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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章第5節  論理

 哲学者に恋愛は、似合わない。小説家や詩人は、恋や愛について語り、映画家や音楽家達は、人間の夢を描き人生を演出すると言うのに、世間の人は、哲学者と言えば、無味乾燥で難い話ばかりをすると思い込んでいる節がある。それは、哲学には、厳密な論理が要求され、それが小難しい屁理屈に聞こえるからである。多くの人達にとって、論理は、おそろしく空疎なもので、詭弁的なものに聞こえるものであるらしい。しかも、形式的でつまらないものに思えるらしいのである。確かに、論理的な話は、単調なうえ、それを、正確に理解する為には、大変な忍耐力と根気をようするものである。そのために、同じ事をくどくどと繰り返すばかりで、煩わしく要領の得ないものに、感じさせるのもまた事実である。それ故に、論理的に話を進める人間は、いかにも物事を断定的に決めつけ、何事もその論旨に照らしあわせて、明確に黒白をつけなければ気が済まない厄介な輩に、見えるものらしい。それ故に、論理とは、押し付けがましいものだという印象を、哲学に無縁な人々に植え付けてしまうのである。特に、比喩や宴曲的な表現を好む日本人にとって論理的な思考は、苦手なものであるらしい。そこで、多くの日本人は、世間や物事は理屈で動いているのではない、屁理屈ばかりこねていないで少しは体を動かし、経験を積んだらどうだと早々に逃げ出してしまう。一番論理的であるべき政治の世界も論理より、義理や人情という人間関係や情念の方が優先されてしまう。しかし、今日の社会は、数学や科学のみならず経済にせよ、政治にせよ論理的な世界である。電子計算機の普及は、この傾向をますます増長させており、科学技術のみならず心理学や経済の世界でも、論理が、理解できなければその仕組みを習得をすることは出来ないのである。また、民主主義の根幹は、法治であり、それは民主主義的な社会は、論理的な社会である事を意味する。そして、今日の国際社会においては、世論や言論が強い力を持っており、論理と論理の闘争の場でもある。話合いを基調にすればするほどこれまでの兵器に変わって論理は強力な武器となるのである。この様に、社会が広範囲にわたってシステム化されればされる程必然的に社会の論理性は高まっていくのである。つまり、近代社会は論理に依って成り立っており、日本人が論理的な思考を苦手にしている限り、日本は、この様な世界の趨勢から取り残され、国際社会の中で孤立していくことになるのである。今日、日本と、他国との間で派生する摩擦を引き起こす原因の多くは、日本人の非論理性にある。だからこそ、日本人は、小難しい屁理屈とばかり論理を嫌っているわけにはいかないのである。
 現代は、論理的な社会である。論理的に突き詰めれば、何事も明白になる。それが科学の前提であると思われている。しかし、これは、論理、ひいては、科学に対する神話である。現実の世界は、明確なものと不明確なものとが混在した世界である。科学の法則を学ぶと、まったく同じ現象が、法則に基づいて何度も繰り返されているように錯覚する。しかし、現実の世界でまったく同じ現象に出会う事はまずそんなにはないであろう。それは、どんなに多くの人と出会ったところで、皆それぞれ違う個性を持った人で、せいぜいよく似た人に出会うぐらいでまったく同じ人間などいるはずがないのと同様、まったく同じ現象などありえないのだと言う事を人間は、気が付いているのである。しかし、我々は、人間と言う時、一人一人の個性をあまり問題にはしない。また、いちいちそれを問題にしたら、論理は成り立たなくなる。つまり論理的整合性とは、この様な現実の世界と論理的前提との違いを暗黙の内に認めることによって成立していることを忘れてはならないのである。
 論理とは何か。論理は、最も観念的なものである。観念と観念を伝達したり共有する手段として論理は発展した。この様な論理はそれ故に最も人間的なものであり、恣意的ものでもある。ところが人間の論理が発展し、また数学の概念が導入されるに従って論理は、人間の恣意から独立して一つの体系、形式として確立されてきたのである。論理は、人間の思惟や思考に整合性や統一性を持たせるための機能が追加されるようになるのである。現在の様な論理性は、最初から意識的に形成されたわけではない。意識的に形成されなくとも、一定の意志や概念を伝達する機能を有する言語の背景には、何等かの論理的な構造が隠されている。しかし、無意識に形成されたこの様な論理構造では、人々の概念や社会が複雑になり、行動半径が広範囲にわたるようになると、必然的に限界が生じるようになったのである。この様に、潜在的な論理構造をより顕在的にすることによってより、その精度を高め、広範囲な整合性や統一性を高めようとするのが、論理学なのである。故に、言葉を話せるものの間には無意識な論理性があり、通常の生活の範囲内では、その程度の論理性で充分間に合うのである。逆に、高度な論理性を要求することは、かえって日常生活をわずらわしく煩雑なものにしてしまう。日本人が、長い期間英語の学習を義務づけていながら、英語の日常会話を不得手とする原因は、英語教育を文法に頼っていることである。車を設計したり、新しく技術を開発するには、高度な知識は、必要かもしれないが、車の運転をするのに車の複雑な構造や物理学や化学の基礎を理解する必要はない。その様な、知識をを完全に理解しなければ免許を出さないとしたら、ごく少数の人間しか免許を取れなくなってしまうであろう。また、その様な知識が車を運転する技能と直接関係ないことは、経験的に理解できるはずである。論理は観念的に身につけるものではなく、多分に経験的に身につけるものなのである。
 論理は、はじめ討論や議論の為の道具として、発展してきたものである。それは、本来、論理が、政治や思想を有利に展開する為の武器である事を意味する。ところが、その論理もしだいに形骸化され、本来の活力を失いつつある。政治や思想が、論理から遊離しつつあるのは、論理の持つ活力が失われ、形骸化された結果である。しかし、政治や思想から論理性が喪失する事は、民主主義政治や哲学の堕落と敗北を意味するのである。人間を生きているうちは、解剖することが出来ない。同様に、何事においてもそれが、学問の対象としてしか存在意義がなくなる事は、即ち、その事自体が死に体であることを意味する。論理が、ただ学問の研究の対象としてしか存在意義を失ったとしたら、それは、論理学の死を意味することを忘れてはならない。政治や哲学は、本来論理的なものである。論理性を喪失した政治や哲学は、骨格のない肉体のようなものである。現代社会において政治が堕落したり、哲学が喪失される原因の一つは、論理の退廃と形骸化にあるのである。政治から論理が失われれば法の整合性は保てない。論理のない哲学はそれ自体説得力がない。もし、民主主義国家において立法の精神を支えることが困難になり、哲学が難解なだけで、人の一生や国家の行く末に、なんら影響を及ぼさなくなったとしたらそれは、政治や哲学が、その基本的な基盤と性格を失った結果に過ぎない。そして、論理が政治や現実の生活から遊離していく事は、同時に文学や芸術が、一つの体系としてのまとまりを、欠く結果を招くのである。そのために論理は、内容のないものとなり、また、芸術や政治は一貫性のないものと化すのである。いずれにせよ、それは、ただ単に言葉をもて遊んでいるのに過ぎないのである。人々の間の意志の疎通に躍動感を取り戻すためには、論理を日常性の中に取り戻し、活力を取り戻すことが大切なのである。そして、そのことが政治の退廃を防ぎ、哲学を再生するために不可欠なことなのである。
 論理は、元々、相対的なものであり、曖昧さや矛盾を排除するのは困難なことである。自己矛盾命題のように命題そのものが矛盾しているものもある。人間は、本来、主体的存在である。それ故に、論理から完全に主観を排除することは、不可能である。その良い例が、神の存在や超自然現象、霊的現象である。神の存在を信じる者と、信じない者、また、超自然現象や霊的現象を体験した者とそうでない者との間では、その論理の前提が根本的に違ってしまう。論理の前提がまったく正反対で在れば、結論がたとえ同じであっても、内容は、まったく異質なものであることは、明白なことである。美人であることを論理的に証明するためには、先ず相手を美人だと思っていなければならない。何が明白で、何が、正しくて、何が美しいかといった論理の大前提は、結局、主観的なものなのである。
 近代に至るまでの論理学は、論理に潜む曖昧性を排除することに最大の力点を置いてきたように思われる。曖昧性を排除すると言うことは、主観を排除し、対象を客観的なものに置き換えることである。確かに、論理を客観的なものに置き換えることによって論理の厳密性は高まる。しかし、現実の論理は、曖昧なるが故に、弾力的で活力を持っているのである。なぜ、論理に曖昧なものが入り込んでくるのか。それは、現実の論理が主体的なものの支配下にあるからである。そして、その主体性が活力の源なのである。つまり、論理の生命力は、人間の主観によって保たれているのである。論理から完全に主観を奪い取れば、論理は、形骸と化す。数学的な論理ですら、その前提は主観的な直観に依拠しているのである。それ故に、論理を活力あるものとするためには、曖昧さや矛盾と同居せざるをえなくなるのである。それならば、曖昧や矛盾にどう対応していくべきかが今後の重要な課題になるである。論理を成立させている背景や文脈を論理だけで捉えるのではなく、一つの全体しとて解釈していく必要があるのである。それと同時に、人間が主体的な存在であることを前提とするならば、論理に活力を持たせるためには、論理に主体的なものを持ち込む必要があるのである。
「この文は嘘である。」とか、「絶対と言うことは、絶対にない。」と言った命題を自己矛盾命題という。なぜこの様な命題が生じるのかというと、論理の前提となる仮説や命題が、相対的なものであり、直観的なものだからである。この事は、論理が主観的認識からのがれる事ができないことを意味している。そして、論理が無味乾燥なものとなるとしたら主観の喪失に原因があるのである。論理が主観的認識の支配下にあることを頭に置いて、次ぎに、論理の働きについて考えてみよう。
論理とは、対象を個々の概念に分析し、更にそれを一つの体系に再構成する事によって、対象を記憶し、情報化するための道具である。また、体系化され、記憶された情報に基づいて他の対象や現象を整理したり、推理したり、予測するための道具でもある。そのために論理は、対象から任意の意味を発見し、それを抽出しなければならない。故に、当然論理によって形成される世界は、抽象的な世界になるのである。また、この様な論理には、対象に意味を持たせ、特定する働きもあるのである。
 従来の論理は、その人間が所属する言語体系によって、支配されてきたのである。それ故に、特定の国の言葉が、論理的であるか、否かを判定することは出来ない。例えば、フランス語や英語は、論理的で、日本語は、論理的でないということは、一概に言えないのである。日本語的な論理、英語的な論理、中国的な論理、フランス語的な論理と言うものは、存在しても、どの論理が是か非かという論法は、成立しないのである。何を是とするか非とするかは、価値観の問題であり、論理的であるか否かは、その国の言語体系に照らし合わせて、判断されるべき事だからである。その答えはどの言語体系を基準にして判断するかによってまったく違う結果が出るからである。ただし、今日、言語に変わる記号や数学によって世界に共通した論理体系が築かれつつある。また、言語体系の違う国家間の交流が盛んになる事によって、言語間の構造的差もかなり是正されつつある。これらの事によって、今日、世界的に一つの論理体系に基づいて、一定の概念を構成することが、可能となりつつあるのである。
 論理体系の下地となる言語体系は、その行間や語法、語彙の豊富さによって論理体系の質を左右するのである。論理は、階層的なものであり、その階層の数によって論理の厳格さに差が出てくる。つまり、階層は行間を埋めるものだからである。例えば、行間にどれくらいの段階が隠されているかによって、その論理の飛躍度に差が生じる。宴曲的であるかいなかによって論理の鮮明度に差が生じるのである。また、表現の方法によって言語体系は、その意味内容を象徴的な形で表現することも可能である。即ち言語体系は間接的な表現をすればするほど、その意味内容は多様な受け取り方が可能となるのである。その反面に於て表現した事柄の意味内容は曖昧なものとなる。つまり、ぼんやりとしたものとなる代わりに含蓄がある内容になるのである。この様なことから間接的な表現は、文学的なことによく用いられるのである。言語体系や言葉の中に間接的な表現方法や象徴的な事柄を多く含む言語体系は、厳密な論理体系に曖昧な表現を持ち込み易い特徴がある。但し、それだからといって、その言語体系が、必ずしも論理的でないと決めつけるのは早計である。要は、その言語体系をして論理的な展開を可能ならしめる用い方をすれば良いのである。
 この様に、言語体系の規模や、精度、質は、言語体系が作り出す世界の大きさや性格を決定づける。論理体系は、言語体系が作り出す世界の一つである。即ち、言語体系を下地にして論理体系は形成されるのである。それ故に、言語体系の持つ奥行きや受容度、規模、精度、質が論理体系の根幹を形成するのである。逆に言語体系をより高度なものに発展させ情報や知識を集積するのは論理体系である。即ち、知識や情報の集積や技術の発達は、言語体系の上に成立する論理体系の程度によって決まるのである。この様に言語体系と論理体系は、相互依存関係にあり、論理体系と同様に言語体系を基盤に成立している文化や価値体系の質は、論理の質によって大きく左右されるのである。即ち、言語体系がどれだけ発展しているかによって論理性は決定され、論理体系のあり方によって文化や価値観のあり方も決定されるのである。人類の言語は、もっとも論理的なものの一つであり、その意味で現在地上で知る限りの動物の中で人間は最も論理的な動物なのである。
この様に言語体系や価値体系によって論理体系は、違うものとなる。現代まだ論理体系は一つの体系に統合されているわけではない。また、各々の論理体系にも次元があり、その段階段階によって選択される体系も異質ものなのである。それ故に、今日我々が意思の疎通をする場合、お互いに自分達がどの論理体系に基づき、また、どの次元にいるのかを確認しないと円滑にいかなくなるのである。しかも、現代社会は一つの国や社会の中に複数の思想や宗教、民族が混在、即ち、いくつもの価値体系や言語体系が混在している。それは複数の論理体系が混在していることを意味するのである。また、数学的論理のように意識の上に現れた論理体系だけでなく、多くの文法のように無意識のうちに形成される論理体系もある。この様な複数の論理体系を一つの形式の中で統合しようという考えが民主主義である。それ故に、民主主義的な論理とは基本的に形式的なものとなるのである。たとえば、思想信条の自由とは自己の論理体系を維持しながら他者の論理体系と共存するための形式を決めるために必要な原理なのである。この様な形式的な性格は、近代科学や近代スポーツ、近代会計学にも共通したことであり。この例からみても解るように近代とは、形式論理を基盤として成立している時代なのである。
 それでは、一体、今日の論理は、どの様な要素によって構成されているのであろうか。その事を考えるためには、先ず、論理そのものを考えるだけではなく、論理を成立させている基盤も併せて考えなければならないのである。論理は、それを使用する自己と、論理によって指し示される対象と、自己と対象とを結びその背景となる空間とによって成立する。そして、背景となる空間は、場と構造によって構成されているのである。そして、そこから自己の論理、対象の論理、空間の論理が生じるのである。自己の論理とは主観の論理であり、対象の論理とは客観の論理であり、空間の論理(場の論理)とは基準となる論理である。また、自己の論理は語用の論理であり、対象の論理は意味の論理であり、空間の論理は構文の論理である。自己の論理が、空間の論理を経て、対象の論理へと変換されることによって自己と対象とは、意思を通じるのである。また、この三つの論理によって、導き出された結論を比較検討する事によって人間は、論理が指し示すところのものの正当性を判定するのである。自己の論理とは、自己の内面にある論理である。自己の観念を構成し、それを、一つの体系とするための論理である。この様な自己の論理の背景にあるものは、自己の経験や知識、価値体系、倫理観、情念といったものである。それに対し対象の論理とは、対象が有している論理であり、対象が整合性のあるものとして存在するための論理である。この様な対象の論理の背景にあるのは、事実や現実、世界、文化、自然の法則(真理)、神の摂理、歴史、伝統といったものである。
 言葉や記号によって成立している論理は、当然、抽象的なものである。つまり、論理は、実体から言葉や記号を抽出し、その言葉や記号を関連づける事によって成立するものである。その様にして構成される文や言明、方程式は、その背景として一つの世界を裏付けとしているのである。但し、自己の論理の背景となる世界が対象化される各段階において論理が指し示す世界は自己の論理が背景としている世界から遊離し、分化していくのである。また、自己の論理、空間の論理、対象の論理によって体系づけられた世界は象徴や観念となって記憶されるのである。そのために論理は一つの世界から多くの概念を派生的に生み出していく傾向がある。この作用によって人間の観念は生成発展を繰り返しているのである。
 論理は、形式であり、道具に過ぎない。故に、論理は、その背景として一つの世界を前提としている。論理の構成する最初の命題の判定は直観的に為される。即ち、論理も最初は直観による認識をその起点としているのである。また、論理を構成する個々の命題の真偽の判定も直観によって為される。即ち、論理を実体的な世界や事象と結び付けいるのは直観である。故に、神の存在に対する判断や対象の自明性に対する判定は論理的に為されるわけではなく、直観的に為されるのである。論理的に証明できるのは、ここの命題を判定することによってその推論の正当性についてだけである。この様に論理といえども、その認識において直観的な判断から開放されているわけではなく、寧ろ論理を成立させるための前提として直観的な認識があるのである。
 自己の論理と対象の論理は、お互いが直接それを知ることは出来ない。そこでそれを調整するために空間の論理が必要となるのである。例えば人と人の間では言葉や法がこの空間の論理となるのである。また、対象が自然界の場合は科学的な論理や数学がこの空間の論理として機能しているのである。この様な空間の論理の背景にあるのは、言語体系や記号体系、数学、法体系である。相手が如何なる論理によって自分の考えを整理し、体系づけているかを理解したり、また、同様に自分がどの様な論理によって自分の考えをまとめているかを伝えるためには、言葉や記号といった媒介を用いる必要がある。しかも言語体系や記号体系の中には無意識の内に形成されているものを多く含んでいる。しかし、その媒体となる論理に整合性がなければお互いの論理を正確に伝えたり、判定することが出来ない。それ故に、相互の意思や概念を伝達したり、判定、または、交換するためには言葉や記号の配列に一定の原則や規則を与える事や日常的に使用されている言語や記号の背後に隠されている原則や規則を明らかにする事によって相互の論理体系を一つの共通した論理体系を選択する必要があるのである。この様な要件によって成立し発展したのが空間の論理である。
 今日、ただ単に論理という場合は、一般的にこの規則や原則をさして言う、即ち、空間の論理(場の論理)を指して言うことが多いのである。また、直接知覚することの出来ない対象の論理や主観の領域にある自己の論理を問題としてもそれを普遍化する事は出来ない。そこで私もここではその慣例に従い、ただ論理という場合は空間の論理を指すことにする。
 この様にして成立する論理は、当然その成立基盤に媒体としての性格を持っているのである。このことから論理は、言葉と記号の体系付られた集合体と見なすこともできる。論理を成立させる規則や原則には送り手と受取手の論理が入り込むことはないのである。ただし、それを成立させるためにはその規則や原則に対する了解が前提となる。即ち自己の論理と対象の論理とを媒介するためには常に自己の論理と対象の論理との統合を計らなければならない。そのために論理は形式でなければならず、また、任意の仮定と約束によってのみ成立するものでなければならないのである。
 論理とは形式である。即ち、論理は、丁度機械のようなものであり、論理を動かすのは人間の意志である。自動車が事故を起こすのではなく、自動車を運転しているものが事故を起こすのである。また、論理は器である。つまり、論理自体に内容があるわけではなく、そこに盛り込まれた意味に内容があるのである。論理は、任意の命題を前提として一定の法則に基づいて一定の命題を導き出す道具、手続きに過ぎないのである。論理が無味乾燥なものとして捉えられるのは論理が形式的なもので規則に縛られているからである。論理自体に精神や感情、魂があるわけではないからである。つまり、論理は人間で言えば人間の肉体に当たる部分であり、魂に当たる部分は、論理を使う側にあるのである。ただ、人間が自己の精神を肉体を媒介にしなければ外的な世界に表現できないように、内的な観念を正確に表現をする手段の一つとして論理を用いるのである。人間が肉体を通じて自己を表現するように、人間も自己の考えを論理を使って表現するのである。
 電子計算機は論理を物質化、実体化したようなものである。つまり、電子計算機は論理機械である。論理を実体化した電子計算機は、論理の持つ特徴を典型的に持っているのである。現代人の多くが電子計算機に使われるのではないかという危惧を抱いている。しかし、それは杞憂に過ぎない。電子計算機自体が物を考えるわけではない。電子計算機は与えられた情報を予め与えられた手順どおりにこれもまた与えられた命令に従って処理するだけなのである。電子計算機に情報を与えたり、手順を教え込むのは人間である。人間が電子計算機や機械に抱く幻想の一つに機械が独自の意志を持ち自分の意志で行動をしているということがある。それは人間の錯覚に過ぎない。未来社会は別にしても現代において自分で考えることの出来る機械は、まだ空想の域の中にあるのに過ぎないのである。即ち、人間が生み出した機械は、人間能力を補強ないし増強したものなのである。同様に論理はそれ自体が物事を判断したり決定したりするのではなく、判断や決断の為の一定の手続き、過程や規則を規定しているのに過ぎないのである。論理は意志決定の均質化、標準化の為の道具に過ぎないのである。それ故に、論理はそれ自体では存在意義を持つことが出来ず、論理が成立するためには必ず論理を成立させている背景を必要とする。
 一定の規則によって言葉が配列されたものを命題と呼ぶ。命題は、論理を構成する要素の最小単位である。無秩序に並べられた言葉や音の集合は偶然以外に一定の意味を成立させることはできない。言葉の集合を意味ある命題にするためには、言葉の配列が重要な要因なのである。命題の意味は言葉の配列によって与えられるのである。言葉は、それが指し示す対象とその言葉が表現しようとしている役割とがなければならない。その言葉が指し示す対象と役割、そして命題に持たせる意味とによって言葉の配列は決定づけられる。言葉の配列が変化すると命題の意味はまったく別のものになってしまうのである。言葉や語が規則に基づいて配列される事にその命題の意味内容に対する真偽の判定が可能となる。命題の真偽の判定は直観によって為されるのである。この様な命題は論理を形成する最小単位である。
 一定の規則に従って論理が展開されることを論理運動という。命題と命題とは、基本的には一対一の対応関係にある。今日この一対一対応は、必ずしも単純に命題対命題という関係に限定されず、構造対構造、体系対体系という具合いに拡大されつつある。しかし、命題が構造や体系に置き変わったとしても一対一の対応関係は変わりがない。なぜならば、一対一の関係が守れなければその論理運動は発散的なものか、収束的なものとなり、結局真偽の判定が出来なくなってしまうからである。すなわち論理構造が論理的過程において分裂してしまうからである。
 論理運動は、時間軸に平行的なものであり、それ故に線条的、直線的なものである。論理構造は時間軸に対して水平的なものであり、それ故に構造的、立体的なものである。即ち論理展開は時間が陽に作用し、論理体系は時間が陰に作用するものである。そして、数学の発展やシステムの発展によって命題そのものがより構造的なものになるに従って論理も立体的な構造に変化しつつあるのである。
多くの人達は、表示されたレッテルやラベルによって内容を判断するものである。しかし、表示された記号と内容が必ずしも一致したものとは限らない事もあるのである。貼られたラベルやレッテルと中味が同じ意味のものであるという保証はない。なかには空の瓶に貼られたラベルやレッテルもあるのである。また、貼られているラベルの中には科学薬品のようなある種の符丁のように、特定の人間にしか意味が理解できない記号もあるのである。論理は、命題を最小の単位としている。命題は、言葉や符号、即ち記号の集合である。故に、言葉や符号、即ち、記号が指し示している対象や概念が曖昧だと論理も曖昧なものになってしまうのである。論理を明確なものにするためには、ラベルと内容を一致させなければならない。ラベルと内容を一致させるためにはラベルに表示されているものと内容が同じものであることを確認し、証明しなければならないのである。言葉と内容を一致させることを定義すると言うのである。この様に言葉を意味づけた命題を定義という。論理を構成する命題の中でも言葉の意味を規定する定義は、論理の基盤を形成するのである。また、この様な定義に対する規定は任意なものである。論理的原則は規定された定義を基礎として発展したものである。任意に規定された定義を基礎としている原則は当然任意に了解されたもの、即ち仮説である。論理的な原則は、定義に基づいて展開して導き出し、その上で論理的に矛盾していないことが証明された時はじめて真となる。論理的に真だと証明された原則を定理というのである。
 近代を形成する四つの要素、即ち、近代民主主義、近代科学、近代会計学、近代スポーツに共通している要素の一つは、論理性である。論理の前提は任意な仮説である。それ故に、近代を成立させる四つの要素も当然仮説による定理、公理を前提にして成立している。即ち、近代民主主義は、憲法に基づく近代法を、科学は、仮説に基づく法則を、近代会計は、会計原則に基づく複式簿記を、近代スポーツはルールをその成立前提としているのである。そして、この様な近代は当然に論理的な正当性がその判断の根拠となるのである。そのために近代社会においてはその論理を成立させるための論理的な手続きが重視されるのである。同時にそれは、近代社会の価値観や正義、倫理の根拠ともなっているのである。このことは、近代社会を成立させると同時に問題点の原因ともなっているのである。即ち、論理的に矛盾がなければ原則的にそれは正しいことになってしまうことである。つまり、法的に矛盾していなければ善となり、また、論理的に矛盾がなければ真と判断されてしまうことである。このことによって近代社会は、比論理的なものの一切を排除する傾向があるのである。しかし、近代社会は、その根底が仮説準拠することによって成立しているのだということを前提としないかぎり正当化し得るものでしかないことを忘れてはならない。それ故に、法はその論拠としての憲法と立法手続きによって常にその正当性を検証し続けなければならず。科学は観察と実験によって信馮性を確認なければならないのである。ここに近代社会の実証主義の必然性があるのである。
 基本的には論理は、定義された命題を、基礎として展開されるものである。しかし、命題を構成する言葉や記号が指し示す意味は、観念的なものである。言葉や記号が指し示す観念を裏付ける最初の認識は、直観に基づいて為されるのである。そのために言葉を言葉で定義していくと、最後は直観的に了解しなければならない言葉に行き着いてしまうのである。直接的に対象を指し示す言葉や、直観によってしか理解できない言葉が最後には残るのである。その事によって言葉を基本的な単位とする命題もとうぜん直観的に真が偽であるかを判断しなければならない命題に行き着くのである。しかも、その様な直観的に多くの人が真であると判断した命題を論理の起点としないと論理体系は真偽の判定を下す基準を持つことができないのである。故に、一定の論理的体系を築こうとする場合、その基礎となる命題群は、定義できない、または、必要としていない命題を前提とせざるをえないのである。この様に無定義命題を公理という。そして、定義できない、または、定義を必要としない事柄を自明な事と言うのである。言い替えると直観的にしか認識できない対象を自明な事と言うのである。公理は、論理体系の基礎となるべき命題である。それ故に、公理のない論理体系は底のない論理体系になってしまうのである。
 論理的な展開によって真なる解答、ないし、善なる解答を引き出そうとする場合、または、真であること、善であることを証明しようとする場合、その論拠を自明なことにおかなければならない。論拠が曖昧な場合、論旨そのものが最初から曖昧なものになってしまうからである。それ故に、論理を構成する論拠は自明な命題でなければならない。また論理の正当性は自明な命題に照らし合わせて立証されるものである。この様な自明なる命題を公理という。そして、各々が矛盾せずに独立した公理の集合を公理系という。故に、公理は、自明なこととし、証明や定義を必要としていない命題とする。即ち無定義概念でもある。但し、公理の内容を自明なことか否かの判断は任意なものである。自明であるか否かを任意なものとするという事は、公理は絶対的なものではなく、相対的なものであることを意味する。即ち、自明とは、自己の主観の支配下にあり、自己が選択した体系によって定まるものである。故に、自己が他の体系を選択した場合、自明な命題も変化する可能性があるのである。つまり、公理系は、厳密に言えば他の命題を演繹的に導き出すための前提である。この様な公理を土台にした論理体系においては、公理から矛盾した命題は導き出されてはならず。また、公理から導き出された命題(定理)は真理であり、公理は他の公理から導き出せないものでなければならないという事が論理体系を成立させる原則なのである。そして、近代社会はこの様な公理主義的なものを土台にして成立しているのである。つまり、近代を成立させている四つの要素は、公理主義的な考え方の上に立脚したものなのである。
 論理にも段階と次元がある。論理を成立させる、論理体系や法則、即ち、文法にも段階や次元がある。そして、論理は過程である。例えば、生まれたばかりの赤ん坊には名前がついていない。その段階では誰それの赤ちゃんと言うぐらいにしか識別できない。またよく産院で赤ちゃんを取り違える事件が起こるのもこの時期です。取り違えないように赤ん坊を識別する目印に足型や手形が使われるそうである。名前そのものにも深い意味があるのではない。ただ、他人と識別できれば良いのである。子供の方も自分の名前の意味を理解しているのではない。この様に、存在するだけでは事物は、意味も名もないのである。そこに名を名付け意味を持たせることによってはじめて対象を識別することが出来るのである。その様にしてつけられた名前も段々に特定の意味を持ちはじめまた子供もその名を受容していくのである。この様に最初は、識別する目的でつけられた名前や目印が段々に一定の概念や意味を形成し、それが言葉や記号となるのである。そして、無名な存在物から、有名な存在物へ、更に、有名な存在物から有意義な存在物へと対象に対する概念は発展していくのである。また、概念の発展の段階で一般化と特定化の二つの次元が生じるのである。この様に対象を認識する段階に応じて論理的な段階も発展するのである。
 論理には、一般化と特定化の二つの作用がある。一般化とは、抽象化の過程であり、特定化とは実体化ないし具体化、現実化の過程である。この様な一般化と特定化の過程を繰り返すことによって論理は成長し、整合化され、また、体系づけられていくのである。また、公理体系もこのような過程を通じて検証されかつより洗練され安定したものとなるのである。そして、論理的な手法の中では、一般的に特定化の過程においては、演繹的な手法が主に用いられ、一般化の過程においては、帰納法的な手法が主に用いられるのである。演繹的な展開と帰納法的展開を繰り返すことを論理運動と呼ぶ。また、会話形式や対話形式、質疑形式によって命題とその応答を繰り返すことや命題とその反論を繰り返す事によって論理を展開していくような論法(弁証法的展開)も論理運動の一つである。その他に命題の意味内容を他の命題や言葉に置き換える、言い替える場合や他の言語に翻訳していくような論法も論理的な運動の一種である。論理体系は、この様な論理運動を繰り返すことによって整備されまた発展するのである。また、この様な論理運動は論理的な原理体系を形成する。論理は推論の為の手段である。推論から導き出されるものは仮説である。故に、論理運動によって導き出される原理体系は仮説である。
 価値体系と、論理体系は別の次元の体系である。ただ、価値体系の正当性は論理的整合性によって検証されなければならない。即ち、価値体系は一種の公理系である。たとえば、ユダヤ教やキリスト教の十戒や仏教の十善は一種の公理系と見なすことが出来る。故に、本来価値体系は、無矛盾なものでなければならないのであるが、社会が複雑化し、問題が多岐にわたるようになると教条主義的な価値観では個別の問題に対処しきれなくなり、社会の統制がとれなくなるのである。そこで、価値体系は、原理的な体系と個々の問題に対して矛盾しないように対処できるようないくつかの独立した体系とに分離させる必要が生じたのである。価値体系とは、経験的に決定されるものであり、実社会的なものであるが、論理体系は形而上的なものであり、純粋に観念的なものである。独立した複数の体系を矛盾することなく統合され、且つ、個々の体系に整合性を持たせるためには、論理的な検証が不可欠なのである。この様に、価値体系と論理体系は、補完的な関係にあるのである。近代民主主義が、封建主義や全体主義のように予め個々の行動を規定することによって規制するのではなく、生起した社会現象を一定の法によって管理することを前提とするのならば、近代社会の行動規範となるべき、また、法の理念の基盤となるべき価値体系は、当然外延的な体系ではなく、内包的な体系でなければならない。それ故に、近代の法体系は並列的なものでもなく、羅列的なものではなく公理主義的なものでなければならないのである。
 社会が民主化される過程で価値体系が特定の個人の占有物から社会的な存在に発展する為には、先ず言葉によって論理と倫理が明確に区分され、そして、制度として社会化され、かつ、対象化されなければならない。近代民主主義は、倫理と論理を明確に区分する過程で発展してきたのである。つまり、民主主義を実現するためには、価値体系や論理体系が制度として確立していなければならないのである。民主主義が制度として確立するためには、少なくとも価値体系を決定するための制度と論理的に検証するための制度の二つの制度が必要とされるのである。公理系とそれから演繹的に導き出された定理群である。この公理にあたるのが憲法であり、定理群にあたるのが法なのである。近代民主主義とは近代的な合理主義を土台にして発展してきたものである。それ故に、近代社会が正常に機能するためには、社会機構の有する論理性が正しく機能しなければならないのである。そのためには、現代社会における論理がどの様な役割を果しており、また論理が正しく機能するための仕組みを明らかにする必要があるのである。現代社会の中の論理性を正しく維持するための仕組み、装置とは、概念としての憲法と憲法に定められた価値体系を論理的に施行するための法、憲法や法を定めるための合理的な手続き、法の正当性を検証するための制度である。このいずれが欠けても近代民主主義は正常に機能しないのである。そして、社会の受容度が広く、また、柔軟である事を望むのならば、本来憲法の中で価値体系の部分と見なすべき公理系となるべき概念は十戒や十善程度のものであるべきなのである。
 論理は、構造である。論理を構成する要素の集合は、一定の規則によって関係づけられ、かつ、体系自体は、様式的に独立しており、また、完結している。そのうえ論理は体系自体を保存しようとする作用が働く。それ故に、論理は構造である。構造である論理は、部分と全体(まとまり)と体系から成立している。個の部分とは、言葉、単語、命題ないし、文節である。全体(まとまり)とは、文ないし、話である。この様な部分と全体を体系づけているのが文法や文脈、辞書である。そして、力学的な慣性系に位置や運動、関係があるように論理にも位置と運動(働き、機能)と関係(規則、法)がある。そして、論理体系の中に存在する位置や運動、関係が論理に一定の作用や動きをもたらしているのである。例えば一つ一つの言葉が生み出す作用や働き、言葉の位置や文節の順序、また、言葉と言葉の関係や言葉とそれが指し示す対象の関係、言葉と言葉を用いる自己との関係が論理に意味を持たせ、そして、一つの概念を形成しているのである。この様な語や言葉、文の位置や働き、関係がなければ論理は一定のまとまりを持つことは出来ないのである。翻って言えば論理とは語や言葉、文に位置や働き、関係を与えることによって成立しているとも言えるのである。
 言語をより立体的に拡大的に捉えた場合、身振り、振舞いといった行動や動きをも含んで考えることができる。実際にジェスチャア、パントマイムといったものや無言劇のように音声として表現された言葉によらないで相手に自分の考えそれもかなり高度な概念を伝えることも出来るのである。そういった身振りや振舞いの背景にあるのは儀礼、しきたり、おきてといつた外的な規範と道徳、行動規範、礼儀といった内的規範である。この様に考えると論理的な構造は、単純に音声や平面的な記号のようなものに還元することができず、より多元的、立体的、構造的なものだと見なすことができる。民主主義社会における法とは、この様に多元的かつ立体的、構造的な外的な規範を形式化し体系化する一方で内的な規範を個人に還元することによって成立しているのである。即ちしきたりや儀礼、おきてを様式化する過程で個人の権利を確立することによって近代社会は発展してきたのである。即ち、近代社会は極めて論理的な社会と言えるのである。
 この様な観点から、近代化という事を計る物差しの一つとして、その社会が、論理的であるか、否かは、不可欠な尺度である。近代という時代を支える四つの要素のうち近代科学は、数学的論理によってその根拠を裏付けられ、証明されて支えられている。また、近代の経済体制は、会計学的な論理によって支えられている。近代スポーツは、論理的なルールによって成立しているのである。それに対し、民主主義は、論理性という点から見るとかなり見劣りがする。その原因の一つは、他の要素が、定量化し得るのに対し、民主主義のような主義主張は、定量化することが、困難であるからである。このことは、民主主義の基盤を、常に、不明瞭なものとし、そのために論理的な厳密さを甘いものにしているのである。しかし、このような欠点を、単純に数学的な論理を持ち込む事によって補えばいいという発想は乱暴である。元々、主義主張と言うものは、数量化する事ができない、定性的な要素が強いものである。この様な、民主主義を無理に数学的な論理の枠組み中に押え込もうとするのは無謀なことである。肝心なことは民主主義の基盤を構成する公理系を明らかにすることなのである。近代社会が、如何に合理的、論理的だと言ってもその根本にある原理が曖昧であってどの様な解釈でもできるものであるのならば、とうぜん論理そのものの信憑性は、低いものとなるのである。
 この様な原因は、民主主義の根本理念が、あまりにも観念的であり、理想主義的なこと求めるからである。公理主義とは、自明な事を前提としている。ところが建国の理念は、多くの場合、自明な事柄からかけ離れた高邁な理想から出発しがちである。確かに、人間が大事業を志し、それを成就するためには、高い目的や理想を掲げることが必要である。しかし、それを現実のものとしようとする場合、誰もが、それを、正しいと信じられ、かつ、実行できるような事柄でなければならないのである。多くの宗教が、偉大な力を発揮した要因が、それを証明している。多くの宗教の開祖達は、神や天国という大いなる存在や目的を提示しながら、信仰を成就するための行いは日常的な倫理観に置き、それを守ることができないような事には、置かなかったのである。この単純明解さこそ、論理的な社会を創造するための原動力なのである。宗教的な社会は、この様な論理性と反面に神秘性とを併せて持っていた世界である。そして、この神秘主義が、世俗的な権力や権威と結び付くことによって、宗教的な社会の持つ論理性が失われてしまったのである。宗教的な社会が論理性を喪失して言ったのは、皮肉なことであるが、宗教的な論理の発展による結果と根本理念が神秘主義化された結果である。近代における宗教改革の不思議さの一つは、近代的な合理精神を標傍しながら宗教旧体制を否定する段階において、結局、この論理性を否定して反対に神秘的な要素を残してしまったことである。
 なぜこの様なことになったのかというと、宗教的なドグマの根本が、例えば、神の啓示とか、悟りと言った宗教的直観、即ち、教祖やその弟子達の主観によるものであるという自覚が、当事者に欠けていたからである。主観的直観によってもたらされた対象は、物理的対象と違って主観的直観によってしか認識できないのである。想像的な対象を物理的対象と同等に扱えば、当然、矛盾が派生してしまう。そして、その矛盾を無理に解消しようとすれば、論理が形式的なものとなり、結局、ドグマそのものが虚構なものとなってしまうのである。その結果単純明解な命題が極めて神秘的なものに変質してしまうのである。宗教は、その神秘に権威を置くことによって宗教の教義を護持したが、同時に、宗教の持つ単純さや正当性を喪失してしまってのである。
 このことは、今日の近代民主主義も宗教社会と同じ末路を辿っている危険性を示しているのである。近代民主主義の根幹を為す原理は、物理的真理とは異質なものである。つまり、それは、人間の観念が生み出したものである。
 近代スポーツ、例えば、野球の一チームの人数が九名がいいか、十名が適当かということは、自然の法則のように客観的な意味で確定的なものではない。一チームの定員の決定は、純粋に主観的なものであり、経験則に基づくものである。つまり、それ自体に深い意味があるわけではない。もし、その事に何等かの意味を無理に、もたせようとすれば、どうしても独善的で、神秘的なものにならざるを得ないのである。この様に、論理の根本を為す命題は、主観の支配下にあることを忘れてはならないのである。しかも、社会やスポーツの根幹を為す原理は、万人に受け入れ易く、しかも、単純で判りやすもので在らねばならない。ところが、そこに神秘的な観念が入り込むと、途端に複雑でわけの判らないものに変質してしまうのである。
 主観的、直観的にえられる原理と言うものは、単純明解なものである。しかも、これらの原則は、主観的であるが故に、説明することが本質的にはできないのである。今日、民主主義社会が論理性を高めるためには、この単純明解さを取り戻すことなのである。神秘主義を土台とした論理が異常に発展した社会は、本来の躍動感を失い自壊していくことになるであろう。不思議なことだが釈迦にせよキリストにせよ、マホメットにせよ、孔子にせよ、開祖とあがめられるほとんどの人々は、その基礎を単純明解な戒律に置き、偶像崇拝や迷信等の神秘主義を否定しているのである。ところが時がたつにつれて開祖達のこの単純明解な戒律や合理的精神は自明化され、教義の発展と神秘主義の中に埋もれていったのである。そして、開祖達のこの精神が失われ戒律が複雑となり、神秘主義が、支配するようになった時、その宗教の硬直化、荒廃と腐敗、堕落が、始まるのである。近代社会も一つ間違えば同じ様な状況になる危険性を持っているといえるのである。その様な危険性は、民主主義や科学を絶対視し、科学の根本の理念を見失ったときに、現実のものとなるのである。特に、民主主義は、その基本的な理念が明らかにされているわけではなく、今日の民主化運動においても、幻想や神話と言った神秘的なものが、入り込み易い素地があり、充分にこの点を留意しながら根本理念を、明かにしていく事が、大切なのである。
 また、社会を構成する他の要素と道徳や倫理、社会的正義が、決定的に違うのは、他の要素が真偽をその判断基準としているのに対し道徳や倫理、社会的正義は、善悪がその判断基準となることである。そして、法の根拠は、この社会的正義なのである。真偽と善悪の判断基準の差は、真偽は、客観的な尺度を設けることがたやすく、そのうえ、定量化し易いのに対し、善悪の判断は、個人の価値観の問題であり、純粋に主観的なものである。それだけに、定量化する事の困難な基準である事である。また、人間の価値観は本来自己善であり、自己にとって自己の存在を支える絶対的な基準である。そのために、科学のように前提が変化すれば公理系も変化すると言った考え方が成立しにくく、唯一の公理系しか認めようとしない傾向があるのである。しかし、本来、人間の基本的な価値観は、それほど複雑なものではなく、多くの場合共通した部分を多く含んでいるものである。たとえば、人間が、自明な犯罪と見なしていることは、殺人、傷害、窃盗、放火、詐欺、強姦、器物破損、誘拐、拘禁と言った点で一致している。
 民主主義はこれらの上に、基本的人権として、思想信条の自由、言論の自由、結社の自由、集会の自由を加えたものにすぎない。この様に社会の基盤となる原理は、十善、十戒程度に過ぎないのであり、また、それで充分なのである。しかし、この様な道徳的に自明だと思われることも前提となる状況や動機によってその正当性に差が生じるのである。そして、現実の社会現象に適合させ様とすると、複雑で多岐にわたる巨大な体系となってしまうのである。
 歴史観や恋愛観、価値観は、主観の支配下にある。特に、重要なことは、正義観や善意識は、主観の支配下にあることである。人間の社会を構成する法や秩序の根拠となる価値体系において共通している事は、それほど多くなく、自己の存在を維持保護する事、つまり、生存に関するものに限定されてしまうのである。しかも、それすらも、価値観における優先順位は必ずしも一致していない。そういった価値観から離れた男女関係のあり方や財産に対する価値観に至っては、千差万別で統一のしようがないくらいである。なぜならば、社会の秩序を形成する価値基準は、主観的、かつ、歴史的、経験則的なものだからである。
 人間は、社会を築き上げる時、たとえば、公理系さえも絶対的でないように、絶対的な価値体系はなく、価値体系自体は、相対的なものであることを、前提すべきなのである。人間が置かれている状況や体制の変化といった前提によって、価値観の変更を余儀なくされる場合や、自己の生き方と矛盾する場合が、生じる事がある。また、人間の社会において価値体系を構成する重要な原理系は、自己対社会、自己対他者、自己対神(自然、天)、自己対家族といった具合いに、何を対象にするかによって異なってくる事柄がある。このことは、本来、唯一の公理系であるべき価値体系を、複数の異なるものに分離してしまう事がよくある。事実、自分が、どの様な価値観に基づいて行動すべきか、重大な選択を迫られる状況に遭遇した経験を、大概の人間は、しているはずである。家庭と、仕事のどちらを選択すべきか。義理と人情の板挟みといった具合いにである。結局、その時、一番前提とされるのは、自己の存在、生存なのである。しかも、自己は、主体的な存在であり、主観によって意思決定は、揺らいでいるのである。この様な自己の主体性は、人間社会の根本的前提なのである。そして、それが主権在民、すなわち、民主主義の大前提となる定理の前提となる公理でもあるのである。つまり、国家や社会を民主化するための論理的基礎を、形成する前提となる定理系は、自己の存在に対する公理から導き出される定理なのである。自己の存在公理を前提とする思想は個人主義である。このことから、民主主義体制は、個人主義を基礎とした体制であることが明白となるのである。
 道徳的に自明な事というのは、先に示したように、ごくあたりまえで平凡なことである。このごくあたりまえで、平凡なことを、命題化したのが、自己の命題である。即ち、自明な事柄を命題化したのが、自己の命題である。自己の命題を論理的に発展することによって、自由や平等といった高度な概念を、定理化することが、可能となるのである。たとえば、自由の概念を例に取ると次のようになる。自己存在は、主体的なものである。主体的な存在は、完結した存在である。完結した存在は、独立した存在である。故に、自己存在は、独立した存在である。これが、自己の独立という定理である。自由の概念は、この自己の独立の定理から導き出される。この様に、平等や自由の概念は、自己に対する公理から導き出される。
 この様に民主主義は、個人主義を基盤とした思想である。そして、個人主義は自己概念を基礎とした思想である。故に、民主主義は自己概念を前提とした思想であり、自己概念が確立されない限り、民主主義も確立されないのである。近代において民主主義が、体制として確立されながら、哲学として確立されていない原因は、自己概念が、確立されていないことである。体制として確立していながら、哲学的な裏付けがなければ、民主主義は、論理的に立証することかができないのである。そして、民主主義の論理の根本は、主体的な意志である。また、自由主義は、民主主義をを土台にして成立している。そして、自由主義を支えるもう一つの柱である経済も個人主義によって成立しなければ、政治と経済の整合性は保てない。それ故に、自己概念が確立されていないことが、民主主義体制を、常に、不安定なものとし、経済体制と政治体制の一体化を、困難している原因である。真の民主主義を確立する為には、自己概念を確立することによって民主主義の基礎概念を確立し、民主主義を基本とした経済理論を作ることによって、政治体制と経済体制の論理的な整合性を計ることによって、第三の経済体制、すなわち、構造経済を確立することが必要なのである。
 人間の道徳は、主観的なものである。価値観や行動規範に客観性を求めれば求める程、倫理性や道徳性は薄れてしまう。なぜならば、道徳や倫理は、内的な確信だからである。人間の倫理の根本は、自己の生存、即ち、生命から発するものであり、それは、生きているという自己の存在そのものによっているからである。それ故に、道徳や倫理観は、主観的なものなのである。この世界に、純粋な意味での客観的なものは存在しない。客観は、主観の支配下にある。この世の中の存在を総て客観的な認識のもとに置こうとすることは、つまり、唯物的なものの見方は、生命を否定することである。そして、それは、人間の認識から倫理観や道徳性を剥奪する結果を招く。近代医学や近代物理学はもっとも典型的な例である。物理学の結果として核兵器や非人道的な兵器が開発されたとしても、科学者の多くは、倫理的な責任を感じることはない。また、尊厳死のような医者の倫理を問われ始めたのは、最近の事である。もし、人間が個人の主体的独立性を無視することになれば、人間をただ、単なる物質として見なすことになるであろう。その結果として、人間は、人の意志と倫理とを切り離すことに何の抵抗もいだかなくなるであろう。
唯物論の対局にあるのが宗教である。唯物論は、もっとも倫理観から遠い発想である。実体のない観念は、神秘主義に支配される。しかし、同時に宗教的な確信が人間の倫理や道徳の裏付けであったことを忘れてはならない。宗教が人間に生きた倫理を提供できた背景は、宗教を創設した教祖の直観的啓示が生きていたからである。そして、その神の啓示は、万人にとって自然に受け入れられるものなのである。それ故に、本来宗教は、世俗的なものなのである。
 近代的合理精神は、論理の形態的なものにのみ目を向けてきた。その結果、民主主義は、非倫理的で機械的、無機的なものに変質してしまったのである。唯物論にせよ、宗教にせよ、その根本に人間の主観が働いていることを忘れてしまうと、論理そのものが無機質なものとなり、機械的なものに堕してしまうのである。現実の社会は、生々しいものである。この様に社会を制するためには生きた論理が必要である。生きた論理は、論理の根本の主体性が生きているときにのみ成立する。民主主義は、国民の主体的意志を土台にして成立している。民主主義の根は、人民の意志である。そして、人民の主体的な意志が働いているとき、民主主義は生きた論理を持つことができるのである。


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