになり、誰を遠ざけるか、その根拠は、主観的なものである。たとえ、どの様な聖人君主であろうと、この宿命からは逃れられない。相性の悪いものどうしに、理屈は通らない事の方が多いのである。わが子、可愛さで、理性を失った君子は数多くいる。人間は、所詮、手前勝手で、我が侭な動物なのである。人間は、自分を見失えば所在ないが、同時に、自分の世界に縛られてもいるのである。この束縛から逃れるために、人間は、相対的な認識を用いたのである。
人間は、自分の観念の範囲内で対象を認識しようとする。言い替えると、人間は、自己の観念の範囲内でしか対象を捉えることができない。自分の観念の範囲を越える物事は、その存在を否定するか、自分の観念の中に取り込んでいこうとする。このとんは、科学者も同じである。現象を捉える時、人間は、自分の経験や学習に基づいて類型し、体系づけるのである。そして、この事が、相対論を生み出す原因となっているのである。
人間は、自己の世界に閉じ込められている。つまり、自己は、自分にとって一つしかないのである。それは、人間を外的な世界に対する漠然とした不安に落とすのである。その不安が猜疑心や恐怖心、疑心暗鬼を生じさせるのである。そして、その猜疑心、恐怖心、疑心暗鬼が科学、哲学、宗教を生み出す原因となるのである。人はこうした猜疑心や恐怖心から開放される為に、いろいろな手段を講じてきたのである。過去においては自己が知覚している世界を絶対視したり、一つの観念の枠組みの中に外的な世界を押し込めようとしたりしたのである。しかし、自己の世界の限界を認めないかぎり、真理を見極めることは出来ない。自己を絶対視し、自分の世界に閉じこもってばかりいたら、自己の限界を越えることは出来ず、世界は、いつまでも、闇の中にあるのである。人間は、自己の視野から抜け出すことに多くの時間を費やした。その結果、長い間、人間の文明は、停滞し、戦争や内乱が絶えなかったのである。そこで、科学者は、内的な空間を外的な空間に置き換えることによって、内的な世界と外的な世界とを結び付けていこうとしたのである。それが相対論である。幸いにして人間は移動が可能であり、視点を変えることが可能である。又、お互いの意志を伝達したり交換することが出来る。それが相対論を生み出すのには都合が良かったのである。その結果、科学は、思想、信条、体制の差を乗り越えて全世界的なものに発展したのである。
相対的観念は、絶対的な観念を否定したところから出発する。しかし、対象を相対的にとらえる為には、対象の存在の絶対性を前提としなければならない。対象の存在を疑ることはできても否定する事はできないのである。それ故に、相対的な物の見方はその対象の存在を前提としなければ成立しないのである。ここで注意をしたいのは、自己の存在の絶対化と自己の観念的世界の絶対化はまったく別物である事である。存在の絶対性は、意識界の絶対性とは、イコールではないのである。内的な世界、即ち、意識界は、外界と隔絶された時のみ絶対的になりうるのである。それ故に、外界と交渉を始めた瞬間から、内的な世界は、絶対的なものではなくなるのである。
相対論は、自己の目を意識すると同時に、他者の目を意識することによって成立する。無論、自己と他の世界とを結び付けることに失敗して、いつまでも自己中心の世界から抜け出せない者もいる。彼らは、それ故に、自己の視野内に存在するもの以外信じようとしない。自分の経験や感情、論理を普遍的なものとして、それ以外のものを、頑なに受け入れようとはしないのである。そして、自分が信じている神や思想、論理を全ての人々に適用し、押し付けようとする。これでは周辺の人々と摩擦を起こさないはずがない。この様な考え方が、自己の世界の絶対化である。それに対し、相対的なものの見方とは、自己の限界を自覚し、自己の世界を超越して、より大きな世界に結び付けていこうとした結果から、生じたものである。
この様な相対的な考え方をするためには、自分達が知覚している現象や対象を超越したところに、絶対的なものを前提としなければならない。かといって、具象的な神を絶対視して、かえって観念の虜になるのも危険なことである。何が絶対的で何が相対的であるかを正しく見極めることが肝心なのである。絶対的なのは存在のみであり、意識が生み出す世界は総て相対的なものである。
絶対なものには、分別はない。分別がなければ、対象を識別することはできない。絶対的な空間には、位置も関係も運動もない。位置や関係や運動がなければ、現象を分析する事はできない。絶対的な対象には、意味がない。意味がなければ対象を区別することはできない。善も悪も、真も偽も、美も醜と言った分別は、絶対的なものにはない。ただ、絶対的な存在は、無意識に前提とされているものなのである。
位置、運動、関係は、対象を識別する過程で生じるものなのである。任意に定められた座標系がなければ位置も運動も関係も識別することはできない。故に、空間内に存在する他の物体と無関係に、対象それ自体だけで、空間内における対象の位置、運動、関係を、特定する事はできないのである。第一、空間そのものも相対的な概念なのである。絶対的な空間が存在しない以上、絶対的な位置も運動も、関係もない。比較すべき対象を持たない対象は、位置も運動も関係もないのである。つまり、対象の識別は、対象どうしの比較対照によって成り立っているのである。対象を識別するためには、何等かの基準に基づいて対象を分割し、区別しなければならないのである。
この様に、絶対的な位置や運動が存在しない以上、現象や対象を分析し、その背後にある法則を明らかにするためには、対象に位置と運動と関係または質、量、密度といった観念を与えなければならない。そのためには任意の物体や空間を特定し、対象を相対的なものに変換する必要がある。対象の相対的変換をする為には、任意の座標系を選択し、それを基準系としなければならないのである。この様な、基準系の中で最も一般的なものが慣性系である。座標系や基準系は、無数にあり、絶対的な基準系や座標系はない。元々、座標系や基準系は、対象を識別するための手段であり、道具に過ぎないのである。
基準系を設定することは、対象を識別するための手段であり、対象や現象の存在の絶対性を否定するのではない。寧ろ、対象や現象の存在を前提としなければ成立しないのである。絶対性とは、存在そのもののみにあって、意識の中には、相対的なものしかないのである。それ故に、座標系の選択は、空間の相対的変換を意味し、それは、空間内における物体の位置や運動を明確にする為に必要な手続きに過ぎないのである。座標系を設定したからといって対象の存在の絶対性が喪失されるわけではない。座標系を設定するというのは、ただ、対象を識別するために、対象を相対化する手続きに過ぎないのである。
現象や対象の存在まで否定したら、科学的な意味での相対的な考え方は、現象や対象によってその考え方を立証するための根拠を失うことになる。それでは、科学は、実証性を喪失し、神話や伝説のように、純粋に観念的なものとなってしまう。科学における相対的論理とは、対象の存在の絶対性を前提とし、かつ、根拠としているからこそ、その正当性を実証することが、可能なのである。つまり、科学的相対性とは、絶対性と対立する概念ではなく、対象を認識する上で、対象と自己の存在の絶対性を前提としなければ、成立しない概念なのである。また、自己と対象の絶対性を前提としないかぎり、論理的正当性を喪失する性格のものでもあるのである。
ところが、この様な対象や自己の存在は暗黙の前提であり、潜在的なものであるために、我々が、それを顕在的なものとして、認識することが出来ずに、直感的に捉えているのに過ぎないのである。そのために、科学は、絶対的なものを全て否定する事によって成立しており、絶対的なものを認める事は、非科学的だという短絡的で誤った認識が生まれるのである。つまり、存在の絶対性が潜在意識の中に埋没し、相対的な観念のみが表面に浮き上がり事によって、物事、全てを相対的なものと考えるのが、科学なのだと誤解しているのである。存在の絶対性とは、直感によってのみ、認識することができるのである。しかも、自己と対象とは、本質的に一対一の関係の上に成立するのである。対象を識別するのは、その直感的認識を前提とし、対象を相対的なものに変換する事によって成立しているのである。そして、対象を相対化する事によって対象を、一般化する事が可能となるのである。
自己存在の絶対性を自覚した時、人間は、対象を相対的に捉えることが可能となる。つまり、自己存在の絶対性を前提とすることで、自己を対象の中に投げ出していくことによって自己を客体化し、自己そのものを相対化することが可能となるである。その事によって自己を対象の中に見いだし、位置づけていくことが、可能となるのである。自己を対象の中に投げ出し、客体化することによって、自己を位置づけなければならないのは、間接的認識対象である、自己の宿命である。この様に、自己を対象化するためには、自己の絶対性を前提としなければ成立しない。その上で、自己と対象に投影された自己像との延長線上に、任意の物体や空間を選び、それとの比較によって対象は、相対化されるのである。しかし、自己の存在は絶対的なものであり、投影された自己は、潜在的前提であるため、自己と自己像は暗黙の前提となる。そのために、自己と自己像は意識されることがない。この様な潜在的な自我が、対象の一般化、即ち、普遍化に対する重大な阻害となるのである。つまり、意識されない自我によって意識界が支配され、そのために、対象界が歪められるのである。この様な潜在的な自我による歪みを是正するためには、自己の一般化、即ち、客体化が必要となるのである。
自己の存在の絶対性を自覚し、それを前提として、自己を任意の空間に投げ出して相対化し、相対化した自己を一般化することによって客体化するのである。この様に客体化された自己によって自己による偏向を修正するのである。
真実を知るためには、自己の無知を自覚しなければならない。しかし、真実を知らないからと言って自己の存在は、否定されるわけではない。寧ろ、真実を知ろうとすれば、自己の知識があやふやなものになってしまう。しかし、自分の知識があやふやであることを理解しなければ、真実を探究しようという意志は生まれない。無知な自己の存在を前提としなければ、真実を知ることは出来ないのである。
本当の海を見たければ、海の見えるところまで自分が行かなければならない。海を自分の所まで持って来てもらうことは、出来ないのである。しかし、それは、自己の存在を否定することではない。寧ろ、海の見えるところまで自己が移動したからと言って、移動する事によって移動する以前の自己と移動した後の自己とは同一なもの、即ち、自己の同一性が否定されないことが証明されるのである。
自分が見ている海の存在は、絶対的なものである。この海の絶対性を前提としない限り海は概念化できない。しかし、この様な海は、私的な特殊な海である。海を私的なものからは客観的なものに変換するする為には、この海の存在を前提にした上で、眼前の海を一定の条件によって相対化し、相対化された海を、他の対象と比較することによって海の持つ法則性、規則性、共通性を導き出し、類型化する必要がある。つまり、この様にして、類型化する事によって海を、分類し、一般化するのである。そして、一般化することによって海は、一般的な意味を持たされ、概念化されるのである。この様に自己の認識を条件付する事によって客体化すると自己の認識は相対化され、自己の認識が相対化されることによって対象も相対化されるのである。
海を見ている自己と、自分が見ている海と言う具合いに自己と対象を特定し、特定する事によって自己の海に対する認識を相対化し、相対的に変換する事によって海の一般概念を導き出すことが可能となるのである。これが自己の対象に対する認識の相対的変換である。相対的変換、対象の相対化とは個別で特殊な対象を一般化するための前提的手続きなのである。この様な手続きは、必ずしも論理的になされるわけではない。むしろ、人間は、自己の視野によって無意識に対象を相対化している場合が多い。また、自己の視野によって空間を特定している場合が多いのである。ただ、無意識であろうとなかろうと、この様な相対的変換を可能たらしめる前提は、自己存在と対象存在の絶対性なのである。
論理的に、相対的なものの見方をするためには、任意な基準を設け、その基準に従って、任意の単位を設定しなければならない。その単位によって対象を測るのである。基準や単位を設定しないと対象の測定が出来ない。対象を測定できないと対象を比較することが出来ない。対象を区分したり、条件付したりする事が出来ないため、単位や基準が設定されていないと対象を相対的なものとして捉えることは出来ないのである。つまり、相対的変換とは、単位や基準の設定を意味しているのである。
無論、この様に、単位や基準を設定し、対象を相対的変換したからといって、対象の本質が変化するわけではない。対象を相対的に変換する事によって、対象を、本質を変化させずに、測定、測量、つまり、計量化することが、可能になるのである。そして、対象を計量することが可能となることによって、現象を方程式に表すことが可能となり。また、同時にそれによって数学的に、対象を説明することも可能となるのである。そして、複数の単位を組み合わせることによって対象を立体的に捉えることが可能となり。対象に位置と運動と関係を与えることが可能となるのである。つまり、対象や現象を認識するための空間や座標を特定する事が可能になるのである。
この様な基準や単位は、任意なものであり、その設定は歴史的なものに過ぎない。単位の設定基準は根拠がないわけではないが、その根拠自体に取り立てて深い意味があるわけではない。故に、単位や基準自体には、神秘的な力とか、絶対にそれでなければならないと言った、何等かの超越的な意味といったものはなく、合理的な意味以外の意味はない。その上、単位や基準は、必ずしも一つに統一されているわけではない。故にどの基準や単位を採用するかは、合理的に考えて一番適切な単位や基準を選択するのは、あくまでも任意な問題である。つまり、単位や基準自体相対的なものなのである。そしてまた、単位や基準が、相対的でも対象の存在は、絶対的なのである。そこで問題になるのは、その尺度の精度と普及度、適用範囲だけである。
基準を設けるとは、任意の条件や前提を設定することによって次元や空間を特定することである。次元や空間を特定するためには、設定された条件や前提を互いに承認し、合意し、信頼し前提としなければならない。初期条件や初期前提を合意することによって特定の空間を共有するのである。ボールの落下現象をカメラで映した場合、地上にカメラを固定した場合は加速度運動となり、ボールにカメラの動きを合わせた場合はボールは静止して見える。つまり、初期条件や初期前提によってそこに現れてくる運動、位置、関係は変化するのである。この様に条件や前提の設定の仕方によって現象の持つ意味が変化することを相対的と言うのである。そして、この様に条件付や前提のあり方によって決定される位置や運動、関係は相対的なものであり、絶対的位置や運動関係は存在しないのである。 我々はこのような条件付や前提の設定を無意識に行い、暗黙の合意に基づいて行動している場合が多い。つまり、お互い相手が条件や前提に納得し共通の尺度に基づいて考えていることを前提として行動しているのである。同じ宗教や民族、地域の人間の行動規範はこれを空気のように当然なこととして考えている場合がある。だがこの錯覚が誤解や紛争の原因である場合が多い。それ故に、我々はお互いの意見が食い違ったり、相違したり、対立した場合相手がどの様な尺度や基準によって行動しているかを確認しなければならない。価値観や思想信条が違う場合同一の状況においてもまた同じ現象を解釈するにしても全く違った結論になってしまう場合が多い。故に、対立や問題が生じた場合、先ず確認しなければならないのは現象として現れた対立や問題のみではなく、対立や問題を引き起こした状況の条件や前提をも再確認しないと、対立や問題の本質は理解できないのである。その上で、相互の価値観や基準を尊重した上で、お互いが合わせられることと合わせられないことを明らかにして、対策を立てないと対立も問題も解決しないのである。無論、尺度が変わったからと言って対象が変化するわけではない。只、その対象の受取かたが変わるのである。相手の価値観に合わせて自分の価値観を変えたとしても自己の本質まで変化するわけではない。寧ろ相手の価値観に自分の価値観を合わせられなければ、問題の解決がつかない場合が多い。お互いの価値観を尊重した上で制度的に調整していこうというのが民主主義の原則なのである。 基準を設定し次元や空間を特定することに因って対象に位置と運動を与えることが出来る。そして、位置と運動を調べることによって対象間の関係を解明し特定することが出来る。その関係を一般化し、或は記号化し、論理化し、方程式化し、命題化したものを法則という。相対的な空間や基準に基づいて導き出される法則は当然相対的なものである。
基準は、あくまでも、任意に設定されるものである。任意であるからには、原則的には各人の好みに合わせて勝手に決めてもかまわないが、只それでは対象の記述が多様となり複雑となり、それだけ大勢の人の理解や合意が取り難くなる。そこで基準系は法則が最も簡単に記述できて、しかももっとも標準的でかつ一般に普及しているものにするのが合理的である。
基準系が任意であり相対的なものであると言うことは基準系もそこから導き出される法則も仮定、仮説であることを意味する。仮定である以上、実験や観察、計測といった経験的なものによって実証されなければならない。一メートルという単位が自然に決っているのではない。人間が合意によって取り決めたのである。後は、それを信じて採用するか否かの問題である。任意であるこの様な基準系は故に設定しようとすれば無数に設定できるのである。
基準系を設定する際に、注意しなければならないのは、系を安定させることである。つまり、基準系を一様にすることである。その基準系内においては、基準系の単位を、一定に保たなければ、系は、安定しない。即ち、基準系内の目盛りを一定の基準で均等均質に保つことである。ただ、この基準内の一様性も相対的なものであり、絶対的な基準というものは存在しない。基準系の一様性とは基準系の規則を、一定にすることを意味しているのである。基準系を連続的なものと見なすか、不連続なものと見なすかは、その系を設定するときの前提ないし条件によって決定されるのである。つまり、人間の観念の所産は、その観念を生み出した条件や前提によって変化する相対的なものなのである。
相対的な思考法の根本は、原点を何処に置くか、つまり、何処に自己の視点の中心を置くかである。人間の思考法は、元来、思惟の中心、認識の原点を自己に置いていた。そのために、対象や基準を自己の内部に置き自己との係わりあいの範囲で捉える傾向が濃厚にあった。しかし、それでは対象に対する認識が主観の支配下に入り、その結果甚だ一面的なものとなり自己中心的なものとなる。そこで認識の原点を自己外、つまり他に求める事によって、対象認識を客観的なものとし、そして多面化することによって自己中心的な発想から脱却しようとしたのである。つまり、相対論とは、自己を対象に投げ出していくことによって成立したのである。自己の内的な観念の中心を外的な対象に置き換えることによって自己の観念を客観的なものに変換しそれと自己の内的観念の変化を比較すると同時に他の対象に結び付け位置付ていくこれが相対的な観念の前提である。
認識の中心、原点を何処に置くか、それによって対象の持つ意味は大きく違ってくる。銀河系からみれば、地球はただの質点に過ぎないが大地に立つと偉大な存在である。しかし、それは視点の問題であって地球が大きくなったり小さくなったりするのではない。空間の一様性にしたところで時間の一様性にしても絶対的なものだとは言い切れない。ただそう見なすことによってしか科学的な理念は立論できないだけなのである。そして、それが実験や観察、計測によって重大な支障が生じないと認められている限りに置いて有効なのに過ぎない。それから考えても科学万能を唱える者は余程科学を知らないものである。それは加持祈祷の類を信仰と錯覚しているのと同様である。科学は相対的な基準や仮説と言った極めて脆弱な基盤の上に立脚しているのである。それ故に科学は実験や観察といった実証性を重んじざるを得ないのである。科学の持つこうした脆弱性を自覚していないかぎり科学的認識の本質を理解することは出来ないのである。
相対論は主に物体の運動を調べる目的で発展してきた。基準系を定めることによって対象に位置と、運動を持たせることが可能となる。人間は通常自己の内的世界や自己の知覚している世界を基準としているため基準系をいちいち意識することがあまりない。そのために運動や位置に基準が必要だということに気が付いていない場合が多い。自己外に基準を設定したときはじめて基準が必要であることに気が付くのである。それは日本人が日本に住んでいる限り外国人の価値観や言葉、風俗を知らなくても困らないが、外国で生活する場合自己の価値観を明らかにすると同時に相手の価値観を理解する必要性に気が付くのと同様である。また、自己の基準系を一様にするためには、自己外に、即ち、直接的認識対象に基準系を一度写像した上で自己の内的基準との比較検証によって調節、調整しなければならない。内的な基準と外的な基準が矛盾していると人間は内的世界と外的世界は分裂してしまう。故に、人間は、内的基準と外的基準を一致させる必要があり、それによって内的外的世界を同時に変革していこうとする要求が生じる。その結果として外的な世界への強い働きかけと内的への反省が同時に発生し、その葛藤を通じて世界は、成長発展するのである。この様な必要性によって外的な基準を、より正当的で、整合的なものにしていかなければ、世界の統一性が喪失してしまう。世界の統一性が失われてしまうと争いや紛争、戦争が絶えない。そのために世界を一つの価値観で統一していこうとする考え方常に潜在的に存在するのである。しかし、それが観念的世界、つまり、内的な世界に依拠しいるかぎり人間の主観から逃れることは出来ない。主観的な考え方に左右されているかぎり外的な世界の価値観の総てを包括し一致させることは不可能である。なぜならば外的な世界と内的世界は互いに独立したものだからである。故に、内的な世界と外的な世界を結び付けることの出来る手法が要求されたのである。この様な要請に基づき世界の体系を統一していく過程で価値観や基準を外的なものに置き換えること即ち科学は現象を媒介にする手法を民主主義は法と制度を基盤にする手法を採用したのである。
人間の価値基準に絶対的なもの普遍的なものはない。価値基準そのものが相対的なものであり、また一つの価値基準でもその前提や条件が変化すればそこから導き出された結果も変化する。故に、人間の価値基準は相対的なものである。人間の置かれいる状況や環境の変化によって価値観も変化する。特に内的価値基準は潜在的で自覚され難い上に最初から論理的体系的なものではない。寧ろ外的な論理体系の方が解り易く受け入れ易いものである。それ故に自分の行動を外的な論理基準や法に照らして人間は自己の価値観を形成させるのである。そして自己は主体的存在であり、間接認識対象であるため常に内的価値体系主観の支配下にありながらそれを正確に知ることが難しい。そのために人間の心理を形成し感性を制御する基礎的な内的価値基準が潜在的に機能し論理的に行動を制御する行動規範を形成する外的価値基準は顕在的に働くことになる。つまり、内的価値基準は感情を制御し、外的な価値基準は理性を制御するものである。そして、内的価値基準は基本的に自己保存的なものであり、外的な価値基準は環境的、状況的、社会的なものである。内的な価値基準と外的な価値基準の対立は理性と感情の対立という形で現れ内面の葛藤という形で行動を規制する。しかも、内的価値基準は潜在的なものであるため内的な葛藤ほど解り難いものはない。この様な内的価値基準と外的な価値基準の葛藤によって価値基準の相対性からくる不合理な部分を修正し価値体系はより高度な体系に発展しているのである。しかし、この対立が高じると自己のアィデンティティ、同一性、統一性が失われ人格破綻を引き起こすことになる。先ず我々は人間の価値基準は相対的なものであり人間の置かれている環境に左右されているものであることを自覚し、内的な価値基準と外的な価値基準とが矛盾しないような環境を作り上げるように努力すべきなのである。
対象の位置が定まれば対象を計測したり分類することが可能となる。運動を調べることによって対象の変化の様子を観測することが出来る。位置と運動を観察することによって対象に働く力とその方向を割り出し個々の対象間に作用する法則や働く関係を解析することが可能となる。時間は変化の単位である。故に運動と位置、関係を知ることによって時間を計ることも可能となる。相対性原理は、この様に位置、運動、関係を種々の実験や、観察、測定を繰り返してそれを記録し、そこに一定の法則性を見いだし、その法則を実証していく事によって発展してきたのである。
物体の運動を調べる目的で発展してきたそう対論は、やがて、あらゆる分野で適用されることになる。相対的な対象の捉え方が確立されるにいたり、科学はその飛躍的発展の基盤が与えられたのである。近代科学は相対的発想にその端を発していると言っても過言ではない。
他人の振り見て我が振り直せ。人間自分だけではどう仕様もないことがある。自分一人ではどうしても叶わないことがある。どうしても出来ないことがある。どうしても解らないことがある。だが人間は、それを認めたがらない。特に、それが他人より自分が劣っている場合はなおさらである。自分の欠点を隠すためかえって驕慢になったり、権力や権威の力を借りようとする。自分の長所を誇示してごまかしたり、相手を誹謗して逃げようとする。また、自分の過ちを認めることが出来ずに卑屈になったり人を逆恨みしたりする。逆に他人に対して寛容になれるのに、自分に対して寛容になれずにいたりする。自分を大切にしているつもりで知らず知らずに破滅への道を歩いている場合が多い。本当は自分に自信が持てないからである。本当の自分の力や気持ちが解らないからである。他人の思惑や偏見を恐れるのは自分の信念が所在が解らないからである。隣の人は自分の事をどう思っているのだろう。あの人に嫌われたくない。そんな思いに心が塞がっているのである。それは自己が間接的認識対象であることに起因している。それが人間を必要以上に消極的にしてしまう。そういった人間が自分を客観的に反省をするためには自己を相対化しなければならない。自分を正しく把握していないと人の噂に振り回されたり、人の思惑に阿ったり、遜ったりする。その上つい心にない事を言ったりしたりもしてしまう。そして、人の噂を怖さを知らぬものが言論界を支配すると言論は暴力的となる。自分を悟らない者はそう言った暴力に負けて自己を喪失させてしまう。ペンは剣よりも強しという言葉があるが、それは裏返してみるとペンが剣より暴力的で、権力的な凶器に変質することも意味していることを忘れてはならない。噂には真実などない。あるのは好奇心だけである。言論をなりわいとしている者が、言論の自由の美名の下に、無責任に、好奇心のおもむくまま好き放題に、事実無根の事を書き散らせば、それは、如何なる非道な暴君よりも危険な暴君となるであろう。言論の自由とはそんな薄汚いものではない。言論が、人間の主体的な意志に支配されているかぎり、本来言論ほど相対的で事実的裏付けを必要としているものはないのである。多くの尊い血と涙によってかち取られた言論の自由が、薄汚いこそ泥のような者に、危機に陥るのは悲しい事である。
人間は、自分の限界に気が付き、それを認めることによってはじめて自己の限界を越えることが出来る。自己の限界を越えることによって自分自身にも寛容になれるのである。自分がしてはならない事、出来ない事を自知自覚することによって人間は開放され自由になれるのである。
相対的考え方とは自己の限界を超越するために自己の限界を知り、対象を計る尺度を自己の内部に置くだけではなく、自己の外部にも置きその両方の尺度を照らし合わせて、対象を分析していこうという考え方である。故に、自己の外的な基準は、自己に対して、基準以上の重大な意味を持っているわけではない。外的尺度そのものに特別の意味を見いだしたり、神聖視したりすると、外的尺度は、その本来の意味を失い、尺度そのものが機能しなくなってしまうのである。特に、外的な尺度を内面の倫理観と同一視すると尺度が主観的なものとなり、外的な尺度を設定した意味がなくなってしまうのである。
よく我々は、経済的行動や政治的判断を事の善悪、即ち、個人的倫理観、内的な価値観のみに従って判断しようとするが、経済的行動や政治的判断は、その時の状況や、条件、前提、つまり、外的な環境によって大きく異なるものである。故に、その前提や状況、条件を確認しないで単純に判断することは許されないし、また、逆にその時の政治的状況や経済的条件によって、正しいと判断された事でも、一個の人間としては、許されない事もある事を忘れてはならない。政治的指導者や経済的指導者は、絶えずその事を自戒し、社会的責任を自覚し、かつ、自己の責任を明らかにしていかなければならないのである。また、指導者とは、常に自己の内面の価値観と外面の価値観の葛藤によって自己の同一性が危機的な状況にある。それ故に、学習や訓練、反省を通じて常に自己を磨くと同時に、自己の精神を新鮮な状態に維持するよう努めなければならないのである。
人は、自分の限界に気が付いても、なかなかそれを認めようとはしない。理解できないことにぶつかっても、何だかんだ理屈をつけてはそれをごまかそうとする。また自分より優れた人物に出会っても、素直にそれを認めようとはしないばかりか、かえってその人の粗を捜し、中傷をして葬りさろうとすらするものである。人間、誰しも過ちや失敗、欠点はあるものである。故に、過ちや欠点、失敗が悪いのではなく、その過ちや欠点、失敗を認めようとせずそれを悔い改めようとしないことが悪いのである。多くの人は、その自分の欠点や過ちを何とか誤魔化して言い逃れをすることばかりを考えている。しかし、過ちや欠点、失敗を認めない限り、それを改善することは出来ず、当人ばかりか周囲の人間も苦しめる結果に終るのである。自己を冷静に見つめ、自己を客観的に捉えることができないかぎり、人は、自分を正しく知ることはできない。理解できないことや、経験していない事を、知ったかぶりをして、解ったつもり経験した振りをして、お茶を濁そうとするから、独断や偏見を生み出すのである。こうした独断や偏見を、防ぐために相対的な物の見方は役立つのである。
人間は本質的に客観的にはなれないのである。なぜならば、自己は、自己以外の存在になれないからである。しかし、自己を客観的に分析することができないかわりに、相対的な物の見方を身に付けることは出来る。
長さや距離を測る場合、まず、長さや距離に対する内的な意識があって、そのうえで、長さの単位を任意の対象に求めるのである。そして、その単位と比較して、測定しようとする対象の長さを、はじめて特定する事が可能となるのである。また、この様な単位が、社会ないし集団によって公認されれば、一つの基準系が設定される。この様にして、基準系が特定されると対象や現象を複数の人間によって考察することが可能となるのである。内的な長さや距離は、それだけでは実体のないものである。また、自己の外界に何の基準もない状態では、対象の長さや距離を測定することはできない。長さや距離を特定するためには、第一に、自己の内的な基準を外的な対象に投影して一定の単位を定める。第二に、その単位に基づいて、一つの基準系を選択する。第三にその基準系と、対象とを比較して対象の距離や長さを特定する。この様に内的な意識、外的な対象、そして、それを結び付ける基準系の三つの要素が必要となるのである。
例えば、自分に必要な距離を測定するのに、最初は、歩幅のようなものを利用していた。しかし、歩幅は、個人差があり、しかも、一定したものではない。即ち、等しいものではない。ある基準が単位として公認されるためには、その基準は一般化されたものでなければならない。そのためには、単位は、常に、等しい一定の距離、誰にも等しい長さ、いつでも等しく設定できる距離でなければならないという条件を満たしていなければならないのである。つまり、単位とはこの等しいと言う概念が基になければ、定められないのである。歩幅は、この条件を満たしていない。故に、歩幅は、私的な尺度であり、そのままでは、単位として成立しないのである。単位として、成立させるためには、単位となる対象は、何らかの条件に対して、常に、等しいというものでなければならないのである。死かも、その事を一般に公認されていなければならないのである。
尺度は、最初この様に私的で不確かなものであった。ただ、自分が測定したいと思う距離を測定する尺度は、私的ではあるが、まず歩幅という外的な対象に、置き換えなければ成立しないのである。しかし、この様な、私的な尺度にとらわれているかぎり、その世界は、あくまでも私的なものであり、自己の認識は、自己の限界を越えることは出来ない。そこで、等しいと言う概念を次の段階で導入する必要があるのである。等しいと言う概念が導入されてはじめて自己の限界を超越できるのである。単位を設定する場合、なにに対して等しいのかによって対象を測る基準も違ってくるのである。この様に、選択された基準系によって対象に対する認識も変化するのである。そして、それが相対的発想の根本でもある。つまり、特殊で私的な尺度を均等で一般的な尺度に置き換えるのである。そして、その事によって対象に対する認識が多様なものに変化する、この様に対象を任意の基準によって変換することを相対化というのである。
自分の宿命の事を考えても仕方がない。自分の肉体的な欠陥や性格的な欠点を呪ってみても良くはならない。肉体の限界は、自分の身体を鍛錬することによって、精神的な脆さは、修養を積むことによってしか克服することは出来ない。病気を恐れてノイローゼになったり、自分の宿命を呪って世をはかなんだりするのは愚かなことである。人の思惑に捕らわれて自分を見失ってしまうのは本末転倒である。神が人間に与えてくれたものには限りがあるのである。それを先ず自覚しなければならない。自分の事を知りたければ自分を注意深く観察をすれば善い。自分の肉体上の問題は肉体が、精神的な問題は心が教えてくれる。その上で自己の限界を知り自己を鍛えることによってそれを克服していくのである。
どうにもならないことでくよくよと思い煩うのは未練である。自己の限界を知り、自己の可能な範囲内でそれに取り組むことによってしか、それは、改善されないのである。それ以外の問題は自己の外にある。辛いことや悲しいこと苦しいことは自己の内心の問題である。自己の内心の問題は自分で処理することである。内心の問題を自分で処理するといってもただ我慢すれば善いと言うのではない。しかし、かといって自分の信念や覚悟も定まらずに、ただ、人を責めても受け入れられるものではない。内心の問題をどう対象に投げかけ、外の世界に働きかけていくかが、肝心なのである。特に、自己は、間接的認識対象であるから、人の歓びを歓びとし、哀しみを哀しみとすることによって相手と一体となることが出来るのである。即ち、共感共鳴することによって相手を知り、自己の内心を知る事が可能なのである。ただ、自分だけが楽しむのは、自慰のようなものであり、虚しいだけである。それでは、真の自分の歓びを知る事も出来はしない。
要は、自分を知る事であり、自分を慰めてばかりいても何もならないのである。自分の好悪を知り、自分の得手不得手を自覚し、自分の力ではどうし様もないことを、率直に認めることによって、本当の自身を心に植え付けることである。その様な自身に基づいて、自己の内心の価値観を絶対視することなく、自己外の基準に照らし合わせて、自己の内面の世界を拡大していこうとすることが、相対的発想の基本なのである。相対的発想とは、自己外に基準を設けることによって自己内の基準と自己外の基準との葛藤を通じて自己が主体的存在、間接的認識対象であることの限界を克服しようとする意図から生じた発想なのである。それ故に、相対的発想は、自我を捨て自己の肉体的、精神的感応力を信じて、外的対象に、自己の持つ全てを、投げ出し、その事を通じて自己を外的対象の中に見い出していこうとする姿勢がなければ、成立しないのである。
尺度は、相対的なものである。絶対的な尺度はない。絶対的なのは測ろうとしている自己であり、測られようとしている対象です。また、尺度自体は無意味なものである。尺度は自己の意識と対象とを照合することによって意味を持つ。故に、尺度を対象に合わせて変更したり、また、自分の都合で尺度を変化させてしまったら、尺度は、本当に無意味な存在になってしまうのである。常識もある種の基準に違いない。故に、常識も相対的なものであり、絶対的常識なんてない。常識とは一般論に過ぎない。人はとかく自分の常識を絶対的なものと思い込みたがるものである。しかし、常識や価値観、思想信条に絶対的なものなどないのである。それらは総て相対的なものである。故に自分の常識だけで全てを推し量り決めつけてしまうのは危険である。個人の判断に絶対的な信を置かず、社会全体の意見を照合し、一定の法を定めて、それを社会の基準としたのが、民主主義である。故に、民主主義社会は、極めて相対的、かつ、科学的な社会体制なのである。そして、法はそれを定めた社会における公に認められた基本的な価値基準なのである。つまり、民主主義社会においては民主主義的、科学的な手続きを経て定められた法によって社会は制度的に規定され、かつ、個人の行動は制度的に測られ決定されていくのが原則なのである。そして、その様な法を定める事によって社会は個人の限界、主観を克服しより客観的で公正なものとなると言うことを、一つの原理として合意した社会こそ、民主主義社会だとも言えるのである。民主主義社会においては、当然この様に、定められた法も相対的なものである。
水平線を昇る旭を見ると、私は美しいと感じる。そして、その美しさの背後に得体の知れない畏れのようなものを感じる。いい音楽を聴くと心が清冽となり厳かな気持ちになる。その畏れや厳かな気持ちは絶対的なものであり、その絶対的なものを感じさせるなにものかに、手を合わせようとする心が、祭りを生み、信仰心をもたらすのである。私はそうした素朴な心が大切なのだと思う。その畏れや厳かな気持ちがなくなると人間は象(かたち)に拘泥し、ものの本質が見えなくなる。自分のきらびやかさだけを追い求め、外見的な美のみに目を奪われることになる。そういった気持ちが失われてしまうと、物事の外見の変化のみに目がいって、その背後にある法則や真実を見ようとしなくなる。挙げ句に、各々が自分勝手な理屈を付けて解釈をしようとする事になるのである。
我々が感動するのは、象(かたち)にではなく、大自然の持つおおらかさ、広やかさに対してであり、我々が畏敬するのは、大自然や宇宙の意味にではなく、その意味を生み出したものに対してである。そういったなにものかに対する信仰心がないかぎり、つまり、絶対なるものに対する暗黙の前提がないかぎり、相対的な理念は意味を持たないのである。
なぜ、自分が生まれたのか、その意味に付いて考える必要があるであろうか。意味があろうと、なかろうと、少なくとも、我々は、生きているのである。そしてこれほど確かなことはないのである。自己の存在を疑る者は、最後には、自己の存在を否定しようとすらする。確かに、自殺とは、自己の存在を確かめるための有効な手段でもある。しかし、それは存在するものが、存在することを否定する、自家撞着的なものである。自己の存在を疑る者が、最後に行き着く帰結は、自殺しかないのかもしれない。自分の人生に思い悩み、自己の存在の本質にまで迫って、その苦しみを克服していく為には、生きていることに対する強い確信がなければならない。さもなくば困難な局面にぶつかった時、または、強い挫折感に襲われた時、自分の人生に絶望し、無気力で惰性的な生き方になるか、自暴自棄になって破滅的な人生を歩むことになるのである。
失敗や過ちのない人生なんてない。絶対的な生き方なんてない。ただ我々が現実に生き営んできたことは絶対なのである。絶対的なのは生々しい現実であり生活実感である。完成された人間なんていない。欠点や劣等感のない人間なんていない。先入観、偏見や怨恨、憎悪、敵意がない人間なんていない。人は、誰にも迷惑を掛けずに、また、傷つけたりもせずに生きていくことなど出来やしない。公正無私な判断を常に下せる人間はいないのである。醜いところのない人間なんていない。第一、その人を美しいとか、醜いとか、どう受け止めるかは、受取手側の問題である。相手の主観に委ねられている以上どう仕様もないことなのである。自分の思いどうりにならない。善かれと思ってやったことが裏目に出る。壁にぶつかって越えられない。いつまでも若くありたいと思っても老いさらばえていく。死にたくないと思っても死は確実に近付いてくる。これがどう仕様もない現実なのである。この現実の上にいろいろな人の人生観を照らし合わせ、失敗や過ちを反省して正しい生き方を模索していくそれが真実の人生なのである。善があるから悪があり、強者があるから弱者がある。成功があるから失敗があり、美があるから醜があるのである。だが、その根本に、善や悪があるのではなく、善や悪は、我々の意識の中にこそあるのである。この様な考え方が相対的な考え方なのである。
人間、刀を造れば試し切りがしたくなるものである。本当に人間が殺せるかを知りたくなるものである。人間が開発した兵器で実際に使用されたことのない兵器はないと言われている。しかし、包丁だって使い方によっては武器となる。そのうえ、人間には生命に対する畏敬心がある。生命に対する畏敬心があるから自分を抑制し人を殺さないのである。その様に人間の営みは、技術によって支えられているのではなく。そうした心の清冽さに支えられているのである。
合理主義は、実証性ばかりを重んじ、倫理観や信仰心を軽んじていると、考えている人間がいる。しかし、それは、そう思っている人の人間不信の為せる業であり、合理的精神の為せる業ではない。近代的な合理主義が、実証性のみを重んじているとしたら合理的精神は、どの様な人体実験をも正当化するであろう。我々は、信じているからこそ疑ることが出来るのであり、肯定しているからこそ否定する事ができるのである。信じる心、肯定する気持ちが最初からないのに、無闇に疑りだしたり、また、否定し続けたならば、空虚で不毛な結果しか得られないであろう。合理的な精神は、同時、一方において現実を直視し、肯定していこうとする現実主義的な精神によって裏打ちされているのである。そして、相対的な考えも、また、強い現実主義によって裏打ちされていなければ、成立しないのである。
夫婦や友達は信頼しあっているから喧嘩も出来る。信じあっているからこそ、友の忠告に耳を傾ける事ができるであり、時には、激しく喧嘩をしても許しあうことができるのである。信頼しあっていない者どうしが喧嘩をすれば、後に残るのは不毛な争いと憎悪だけである。信頼関係も出来ないうちから、疑ってかかっていたら、友情なんて生まれることはない。相手に対する強い肯定や信頼があってはじめて相手を疑る事ができるのである。相手を認めない人間にとって相手を疑るとか信じるとかいう事自体、何の意味も持たないのである。
人間は、生きている。それを認め肯定するから、相手の立場を尊重し、自分の生き方に付いて冷静に考えることが出来るのである。生きとし生きるものを大切にし、命を粗末にしてはならないという気持ちが起こるのである。人間は、死ぬ。死という現実を正面においてそれを見据えるから、死について厳粛な気持ちが起き、また、死にたいして考える余裕が生じるのである。そして、それによって死への恐怖を克服していくことが可能となるのである。人間の死を認めるためには、生きていることを、前提としなければならない。その存在を否定するためには、その存在を先ず肯定しなければならない。この様な根本的な前提は、常に暗黙、かつ、潜在的なものである場合が多い。そのために根本的な信頼や肯定は、否定の蔭に隠れ、表には、否定的なものしか、現れないのである。近代科学は、ものがなぜ存在するのかといった存在そのものを最初から否定したり、疑ったりせずに、それは、暗黙的な前提とし、その前提の上に相対的な認識によって仮定や仮説を立てたのである。その事によって否定的な要素のみが、強調される傾向があり、科学的な物の見方とは、全てを疑ることだといった誤解が生じるのである。それは、相対的な物の見方の前提となる絶対性への肯定が見落とされているのである。つまり、科学は、むしろ、現実の絶対性を前提として打ち立てられているのである。その結果として、存在の本質に対する疑念も根拠を持つことが可能となるのである。
相対的な考え方とは、ある特定の現象を取り出し、それが条件や前提を変えることによって現れてくる象(かたち)が、どの様に変化するかを、観察する過程で必然的に生じたのである。そのためには取り出した現象の存在を確信することが前提となる。落下現象のように、誰でもが確認しうる、また、いつでも、何処でも再現できる現象ならば、比較的この様に特定の現象を取り出して、その現象の存在をを立証することは難しくない。そのうえで、その現象の背後にある法則を実証するのである。この様にして立証された法則が、今日の科学の基礎となっているのである。取り出された現象を条件や前提を変えることによっていろいろな角度から解析し、検証していこうとする考え方が相対的な考えなのである。現象の存在そのものを最初から疑っていたら、この様な考え方は成立しない。
相対的な考え方とは、変化の背後にある一定の法則を見いだすことに、その本質がある。それは、変化を絶対視する考え方とはあい反する。変化を前提としその変化を起こさせている力や原因を掴む考え方である。人間は象(かたち)を通してしか、自己を表現したり、対象を認識することは出来ない。しかし、それは哀しい事であろうか。違う。哀しむべき事は、象に捕らわれ、こだわり、象を絶対視することである。それでは、その背後に潜む真実を見失ってしまう。
医学を究明するのは、人命を救うためである。有名になるためにでも金儲けの為でもない。医学の探究の為に人命を軽視するのは本末転倒である。この様な転倒が起こるのは、医学の背後にある医学の本質を、見失っているからである。医学が、非人間的なものとなり、唯物的な考え方で、人間を物質的な側面からだけでしか、即ち、人間の肉体だけを研究の対象としたならば、人間は、重大な過ちを犯すことになるであろう。また、その様な考え方は決して科学的な考え方ではない。科学的、相対的な考え方は常にその根底に畏敬心を抱いているものなのである。科学者が、その畏敬心を失えば、科学は、人類を破滅に導くであろう。
美しいものや正しいものはそれ以上飾りたてることはない、それ自体が美しく正しいのである。キリストや釈迦の生き方は、それ自体が真の信仰のあり方を示しているのであるからそれ以上脚色する必要はない。その生き方そのものを美しいと感じ、畏れを感じるのである。本を読む前に、その本に対する批判をすべきではない。料理を食べる前に、その味を批評すべきではない。ただ美しさ、正しさを率直に認めたならばそこに現れた象(かたち)その正しさや美について冷静に語ることが出来るのである。その人に接したり、その人の人生や考え方を正しく知った時はじめてその人の生き方について批判したり、生々しく語ることが出来るのである。そして、生きること人生を畏敬することが出来るのである。たとえ、どんな人でもその人の生き方が過ちや失敗に満ち不完全なものであったとしても、その生き方を通して神や天の意志を感じることが出来るのである。キリストや釈迦の事を語る時私はいつも厳粛な気持ちになる。
相対的なものの考え方とは、ある実体が特定の条件下、状況下において、どう象を変化させていくかを、観察することによって、その現象の背後にある法則を発見していくことである。故に、ある実体に、特定の条件や前提を与え、特定の状況や空間を想定すれば、その対象の変化を予知することも可能である。科学技術の根底を支えているのが、この様な、予知、予測能力である。
仮に、キリストや釈迦の心を持った人間を現代の状況下に設定したらどうであろうか。壮麗な教会や寺院を建て、その教会や寺院の奥の院に身を潜め、民衆からかけ離れた生活をするであろうか。教義教典をおし戴いて人間らしい生活を忘れるであろうか。偶像を崇拝して、物の本質を見失うであろうか。他の宗教を邪教と罵り、排斥するであろうか。神仏や護符を利用して金を儲けようとするであろうか。権力や権威と結託して、人民の支配や他民族の侵略の片棒を担ぐであろうか。キリストや釈迦は憎しみや争いを教えたであろうか。キリストや釈迦は万民への愛を説いた。それは至上の愛、無条件の愛である。今日殉教を覚悟して銃口の前に立ち戦争の愚かしさを説き平和の尊さを説いている聖職者がどれほどいよう。その様な聖者こそキリストや釈迦の子供達である。自分のみの解脱を願い修行をする僧侶は、釈迦がなぜ苦行をやめ説法を始め行脚の旅に出たのかを考えたことがあるであろうか。キリストや釈迦の哀しみや苦しみは終ったのであろうか。キリストや釈迦の名を使って金を儲ける者がいたり、他国を攻めている国がある。キリストの傷は癒されたのでしょうか。一体誰がキリストを十字架から降ろすのであろうか。本当の信仰を現代に再現すると言うことは、キリストや釈迦を絶対視するのではなく、釈迦やキリストの心を現代に復活することではないだろうか。そして、それこそ科学なのである。
有限と無限、確定と不確定、連続と不連続、完全と不完全、全体と部分。この様に一見対立して見える概念も相対的なものである。何を基準にして考えるかによって一つの対象や現象も有限になったり無限になったり、また確実なもの不確実なものという具合いに変化する。
人間はいつか死ぬのだと考えれば死は確実であろう。その事に疑問を持っているものはいまい。しかし、考えてみれば死んだ経験のない者は死んではいないのである。つまり、生きている者に死を経験した者はいない。死を経験した者は生きた者に死後について経験に基づいて伝えることは出来ない。出来るとしたら想像した事に基づくいがいにないのである。ならば自分が確実に死ぬと言うことを誰が証明できるのであろうか。そうなると死と言う現象も不確実なものになってしまう。寧ろ確実なのは生きている人は、誰も死んでいないということである。
人間は、一人の人間としてみれば全体であり、社会の一員としてみれば社会の部分にすぎないのである。一己の人間として見た時、不完全な人間なんていない。しかし、俺は完全無欠だなどと言えば思い上がるなと言われるに違いない。確かに理想的な人間を完全な人間と言うのならば完全な人間もいないであろう。多くの人が絶対的なものはないと言う。そして、絶対的なものを否定することが相対的で科学的なものの見方だと言うのである。ならば絶対的なことは絶対にないかと考えれば矛盾してしまう。神を信じるものにとっては、それは、絶対的存在であろう。しかし、神を信じないものにとってそれは馬鹿げた迷信に過ぎない。数は連続していると考えている人もいれば不連続なものだと考えている人もいる。時間も同様に連続したものと考える人もいれば不連続に考える人もいる。連続しているものとして見るか、不連続なものと見るかは、何を基準にしているのか、どの様な考え方を前提としているのかによって違ってくる。有限であるか無限であるか例をあげて説明するのは難しい。つまり、現代の尺度では計りようのないものもある。また、数のように計り知れないものもある。取りよう一つで対象は連続して見えたり、不連続なものに見えたりする。また、完全なものになったり、不完全なものになったりもするのである。個々の概念も文脈や状況によってその意味や定義を変えていくのである。故にその様な概念について理解しようと思ったならばその前提や条件を確認しなければならない。故に、科学的な論理手法というものは公理、定理、定義や論理的証明、命題、初期前提、設定条件が重要となるのである。
科学は、誤解されている。自分達は、科学的思想に基づいているとか、科学的な思考をしていると考えている人間達が、実際は、最も非科学的な考え方をしている場合が多いのである。科学とは、決して信仰を否定したり、万能を唱えるものではない。そして、その様な誤解の原因が実は相対的という言葉が、正確に伝わっていないことに原因がある。相対的とは、絶対を否定するものではなく、寧ろ、前提としていることを忘れれてはならない。確かに科学で言う法則は、相対的なものであり、仮定的なものである。しかし、その背後にある実体は絶対的なものである。背後の存在が絶対的であることを前提とするから相対的な法則が導き出せるのである。科学者ならば法則がどの様にして導き出されどの様な性格を持っているのか正しく理解していなければならない。元々法則は絶対的なものではない、相対的なものである。即ち科学は、相対的な法則を前提として成立している。しかし、科学がその根拠としている法則が絶対的なものでないとしても、だからと言って科学が絶対的なものが存在しないと結論づけるのは早計である。そして、絶対的なものを否定したところに相対論があると思い込むのは短絡的な錯覚である。
絶対的なものそれは、正に目の前に存在しているのである。その存在するものを肯定することによって相対的な認識が生まれ、また科学が生まれるのである。科学は、自然の神秘に対する素直な憧憬によって生まれるのである。現代人は、自然の神秘に対する憧憬を忘れ、自分の都合のいいように、自然観を歪めようとしている。しかし、自然は人間の自然観によって左右されるものではないのである。この様な人間の驕慢は必ず自らの身に返ってくるであろう。なぜならば人間も自然界の一員に過ぎないのであるからである。科学者は自然のもつ偉大な力を正しく認識しなければならない。そして、自然に対する畏敬心を持たなければならない。自然に対する恐れを失った時、人類は、自然から孤立してしまう。人類は自然から離れては生存することは出来ない。それ故に、自然から孤立することは人類の滅亡を意味するのである。
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