Welcome to

著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章第3節  空間

 一つの原点を中心にして複数の次元が交差することによって生じる次元を空間という。また、原点を共有して交わる複数の直線は一つの空間を特定できる。この様な直線を座標軸と言い、そこに形成される空間を座標系といい座標軸、または座標系の中の点を座標という。座標軸は任意に設定されるものであるから相対的なものであり、絶対的なものではない。この様な座標軸によって特定される座標系は相対的なものである。その座標軸に一定の基準、規則を定めて均等な単位を決め目盛りを設けることによって対象の位置を特定する事が可能となり、対象の位置を特定することによってはじめて対象の運動の法則を解明することが可能となるのである。特定の座標系を設定されていない空間を原空間という。原空間は絶対的なものである。特定の対象の位置は特定された対象以外の対象との距離によって特定されるのであるから座標系が特定されていない絶対的な原空間内においては対象の位置をそのままでは特定することは出来ない。また位置が特定されないかぎり運動の法則を解明することは不可能である。つまり対象の位置を特定し運動を解明する為には座標系を設定しなければならないのである。つまり、座標系の設定は空間の相対的変換操作でありこの様な手順によってまた相対的な座標によって特定される対象の位置は当然相対的なものであり絶対的な位置と言うものは存在しない。故に物体の位置を特定し運動を解析するためには特定の基準系を設定しなければならない。つまり座標を設定しないかぎり対象の位置を特定することは出来ないのである。また、座標が普遍性を持つためには設定された空間が一様で等方でなければならない。しかし任意に設定された基準系は空間は一様でなくまた等方でもない。ただし一定の条件、基準、規則を設ける事によって一意的に一様で等方な空間を設定することが可能なことは経験的に解っている。この様な空間が一様で等方な基準系を慣性系という。一般に言われている三次元空間とは原点を中心に垂直に交わる三本の座標軸が構成する空間を指して言うのである。そして、この三次元空間に時間軸を加えたものを時空間、もしくは、四次元空間という。ただ空間という場合この三次元空間か時空間を指している事が多い。
 今日科学が進歩し物の考え方が多面的、多角的になるに従って空間に対する考え方もより多次元的なものになってきている。時代の変化にともなって空間に対するイメージも年々変わってきているのである。今日のように物事に対する考え方が多方面にわたって複合的かつ複雑になってくると我々は時空間的な空間観から開放されなければ問題の本質を理解できない。空間とはもっと多義的な意味で用いられるべきなのである。
 元々空間論は物体の運動を測定するために考えられ発展してきたものである。座標軸を設定することによって運動を計数化し、計数化することによって運動の法則を方程式化するのに成功したのである。この様な力学的な手法は物体の運動のみにとどまらず時代とともに拡大されて各種の変化を空間的に捉えていくことによって変化を関数化する形で更に発展してきたのである。つまり目に見える変化のみではなく目に見えないものを可視的なものに変換していくことによって例えば温度といった不可視な単位を座標的に捉えて可視的なものに変換することによって温度変化と言った不可視な変化をより数学的な視座で処理することの可能としその事によって物理学的な研究分野をより拡大することが試みられてきたのである。そのために従来の空間論は多分に映像的、、幾何学的、図形的またグラフ的な要素を含んでいるものであった。しかし、取り扱っている問題がより多義的また多次元的に発展してきた今日においては視覚的に捉えられるような空間論によって対象を一意的に捉えることが困難になりつつある。そこに空間に対する捉え方を映像的なものからより多次元的なものへ飛躍させなければならない動機が隠されている。それ故に我々は時空間的な発想からくる空間観から一旦開放される必要があるのである。
 物体の運動や物質の性質を分析する為に座標系によって空間を特定するこの様な手法は力学的な考え方の基礎である。物体の運動や物質の性質を座標に写像するというのは対象を鏡に写すということに似ている。つまり物体の運動を平面に写しその影像を分析することによって物体の運動や物質の性質を解明しようとする手法なのである。可視的な要素や手法が用いられることによって位置や運動、関係は常に座標的、平面的な要素が付きまとうものである。ただこの様な力学的な手法は物体や物質のような無生物に対して有効ではあるがこの手法も従来は不規則な運動をしているとみられていた生物学的な分野においてはなかなかその効果を発揮できなかったのである。そのために空間が視覚的な要素から開放しより多次元的な分野に応用半径が広げるためには従来の幾何学から線形代数や位相幾何学のような形でより幾何学が代数学と強く密接に結び付いていかなければならないかったのである。数学は自分達自身の要請に基づく独自な発展とその上に近代科学の諸分野からの要請に基づき空間を方程式化できるような数学や解析技術を発展させてきたのである。その結果幾何学と代数学が融合して新しい数学を生み出してきたのである。そしてその様な新しい数学の誕生によって物事を多次元的に捉える事が可能となり空間的な発想はその応用範囲を飛躍的に拡大し更に拡大し続けているのである。それと同時に一見不規則な運動をしていると見られる運動にも一定の規則があることが判明してきたのである。それは空間的なものの見方を可視的な世界から不可視な世界へと拡大していく事によってはじめて可能となったのであり、また従来の空間に対する認識を改めさせる契機となったのである。
 人間や動物の行動を分析する時、外見的な運動だけを観察しても理解することは出来ない。内面の心理や価値観、外的な環境をどの様に分析していくかが重大な鍵なのである。しかし内面の心理や価値観、行動規範を分析する為には人間や動物の行動を何等かの形で分析しなければならないのである。そのためには動物の行動を空間的に捉えていく手法は有効なものである。しかし、確かにこうした行動を定量的な尺度だけで捉えていく事は不可能であり危険なことである。また従来の考え方では宗教的なまた倫理的な観点からこの様な考え方自体を否定的にとらえる傾向が根強くあったのである。ところが、電子計算機や機械化の進展とそれに伴う経営の合理化、近代化と言った時代の趨勢によってシステム化、作業の標準化や品質管理といった管理技術の分野の開発が近年産業界から急速に要求されるようになってきたのである。その要請に基づいて行動科学や経営工学、組織工学、心理学と言った人間の行動を合理的に分析していく手法の発達が促されその結果、動物や人間の行動をある程度は形式化、定型化する事に抵抗がなくなりつつあるのである。また近年の生物化学や医学の発展は、人間の死生観そのものまで変えようとしている。この様な時代の変化は従来の科学の性質を根本的に変えていこうとしている。科学どころか世界観や道徳観も変えようとすらしているのである。問題なのはこうした変化がただ迷信や妄想によって訳もなく否定されていることであり、逆に経済的な要請に偏り過ぎて人間性そのものまで崩壊させてしまうことである。この様な危険性を避けるためにも空間の持つ意味と科学の限界を明確にしておく必要があるのである。
 人間は一つの世界一つの地球を共有している。将来人間が自由に宇宙を旅行できるようになったとしても一つの宇宙空間を共有していることに変わりはない。その様な一つの世界を共有しかつ何等かの価値観や思想信条、利害得失、運命のようなものの一つでも共有すればそこに人為的な空間が発生するその空間が社会である。少なくとも自分達が同じ世界を共有している以上その世界の現実が社会の原点であると言っても過言ではない。その様な原点を中心にして各々の価値観、利害得失、感情、外的環境、社会的規範や法律と言った複数の基準によって行動や経験が測られ位置づけられ内的な体系を形成していくのである。この様な内的な体系が一つの集団の中で共通の規範となり公認されていく過程で社会は形成されていくのである。個人の行動も集団の行動もこの様に複数の基準に基づいていてる。しかもそれらが複合されしかもその大部分が個人的な基準に依るものである。この様な行動や経験を一意的に図式化したり方程式化することは困難である。例えば組織図や制度図を見ることによって一意的にその組織内や制度下で行動する人間の行動を決定づける事が出来ない様にである。この様に多面的な空間を考える時、平面的な発想から開放され依り立体的、多次元的な発想が出来るように頭を切り換えていかなければ対象を捉えきれない。図式はその様な表象を捉えていくための補助的な手段に過ぎないのである。グラフや図形は対象の一面を捉えその特性を知るためには有効であり、また効果的なものである。しかしグラフや図形の持つ特性や一面性を見落とすとかえって弊害となることもある。またグラフや図形を用いる場合その前に一旦対象の表象を自分の内部で描像化し目的を明確にしながらその目的に沿った座標軸を用いて解析しなければならない。そうした場合空間が力学的な空間に限定されずにより多角的な視座から対象を捉えることが可能となるのである。
座標系は相対的なものである。物体が静止しているとは、選ばれた座標系に対して物体が静止しているつまり座標系が他の座標系に対してとっている運動と対象となる物体が同じ運動をしている状態を指しているのである。自分が地上に立っているとき回転しているように見える物体でもその運動と同じ運動をしている座標系を選択した場合その座標に対しその物体は静止しているのである。飛んでいる飛行機のパイロットを地上からみると激しい勢いで不規則な運動をしているように見えるが飛行機で同乗している者から見れば地上で飛行機の操作をしていた時と変わりがないのである。落下するボールの動きに合わせてテレビカメラを移動した映像をテレビに再生した場合テレビに映ったボールの像は背景を無視すれば静止して見えるのである。温度は摂氏で測ればマイナスであっても華氏で測るとプラスになる。この様に座標系は相対的でありまた特定の座標系に特定された空間も相対的なものである。
 一定の座標系を設定するのは対象に優劣、是非、善悪、美醜、真偽、好悪、貴賎の差別を付けるためではない。対象を位置づけるためであることを忘れてはならない。倫理的な評価基準とこれらの座標系を設定する時に用いる基準とは本質が違うのである。倫理的な評価基準は定性的な傾向が強く反対に座標系は定量的なものである。一般に科学的な対象として計数化され得る座標系は即ち定量化可能な基準は対象界に属するものでなければならない。つまり外界に存在するものによって基本的単位が設定しうるものでなければならない。それに対し倫理的な基準とは自己の主観的な領域に属するものである。つまり、倫理的な価値観とは主観的かつ直観的、定性的な基準が多い。この様に定量化しうる基準は対象界に存するものであり、内的な世界に存する基準は定性的なものである。そして、一般に我々が言うところの空間とは対象界に存在する空間をさしていうのであり、科学は対象界の現象を対象とした学問なのである。
 背が高い人は善人であるとは一意的に決めることは出来ない。このことは科学が非倫理的非道義的なものであることを意味している。つまり、科学技術をどう活用するかは科学を成立させている基盤とは別の次元の問題なのである。このことが科学の発展や技術革新に際して絶えず倫理的な問題を引き起こす原因となっている。科学技術は兵器を開発する技術にもなれば人々の生活を向上させる技術にも活用できる。科学技術をどの様な分野方面で活用するかはそれを活用する人間の問題である。科学が非倫理的非道義的であることは科学技術を発達させる上で重要な要素となった反面数々の弊害も引き起こしていることを忘れてはならない。例えば医療技術の進歩は人間の寿命を伸ばした反面でそれにともない安楽死問題、臓器移植等人間の生命に関する問題は益々深刻度を増しており、技術革新による産業の発展は人間の生活を著しく向上させたがやはりその反面で環境問題は人類の存亡にかかわるほど重大な問題となってきている。これらの事が一方で科学万能神話を生み出したと同時に科学に対する根強い反発や懐疑心を持たせる原因となっているのである。
 この様な点から見ても解るように科学が非倫理的非道義的なものだからといって倫理的な問題や道義的な問題を無視して善いと言うわけではない。寧ろ倫理的問題は科学を発展させていく上でその都度その都度明確にしていかなければならない問題なのである。しかも科学者一人一人のモラルだけで片付けられる問題ではなく社会全体が取り組んでいかなければ解決の付かない問題でもあるのである。
 近代と言う時代の基礎を形成している科学が非倫理的非道義的なものだからと言って現代人の生き方まで非倫理的非道義的であっても善いと言う訳ではない。しかし近代社会には科学技術の成果と科学の非倫理性、非道義性を結び付けて考えそれを科学主義と錯覚する傾向がある。例えば、思想信条の自由を無思想無信条無神論的なものだと思い込んでしまい、あらゆる既成の道徳を否定するのが近代的であり反権威反権力反倫理反社会的な行動の全てを無批判に正当化し無軌道な行動を是認したりもするのである。この様な考え方は人間の生命や尊厳と言うものを軽視する傾向を生み出すものである。自由や平等を無政府主義的なのものとはきちがえあらゆる規則や制度を一意的に否定してしまったり、人間の個性や人間性を無視して一つの枠組みの中に押し込んでいこうとしたりする。前衛や革命と称してあらゆる人間性を否定し人間を一個の物体としてしか考えないような思想は最も非科学的なものである。近代戦争が非人道的で凄惨な様相を呈するのはこの様な考え方に基づくものである。勿論科学の発達が結果的に結果主義的なものを増長したことは否めない。金さえあれば何でも手に入り勝てば全てが許され成功しさえすれば善い。この様な結果主義は現実主義的に見えて非現実的なものである。この様な結果主義を科学的なものと信じている者は科学ほど因果律を基礎にして成立していることを忘れているのである。だからこそ近代兵器が非現実的な程の破壊力を持つのもただ科学が発達した結果だとはいいきれないのである。人間は科学技術が発達すればするほど逆に人間は強い信仰心と倫理観を持つことが要求されるのである。
 近代人の平等観というのは、この科学の非倫理性、非道義性と倫理観が結び付いて成立している場合が多い。つまり、人間は自然の法則の前に平等でありこの様な平等性の前では善人でも悪人でも無関係であると言う考え方である。この様な考え方のでは勧善懲悪的な世界観が明確に否定されてしまう。それでは人間の主体的な意志は全く思想の根底に関わっていない事になる。しかし、科学的な発想を基礎とした平等主義とは主体的な意志を前提としたものであり主体的な意志を否定したところでは科学は成立し得ない。本来科学的な平等観とは自己と対象の存在の一様性を前提とする事よって常にこの世に存在するものは対等であり、その意味でこの世に存在するものは全て平等であることを意味しているのである。そこでは人間の主体的意志と主体的かかわり合いを前提としているのであり、つまり自己実現の場としての社会においてその安全と主張が他の人間の安全と主張を著しく損なわないかぎり保障されている社会を平等な社会というのである。故に、科学の非倫理性非道義性を口実にして一意的に倫理や道徳律を否定することによって成立するような平等思想は明らかに偏見である。もし本当に科学的な平等を標榜するなら逆に自己が社会の中で平等な自己を実現し維持するために自己の主張を明確にする過程で主体的に自己の倫理観や道義心を示していかなければならないのである。つまり平等とは人間の社会では倫理的道義的な社会が成立しないかぎり実現しないのである。平等と言うのは如何なる人間も個人としての主体的意志を持つことにおいて常に対等であり、この様な人間の意志を不当に歪めるような社会体制を不平等と言うのである。また対等な意志を持つことを阻害するような要因を不平等を生み出す原因とするのである。例えば一個としての人間という以外の要素で対等の意志を持つことを妨げる要素例えば人種による差別とか身分制度のようなものを平等を妨げる要素と言うのである。当然人間として安心して社会生活を営むことを阻害するようなこと犯罪や不正な取引といったこともこの様な不平等を引き起こす原因となる。故に平等とは自分達が定めた法にや権利に対する強い信念と倫理観に支えられないかぎり実現することはない。そしてこの様な法や権利とは正当的な手続きと現実の世界を反映したものでなければならないのである。言論の自由とは自由よりもむしろ平等の概念を根底に持っていなければ成立しない。真の自由は平等に、平等は自由によって裏付けられない限り実現しないのである。野球選手はルールを守っている限り試合に参加する権利があり、またルールを守っている限り試合に参加する資格がある。ルールに従っている限りはルール以外の理由でその選手が試合に参加することを妨げることは出来ないし、ルール以外にその人が試合に参加する資格を剥奪する事は出来ない。この様にスポーツにおいて選手がルールによって与えられている権利が自由であり保障されている資格が平等なのである。そして、この様な自由と平等はルールに従って試合に参加していこうとする主体的な意志や精神とルールに基づく厳正公正な審判によって維持される秩序と立場によってのみ実現されるのである。この様に本来自由と平等は補完的な関係にある。故に自由なくして平等はなく平等なくして自由はないのである。つまり、考えようによっては平等と自由は同義語的なものなのである。
 人間の倫理観とは別の次元だと言っても座標系の選択によってそこから導き出される判断も微妙に変化するのもまた事実である。何処に原点をおき、またどんな単位をとり、どの様な基準を設けるかによって人間が受ける当然印象は変化する。相対的なものの考え方に於て大切なのは常にそれを設定した前提や条件を確認することである。単位や原点を取り違えて判断すれば重大な過失を招くことになる。往々にしてこの様な確認がされずに根拠が希薄な状態で物事が判断されている場合が多くあるのが実情である。肝心なのは常にその論点の根拠であり、論点の根拠たる前提や条件が間違っている場合その後如何に論理的に整合性のある理論を展開しても総て無駄な努力であり当然導き出された解答も正当性がえられないのである。空間を支配する座標系の選択を誤ると分析そのものを無効なものにしてしまう。またお互いが違う座標系を基礎にしている限り相手との会話は本質的に成立しない。特に自分を原点として自分の眼前の空間を双方が前提として考えている場合には相手が前提としている空間と自分が前提としている空間の相違に気が付かないことが多い。大人が見ている空間と子供の見ている空間とは座標系が違う。そして、日常生活においては大多数の人々は自己中心の空間の中で生きているのである。このことを自覚していないと我々は現実を正しく認識し対象を位置づけることが出来なくなるのである。 
 原点を定め空間を特定するとは世界を特定することでもある。この世界は、茫洋として掴み所がない。我々がただこの世に生存し、また対象の存在を意識したというだけでは自己の行動の意味や対象の運動の法則も解明できないのである。それらを解明するためには、自己のいる世界や対象が運動している空間を特定し、自己と対象を位置づけなければならないのである。自己の視座、つまり、自己が対象を認識している位置を確認した上にその視点を対象界の一点に集中させて原点を定めなければならない。対象の運動や一はこの原点と視座の視差によって求められる。つまり、運動は個々の対象感の相対的速度差に過ぎない。原点はあくまでも任意に定められるのである。即ち自己の意思によって対象の一点を選択したものである。原点は観測者と自己との相対的関係によって成立しているのである。つまり空間を特定するとは自己の視座と原点、そして座標系の三つの要素を必要としているのである。対象認識にはこの三つの要素即ち自己の視点、外的基準、対象が必要であり、このことは人間の認識を特徴付ている事を忘れてはならないのである。この様な認識の中心は自己が選択し決定しなければならないのである。原因を定めるとは自己の視座を対象界に投げ出し投影することによって自己と対象界を結び付け特定することなのである。
 人間は空間を特定することが出来ないと自己の視野が作り出す空間を無意識のうちに自己の思惟の唯一の基準系とする。即ち自分が見ている世界を絶対視するのである。自己の視野を無意識のうちに絶対的な基準系としているとどうしても自己中心的主観的な世界から抜け出せない。それでは人間の思惟は独善や偏見、先入観から抜け出せなくなってしまう。この様な狭い世界から抜け出すために科学者達は物体に働く力を相対的な座標系で空間を特定し解明する事によって物体の運動の法則をより普遍的数学的なものにしようとしたのである。自己の視野にこだわり続けているかぎり物体の運動は私的な領域に特定されてしまう。それでは結局物体の運動を考察する際現象として現れた物体の運動だけにこだわらせ現象として現れた物体の運動の背後に働く力を見落とす結果を招いてしまうのである。つまり自己中心的なものの見方から抜け出せないと対象を一意的に捉え現象面のみに目を奪わせる傾向があるのである。空間的なものの捉え方とはこの様な自己中心的世界から人間を開放し物体に作用する力の種類を明らかにしたのである。空間の潜在的法則を引き出し力の観念をより広範囲なものに拡大したのである。その結果物体が空間から受ける力の存在が明らかにされたのである。そしてそれは空間から物体に対する、また物体から空間に対する、物体から物体に対する相互作用を解明するきっかけにもなったのである。そしてやがてこの様な考え方が運動の法則から場や構造の概念へと発展していくのである。更に平面に物体を写像することはその物体の運動のみならずその形態や内部構造を解明していくためにも有効な手段である。解析学的、集合論的な考え方の発展にともなって相乗的に座標系的な発想は応用半径を物体を質、量、密度といった物性的な発想へも拡大していったのである。座標系とはこの様に自己の視野が作り出す空間から人間の思惟を開放しより広い次元で物事を考えることに成功させそして同時に自己の観念を相対化し社会性を持たせることを可能としたのである。
 人間の行動を考察する時とかく我々はその人を取り囲む空間例えば環境や社会、経歴を見落としがちである。たとえよしんば環境や社会、経歴を考慮するにしてもその人の行動を理解するための参考程度と言った極めて受動的、消極的な場合が多い。人間の一般的なあり方から社会制度や文化を変革していこうといったより積極的建設的な発想に結び付けられるのは稀である。それは人間の行動を空間的な観点から捉えようとせず、その行動の原因を内的動機に求めようとするからである。人間の行動を理解するためには内的世界、外的世界両面からその人を支配する空間を構成する場の力や構造的な作用を多角的多面的多次元的に考察する必要があるのである。
 対象を測定しようとした場合、例えば対象の長さ(距離)を測ろうとした時、一般的には先ず対象が静止するような三次元の座標系(座標系は必ずしも三次元なものでなければならないと言うわけではない。)を選択しその座標系を構成する座標軸に対象を投影その投影された線分の長さ(距離)を測定しその測定値と方程式を用いて解答を導き出すのである。この様に対象特定の座標軸や平面、空間に投影することを写像という。つまり人の顔を写真に撮るようなものである。同じ人を撮ったとしても全く同じに写ることはまずない。世界地図を描く時人類は球体の地球を如何に平面に写し取るかで悩み続けた。世界地図は何処を中心にするかまたどの様な手法を用いるか地図の使用目的によっても全く別なものになってしまう。但し地球は一つである。この様に選択された座標系やその中心軸、対象の位置によって写像された像も変化する即ち写像して得られる結果も相対的なものでありその結果は無数にある。しかし、対象そのものは一つでありその存在は絶対なものでなければならないのである。この様なことから見ても座標系やそこに現れた結果や像を絶対視するのは危険なことである。又、対象を解析していく際にその座標系の次元数を下げていく変換を微分といい、次元数を上げていく変換を積分と言うのである。対象を捉えていくのにいろいろな要素を考慮すると当然次元数が高くなる。しかし、最初から高次元で捉えようとすると対象の本質が解り難くなる。人間が一度に知覚し得るのは最大限五感という観点からみてもせいぜい五次元的なものである。一般的には時空間つまり四次元的なものとして捉えるのが限界だと思われる。特に法則を公式化したり解析する上で一番解り易いのは二次元的なものである。故に対象を解析していく上にまた公式化原則化していく上でまず対象を平面的なものに還元していこうとするのは当然の帰結である。
 フロイトは人間の心理を性的な空間に投影することによって人間の心理を分析したのである。確かにこの様な方法は人間の心理を知り法則化するためには有効な手段である。しかし、性的な空間を絶対視して人間は性的な動物であると一意的に決めつけてしまうのは間違いである。人間の心的な状況は複雑なものでありより多次元的なものである。この様に対象が複雑なものを最初から高次元な座標系で分析するのは困難であるから最初は低次元な所で対象を捉えそこで得た法則を次元数を上げることによってより実体に近付けていくのが一般的である。そのために性的次元を基本的な座標軸として設定することは一つの見識であることは間違いない。しかし性的なことによって人間の行動の全てが支配されていると結論付てしまうのは明らかに間違いである。しかも性的開放のみが人間性全ての開放につながると結論づけるのは更に短絡的過ぎる。低次元のままにその結論を絶対視するのは危険なことである。自由や科学の名の下に無原則に何でも開放してしまえば善いと言うのは自由や科学を取り違えたことである。一つの要素を取り上げてそれが総てだとかそれによって全てが理解できると言うのは一種の迷信である。そしてその様な迷信は中世の魔女狩り同様科学や自由とはおよそ似ても似つかない醜悪な偏見を生み出す原因となるのである。対象を正しく捉えるためには一つの視座に偏らず絶えず視点を変えて対象を観察することが必要なのである。
 数値や言葉、文字、楽譜、方程式と言った記号系は丁度テレビの送信機や受信機のような一つのシステムである。しかし、現実の世界は空間的な世界であり観念として現れる内的な世界も空間的な世界である。故に我々の意識の上に映し出される像はブラウン管に映しだされた映像のように想念として現れる表象である。つまり観念の原像は記号的即ちデジタルなものではなく図形的即ちアナログなものである。記号系の果たす機能は機械的ないし中間媒体的な働きに過ぎない。数値計算は機械操作に過ぎないのである。しかもそう言った記号体系を生み出す源泉は内的な世界であり表象であることを忘れてはならない。人間が近くする世界はこのように記号的な世界ではなく空間的な世界である。記号的な世界は一個の独立した体系を持っているものではあるが基本的には空間的世界を補完する為に存在するのにすぎないのである。数学の発展は科学にいろいろな新しい分野を切り開くがその原点には一つの現実がなければならせない。小説は読者にいろいろな空想をもたらすがその根底には一つの世界がなければならない。即ち数学や言語はそれ自体が新しい観念を自己増殖し得るものであったとしてもその根底には空間的な世界を前提としているのである。この様に空間的世界は観念の根底を形成するものである。  
論理的体系、数学的体系、記号的体系は抽象度が高い傾向を持っている。この抽象性はこれらの体系の汎用性の前提であり必然的な性格である。そして抽象度が高ければそれだけ汎用性が高まる傾向があるのである。それに対し空間的な世界は具象性が高く個別的、単能的な傾向が強いのである。それはテレビの受像機が一つの完結された体系であるのに対しテレビの番組が多様な世界であることを見ても理解できる。つまり論理的体系、数学的体系、記号的体系は特定の表象を記憶し更に他者に伝達しまた分析するための機構であるのに対し空間的な世界とはより原初的かつ最終的な世界なのである。現実の対象をカメラによって写し取り記録し編集しそれを個々の受像機に伝達し再現する。この過程の中で最初と最後に現れてくるのが空間的な世界である。ただこの様な過程において現れてくる空間も最初の世界は現実の世界であり最後の空間は再現された世界という違いがある。つまり前者は天然の世界であり後者は人造の世界である。しかし、人間は観念の原世界に空間的な表象を持つものであり、再現された世界であっても空間的なものとして一度表現されると現実味を帯びてくる性格があるのである。空間的世界とは現実の世界か現実の世界により近い世界なのである。また如何に抽象性が高くても空間的な世界に還元できない記号的な世界は現実的なものとして受け取ることが難しいものである。数学や哲学が現実の世界を如何に忠実に写したとしても一般の人々にとっては、たとえそれが非科学的で荒唐無稽な空想であったとしても数学や哲学のような世界よりも小説や映画に表現された世界の方がずっと身近に感じるものである。なぜ空間的な世界が生々しい世界、現実的な世界なのかと言えば空間的な認識が人間の感覚器官に直結した世界だからである。特に視覚的、図形的に処理された座標系を構成する座標軸の一辺は少なくとも人間の五感に直結したものである。この様な空間的な世界は、必ずしも視覚的な世界ではないが何処かに五官による知覚が前提となっている。人間は現実を最初から論理的に捉えているわけではなくより感覚的に捉えているのである。それは人間の認識が人間の感覚器官に頼っているからである。しかしたとえ人間の原初的認識が感覚器官に頼っているとしても人間は自己の経験や知識を一つの価値体系として確立しておかなければ人間は、自己の行動を感覚的な行動規範によってしか管理できないのである。人類が社会を形成し法律や社会規範によって生活をするようになると感覚的な価値判断に頼ってばかりいられない。公式の法体系にせよまた不文律にせよ社会を構成する構成員が守らなければならない掟が存在するところでは体系的な価値体系が必要となるのである。無論動物の社会にも掟の様なものがないわけではない。しかし共通の意志に基づく規範を確立するとなれば人間以外の動物の社会に存在するような掟では通用しなくなるのである。また人間が自己の行動半径を本能的な範囲から拡大するためには自己の経験や知識を整理し記録し発展していく必要がある。人間が感覚的な行動規範から脱却する為には経験や知識をより体系的で論理的な価値体系、行動規範に再構築していかなければならないのである。自己の行動を抑制し社会的な生活を営むためには人間の知識や経験を蓄積し一つの体系に組み立てる必要があるのである。この様な要請に基づいて論理的、数学的、記号的体系を形成されたのである。つまり論理的体系や数学的体系、記号的体系は人間の認識力を補助し個人的な経験や知識を公式化していくための補完的体系である。それ故に人間が論理や数学や記号を正しく活用するためにも人間は現実の世界を空間的なものとして認識する傾向がある事を忘れてはならないのである。この傾向は数学やコンピューター技術と言ったデジタルな技術が発展した今日でも変わっていない。高度な概念の映像化は漫画やコンピューターグラフィクスのような分野で寧ろ近年高まる傾向にすらある。
 論理的体系や数学的体系、記号的体系は一般に自己完結的で完成度が高いものである。しかし、それはテレビの受信機がそれ自体で一つの体系を持っているのに似ている。いくらそれらが自己完結的で完成度が高いといってもそれを絶対視するのは危険なことである。テレビの受信機とテレビが映し出す世界は別物である。テレビの受信機はそれだけでは機能しないものでありテレビが番組を放送するためには番組を制作する放送局や電気を供給する電力会社といった社会システムやその他のいろいろな機構が必要なのである。論理体系や数学的体系、記号的体系もそれられ体系が表現してる背後にある世界や対象の存在が前提とされているのであり論理や数学、記号が意味するところのものが存在しないかぎり空虚、つまりは無意味なのである。科学者中でも数学者や思想家や宗教家、哲学者が陥り易い錯覚は論理的に整合性が高く自己完結的なものを絶対視することである。特に宗教的確信、思想的確信は妥協を許さないほど強いものである。如何に指導的な立場にある人の発言であり戒律であるとしても現実と直結していない体系を絶対視することは避けるべきである。論理的に自己完結的であり無矛盾な体系であることと絶対性とは本質が違うのである。絶対とは論理ではなく実体にあるのである。
 現実の社会とは複雑な世界である。単純に物事を判断することは出来ない。複数の次元が重なって多層的重層的な空間を構成している。しかも天然の空間だけではなく人造人工の空間も多く含まれているのである。この様な現代社会を単純に一つの座標軸だけで解析することは出来ない。また、現代社会を構成するいくつかの基軸が作り出す空間は定量的なものばかりではなく定性的なものも多く一概に定量化することは不可能である。ただその中でももっとも定量化し易く公式も確立しているのが会計学的な空間である。当然会計学的な公式は人間の経済行為を強く拘束する。ところが現実の経済行為は会計学的準則に従って経営されているのに会計学的な手法が経済学的な公式と必ずしも一致していない。このことは現代社会を考察していく上で重大な要素である。現実の社会においては会計学的な公式は経済学の中に明確に位置づけられておらずそのために会計学が潜在的に経済行為を支配している反面で経済学的な拘束を受けないという矛盾を引き起こしている。現実の経済行為の中で会計学が強力な威力を発揮しそれを信奉するものを生み出しながら現実に経済政策や財政に会計学的な公式が活かされていないという事を意味しているのである。
 近代社会において経済が政治的また宗教的、倫理的支配から開放され逆に政治や宗教、倫理観を支配しはじめているのは、会計学的な公式が確立されながらそれが正当的に評価位置づけられていないからである。そのためにあらゆる価値観に対し貨幣的な価値基準が優位に立とうとしている。面白いことには会計学的な公式が成立した時期と科学的な公式が成立した時期は交錯している。また同時期に近代民主主義制度が確立され近代スポーツのルールも成立しているのである。これらに共通している要素は計量化(計数化)、公式化、法則化(法制化)、一般化、標準化、現実化(実現化)、合理化(論理化)、制度化、体系化、次元化、空間化、双方向化、構造化である。そしてこの四つの要素が近代社会の基礎を特徴づけているのである。政治体制や経済体制、宗教や文化、また人生観や倫理観といった他の体系はこれらの四つの要素を構成する体系によって侵食され支配されようとしている。故に、近代社会はこれら四つの要素が共通して持つ欠点をもあわせ持つのである。つまりあらゆる価値観が計数的な価値基準に統合されることによって定性的な価値基準が駆逐される。そのために計量化できないような基準が例えば自己の存在や人生観、友情、愛情といったものが軽視され計量化し得るものによってとって代わられるといった弊害を引き起こしているのである。つまり、友情も愛情も全て貨幣的価値によって測られるといった現象を引き起こしている。芸術や真理も投機的な価値によってしか判断できなくなり、芸術の本質は商業主義にとって代わられようとしている。金銭的な価値にしか価値を見いだし得ない人間にとってはいかなる悪徳も数量的に説明できれば正当化されることすら意味しかねないのである。売春も詐欺も麻薬といった犯罪も単に他人迷惑さえかけなければ善いという理由だけで容認されていく。このことを無条件に容認すれば人間は自己の定性的な部分を全否定つまり、人間性や人格の全否定をも導きかねない。そしてその傾向は年々高まってきているのである。これは現代人の疎外の原因となり現代社会の堕落の原因ともなっているのである。科学や民主主義的、資本主義的な社会において個としての自己が確立されなければならないのは近代社会に潜むこの危険性によるものである。つまり、科学も民主主義も会計学もスポーツも非倫理的非道義的であるが故に迫害を受けまた発展もしたのである。それは近代社会が個としての自己の確立を前提としているからである。翻って言えば個としての人間が確立されていないと近代社会は非倫理的非道義的な社会に堕落する宿命を持っているのである。つまり、近代社会は法や制度科学経済的価値を人間の思想信条、倫理から分離独立させる事によって成立しているのであり、それは近代的個人主義を前提としているのである。近代的個人主義とは個として自律した個人を社会の基本単位とする思想である。あらゆる人間の権利と義務、自由はこの思想に基づいたものである。
 近代社会は、法による統治を前提としている。法による統治とは文法としての法律、文脈としての日常生活、社会制度、慣習や規範そして会話としての自己の言動や行為、信条の三つの要素から成り立っている。この様な近代社会を形成していく上での三つの要素のうち民主主義体制や科学が構成するのは文法即ち下部構造である。近代社会の下部構造を構築するためには定性的な部分を抜き去り対象を形骸化しなければその基礎を成立することはできないのである。また科学的法則を実体化するためには技術的に活用し産業として確立しなければならず、それを現実に活用実現するためには、個人個人当事者達が性格付をしていかなければならないのである。つまり、自動車が現代社会の中で利用される為にはそれに必要な物理学的な法則を物体の運動から抽象化しなければならず、更に導き出された法則を現実の社会に活用する為には自動車を発明しそれを産業として確立しなければならない。しかもこれらの自動車を利用するためには運転手が自分の判断で運転しなければならないのである。この様な一連の行為を整合的なものにするためには、各々の次元で独立した体系を構築しておかなければならないのである。即ち物理学的法則は科学的な次元で一つの体系を作り上げ、産業は工学的技術的な次元で一つの体系を持たなければならず、個人は個人としての体系を持たなければ成立しないのである。運転手が高度な物理的な知識を持つ必要はない。しかし、運転をする上での運転技術、交通法のような知識、運転手としての最低限の倫理観は持たなければならない。この様な各々の次元の体系の基礎を理解するためには基礎となる原像や空間を理解しなければならない。無論我々は運転を習う際、指導員の説明を聞かなければならない。しかし運転を覚えるためには運転技術を論理的に理解するだけはなく実際に車を運転し、かつ頭の中に運転している状態を思い浮かべる必要があるのである。それは対象を定式化、定量化する以前の状態つまり原空間を想定しうるかつまり性質を抜き去る前の実際的状態が想定しうるか否か、更にそれを自分自身が自分のものとして再現できるか否かによって左右されるのである。この様に人間の観念の根底にあるのは、空間的世界である事を忘れてはならない。
 近代医学が人間の人格や地位、業績、名声とは無関係なところで人間を一個の物体と見なすことによって成立しているのがいい例である。医学は人間の肉体や心理に関して研究してはいるがその精神や霊魂については語ってはいないのである。医学に魂を吹き込むのは医者一人一人の良心に委ねられているのである。いちいち特異体質の様な例外的な症例に捕らわれたり一人一人の人間に合わせて医学を研究していては医学の成果を一般化できずその骨格を作り上げることは出来ない。まず一人一人の持つ個性や特性を抜き去り一定の基準の中に診断基準や治療方法を確立しなければならないのである。医者も物体としての肉体を勉強しそこで学んだ治療方法を医療現場で患者に適合させるのである。個々の現場で患者の個性や特徴を理解せずに一律な治療法を行えば結果は明らかである。医者が学んでいるのは一般的な症例であって個々の患者に対してはその人を担当した医師が責任をもって対応しなければならないのである。そのためには第一には定式化される以前の状態に対象をいかにして再生再現するかまた第二に現実の対象に如何に性格付、条件付をして特定させていくかが重要なのであり、もし特性を除去した後の状態を常態化絶対化してしまうと残されているのは医学の形骸のみとなり医療の現場は抜け殻になってしまうのである。近代社会は個としての自己の独立を前提にして成立している。この前提を忘れ個々の特性や個性を無視して定式化されたものを絶対化してしまうとそこから派生する社会は魂の抜け殻となった人々が作り出す没個性的で無特性、無味乾燥、無色無臭な世界になってしまうのである。つまり近代社会は近代社会を成立させている諸々の本質を忘れてしまうと空虚な世界になってしまうのである。この様な弊害を避けるためには常に対象の原像を知ることが肝心である。即ち対象を定式化する以前の状態を知るためにその状態を解析した時の前提や条件の確認こそ重大であり、そのためには空間を特定する為に座標系を設定したときの前提や条件の確認が大切なのである。我々は常に対象を認識するとき空間的直観によるのであり、最初から論理的にしているわけではないことを忘れてはならないのである。
 座標系とその前提となる空間とは別物である。我々を取り囲む空間とは絶対的な空間である。絶対的な空間内部では位置も運動も存在しない。位置も運動も相対的なものなのである。我々が認識する世界は空間の中にある。しかし、我々はそのままでは空間を特定したり識別することが出来ない。それ故に我々は座標系を設定するのである。つまり対象を空間的なものとそうでないものとを識別するために座標系を設定するのである。設定された座標系は当然相対的なものである。相対的であるからそれを設定したときの前提や条件が重要なのである。また座標系を設定する際の座標軸当然任意なものである。つまり空間は座標軸を設定し任意の座標系によって空間を特定した瞬間から相対的なものとなる。我々がこの様な前提を忘れて空間は相対的なものであると思い込むのは、自分の視座が作り出す空間を絶対的なものとして錯覚することと同じくらい危険なことである。この様に空間を特定するとは自己の認識の原点を定めることを意味する。つまり自己の認識の中心点を特定することが座標系を特定することを意味するのである。自己の認識の原点を知ると事が対象を空間的に捉える上で重要な出発点であり、対象を理解する上で重要な要素となるのである。人間が自分の属する空間を絶対視するのは自己の認識の原点を自覚していないからである。惑星の軌道を地球を中心にして描くより、太陽を中心にして描いた方が理解し易い。ジェットコースターの様に激しく動き回る乗り物に中心をおいて建物を測量するより、地上から測量したほうが良いのは決まりきっている。この様に認識の原点の選択の仕方によって対象の運動は全く違ったものに写るのである。自己の視点から認識の中心を移すことによって人間は対象界を相対化し同時に対象を自己の主観から開放したのである。これは自己の空間を対象界に投げ出すことによって空間を自己から独立させたことを意味するのである。
 人間は自分の意志や行動を決定する際ただ一つの事を考えていれば善いと言うのではない。いくつかの要因を組み合わせ相互関係の均衡の上で判断していかなければならない。また、それらの要因を自己の意志決定や対象認識にどう結び付けていくかが大切なのである。そうすることによって対象を分析するばかりではなく自己の視座を知ることが出来るのである。それは未来を予測し自己の行動の原点を知ることが可能となるのである。我々が一つの社会や国家、組織を建設または一つの学問や技術を創造していくためには対象を多次元的に捉えていく必要がある。貨幣価値や性的基準を一つの座標軸として位置づけ在るべき位置に戻す必要がある。さもないと人間が創造するものは全て単一的なものとなってしまう。社会を空間的に位置づけ、法則化し構成していくことによって社会改革は可能となるのである。社会を変革するためには我々は座標系をどの様な前提や条件のもとに設定したのかを絶えず確認しておく必要があるのである。物事を立体的に捉えていく訓練がこれからの時代には必要である。ただ一面的に事象を捉えているかぎり物事の本質は理解できない。いろいろな要素を組み合わせながら定性的定量的な分析を併用しながら多面的多元的に物事を捉えていかなければならないのである。例えば原子力の利用法についてただ経済的な面のみを追求するだけでなく安全性や環境に与える影響、資源問題、廃棄物の処理の問題といくつかの要素を複合的に考えていかなければならないのである。
 自分が正しいと信じたらその信念に基づいて行動するそれ自体は悪いことではない。しかし、周囲の人間の意志を無視して行動を強行すれば話は別である。自分の周囲には、自分の行動と密接な関係を持つ人々や機関、社会がある。その様な周囲の関係を無視すれば必然的に周囲の関係を破壊してしまう。そして関係を破壊されまいとする人々との摩擦を引き起こすことになる。正しいことでも、行動を誤れば成就しなくなる。一部の過激派のように行動を絶対視するのは馬鹿げている。自己の信念を社会的に位置づけその中で自己の行動を決するべきなのである。無論何事も周囲に妥協すれば良いというのではない。自分の信念が正しいという確信が在れば如何なる迫害にも屈することなく主張し続けなければならない。自己の意志決定は、未来への予測の上に成立する。自己を取り囲む外的環境の変化について予測し、内的な確信に従って行動を決定する。そのためには自己と対象界との間に共通の世界観を持ち込まなければならないのである。問題なのはいかにして自分の考えを世界の中に位置づけることが出来るかである。
 空間には、空白部分がつきものである。会話でいえば沈黙である。その余白や沈黙に耐えることが出来なくなり、無理にその余白部分を埋めようとすれば空間が持つ意味をなくしてしまう。空間や静寂と葛藤する事を通じてのみ空間的な対象の捉え方が可能なのである。何事も全てを知り尽くしたと思い込むのは危険なことである。この世の全てを科学が解明したと決めつけるのは早計である。未知なる世界いまだ解明されていない世界が存在することを常に前提としなければ科学の進歩はないのである。知らない事を知らないとした上で我々が住んでいる世界の真理を信じることが肝心なことなのである。空白や沈黙に対する恐怖こそ人間の探究心の源泉であり、進歩への原動力であることを忘れてはならないのである。
 空間的な考え方は人間の思考に革命的な変化をもたらした。空間的なものの考え方はそれまでの幾何学と代数学を融合し新しい数学を生み出したのである。それによって科学は一つの体系へ統合されていったのである。そして、今日我々は視覚的な空間からより観念的な空間へとその思考の幅を広げようとしているのである。それはこれまでの空間観にとらわれていては理解できない世界へと飛躍しようとしているのである。近代科学は経験的な世界から出発して自分達の経験の範囲を越えた世界へと人類を導いてきたのである。我々は太陽の上に立つなどと言うことは出来ない。しかし、我々は認識の原点を太陽に置くことによってこの不可能な視点を可能としたのである。同様に原子や電子を直接肉眼によってみることは出来ない。しかし、いろいろな模型を作ってより直観的に捉えられるようにしてきたのである。このように科学は経験主義的なところから出発して今や過去のどのような夢想かも描かなかったような空想的な次元まで世界を拡大してきたのである。そして皮肉なことに科学の発展は日常性に発した科学を非日常的な世界へと導いてきたのである。そして、一般人に科学は非現実的で夢想的な学問であるかの錯覚を植え付けてさえいるのである。科学万能も反科学主義も結局はこの様な錯覚の上に派生したのである。だからこそ我々はもう一度原点に帰って空間の持つ意味を再確認する必要があるのである。

ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano