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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章第8節  集合

 初めは、なにもかも混沌としている。最初から明析で明白なものなどこの世にはありもしない。我々が認識する対象は、初めは、ぼんやりとした塊である。それは、部分と全体の問題である。明析で明白にしようとすれば、部分を明らかにしなければならない。全体を個々の部分に分解して分析すると、部分は、明析になる。しかし、部分を再度組み立てて全体を構成してみると、また、部分は、曖昧となる。しかも、部分もそれを突き詰めるとまた模糊となる。丁度部分に焦点を合わせると周辺がぼんやりとし、全体に焦点を合わせると部分がぼんやりとするようなものである。この世の出来事は、絶えず混沌から明析へ、そしてまた、混沌へと移りいくのである。人は、秩序と無秩序の狭間に生きている。混沌と明白、秩序と無秩序の間を、人は、揺れ動いているのである。そして、近代という時代は、また、近代科学は、秩序を求めて形成されてきたのである。しかも、近代科学の土台は、正しさではなく、確かさなのである。それ故に、結局、現代人にとっては、何が正しいかではなく、何が確かかが、価値の根幹なのである。
 宝石箱をひっくり返したような星空。広場で遊ぶ子供達の輪。大空を群がり飛ぶ鳥の群れ。この世界には、集まりや塊はいたるところにある。銀河も星の集まりである。更に、銀河に散らばる星もよくみると星団や星雲のように星々の塊である。集団や集まりをよく観察すると、一つ一つの動きは、別々でも、全体としてまとまりを持っているように見える。また、群衆の中での動きは、個人としての動きとまったく異質な法則に従って動いているように見える。集団各々の持つ性格によっても違っている。それ故に、個としての動きとは、別に集団の動きを集団の中で考察する必要があるのである。
 また、一見一つの塊として見える物質も無数の原子の集まりである。静止して見える世界も、その内実は、動めき、変化している。目に見えない空間にも、空気や微生物、細菌が満ちている。この様に、この世は、ものの集まりによって成立している。そして、部分は、変幻自在に結び付いては、いろいろなものに姿を変える。物質は、原子の組合せによって性質も形態もまったく違うものになる。ものは、集まり、結び付き、そして、分解しながらその姿を変えていく。森羅万象、集合離散を繰り返しながら生成発展をしていく。
 ただの音の組合せが、なぜ、人を幽玄の世界へ誘うのだろう。美は乱調にあり。音の動き、音の塊が魂を揺り動かす。乱れて。乱れて。沸き上がる入道雲。うねる大波。カオス。一塊に見えるものもよく見ると細かい粒子の集まりだったりする。コロイド。混沌。乱雑とし、不規則で無秩序にみる集団の動きもよく見ると秩序や規則がある。
 個としてではなく、いくつかの要素が組み合わさることによっていろいろな特性が生じるのか、それは、一つの全体からとらえる以外に理解することはできないのである。一つ一つの部分は、意味を持たないものであっても、一つの全体として捉えた時、特別の意味を持つものがある。
 大海原を回遊する魚の群れ。流れ、渦巻、砕かれ、また、凝縮し、凝固し、集中する。山野を流浪する野猿の集団。その動きは、各々みんな違って見えるが、その中に、なにか共通している法則が、隠されているように思える。大地を疾駆する野牛の群れ。渦を巻き、ぶつかり合い、暴走する。一見、脈絡も、意味もなくうごめいているかのように見える塊も、その背後には、偉大な力が働いているのである。
 男は女と出会い、愛し合い、子供を生む。子供達は、子供達の集団を作り、仲間となって活動を始める。家を離れ、新たな家を興す。家が集まって村落を形成し、集落もやがて街に発展し、都市となる。この様に家族は、地域社会に、地域社会は国家に、国家は国家連合に発展し、吸収されていく。細かい雨は、河となり、大海に注ぐ。集まり、集まり、そして、離散する。集合。それは、全ての基礎概念である。
 集団には魔力がある。人は群れると爆発的な力を持つ、そして、狂う。一人といるときと仲間といるときでは、人は、違う行動をする。そして、時に予測のつかない結果をもたらす。映画館や群衆が火事のような突発的な出来事に出会うと恐慌をきたし、普段考えれないような行動する。集団に飲まれると我を忘れて常軌を逸した行動をとる。それが悪い方向に向かえば暴動のような破壊的な働きをし、また、いい方向に向かえば革命のような世の中の変革に向かう。日頃は、羊のように従順な民衆が自由を求め権力に立ち向かっていき、それがやがて革命に発展をして歴史を変えたように、一度、群衆に勢いがつくとそれを誰もおしとどめる事はできない。一人の力で何ができると言うのか。人は、力を合わせてこそ大きな仕事ができる。烏合の衆も組織され訓練されると爆発的な力を発揮する。人類の偉大な功績は、組織があってはじめて成就するのである。集団には、底知れないエネルギーが秘められている。なんとだいそれた事をしたのか。徒党を組むと、日頃あんなに弱く、臆病な人間でさえ大胆に、そして、狂わせてしまう。恐慌。集団は、力。集団は、狂気。欲望と怨念が、凝縮され、かたまり、人の世を作る。人間は、群れたがる。混乱。雑然。類は友を呼ぶ。人は出会い、別れ、そして、集団を作り、それを組織化する。集団の持つ力を正しい方向に向けることは、人類永遠の課題である。
 この世界は、いろいろな要素の集合体である。人間の肉体も、肉や骨、血液といった個々の要素の集合体と考えてもさしつかえがないのである。肉も、また、細胞の塊である。青空に広がる雲は、一つの塊に見えるが、実体は、水滴の集まり。全体を構成する個々の部分もよく見ると、いろいろな要素の集合体である。また、一つ一つは、何の意味も力もないものが、集まって一つの全体を作ると一つの意味や大きな力を発揮することがある。つまり、この世は、いろいろな要素の集合体であると同時に、いろいろな要素は集合するとまったく違った働きや機能、運動をする事があるのである。
 同じ人間の集団でも、よく訓練され組織化された集団と烏合の衆とは違う。同じ炭素の結晶体でも、黒鉛とダイヤモンドとは、硬度が、全然違う。この様に、個としての存在が、集合したり、集団となるとまったく別の意味を持つことがある。また、集合体の内部、外部に、そして、自律的に、他律的に働く力によって集団全体の働きや動きに違いがでくる。特に、人間の社会においては、顕著である。それ故に、個としての存在や運動を問題にするだけでは、人間の行動を理解することはできない。集合を構成する個々の要素の働きを全体として捉えると個々の働きや機能がより明確になるのである。
 社会は、民族、宗教、男女、人種、思想、世代といったいろいろな部分集合の集合体である。社会全体は、階層的、横断的、また、縦断的な部分集合が複雑に入り組んで構成されている。この様な社会構造を前提にして建国されたのが民主主義体制である。それ故に、人間の社会に存在する部分集合を尊重し、部分集合を包括する形で全体集合の基礎概念を確立して、国家を一つの構造によって統治しようというのが、民主主義の基本概念である。そのために、必然的に個々の集合体の個性や同一性を妨げずに、いかに個々の集合を全体の集合によって包括するかが重大な問題になるのである。そのためには、個々人の思想信条、人種や民族といった個人の属性に関する是非を問題にすると、集合全体と部分を構成する集合の整合性がとれなくなる。全体と部分との整合性を保つためには、個としての人間の共通した部分のみを対象にしなければならなくなる。そして、その共通項の中で、国家社会関係を、維持していくための最低限の取り決めを、制度化する事によって成立しているのが、民主主義社会なのである。それ故に、民主主義社会において基本的には思想信条の問題ではなく、制度的、また、技術的なことが最大の問題となるのである。そして、国家、社会を個人の属性から切り離して、純粋な個としての個人を、基本単位としなければ社会全体の土台となる前提と社会を構成する部分が、対立することになってしまうのである。つまり、民主主義体制は、国家、社会を個人の集合体として規定し、個人を基本単位として成立している社会なのである。個人の集合としての社会を前提とする以上、民主主義体制の成否は、いかにして個人を純化し、個人に対する概念をいかにして確立するかが鍵を握るのである。
 近代以前の社会では、個々の集合体が独立していて、相互の交流が少なく、比較的単純な社会であったが、今日、個々独立していた集合体が混ざりあい、社会そのものが、複雑化してきている。つまり、近代以前の社会集団は、閉ざされた集合であったが、今日の社会は、開かれ、相互に交流しあう集合、社会なのである。この様に、いろいろな集団が、混在した社会が、常態化したのが、今日の世界の姿、様相なのである。このことは、近代社会が、拡大するに従い、深刻な対立や、社会不安を、引き起こす原因となっているのである。近代社会の対立や社会不安を解消するためには、単一した世界観から、複合的な世界観へと転換し、それらを共存させる事の可能な体制を確立することが、今日、人類に課せられた急務なのである。そのためには、個々の民族や人種の相違点ではなく、人類の共通点を依りどころにして立ついがいにないのである。つまり、民主化は、人類を標準化していく一面に持っているのである。そして、それが、民主化の根本的な理念でもあるのである。それ故に、民主主義において人間性、人としての一般的あり方が強調されるのは、当然の帰結なのである。人としての一般化は、即、社会を人の集合概念として確立することを意味するのである。
 現代は、閉ざされた集合体から、開かれ、更に、混じりあった集合社会への移行過程の時代なのである。民主化が推進され、また、民主化を実現しなければならない動機は、この様な歴史的な転換に求めてみてもおかしくないのである。つまり、民主化が実現されないかぎり、個々の集団間の摩擦や抗争は跡を立つことができず、最終的には、同じ天を仰げないほどの亀裂に、発展する可能性をはらんでいるのである。しかも、今日のように兵器が発達している世界では、大国間や民族間の争いが、人類の滅亡といった事態まで発展する危険性を、常にはらんでいるのである。また、今日、人類が抱えている問題点は、地球的規模にまで発展し、世界中の国々が体制や思想の差を乗り越えて共同していかないかぎり、抜本的な解決が不可能なのである。それ故に、この様な対立や争いに終止符を打ち、人類が恒久的な平和を実現するためには、どうしても、世界の民主化が達成されなければならないのである。そして、私達が民主化を推進するためには、この社会の、集合性や複合性を正しく理解しておく必要があるのである。
 科学は、集合体を一つの枠の中に閉じ込めようとした。しかし、現実の対象は、一つの枠の中に納まるようなものではないのである。集合体を一般化すると言うのは、集団の中から共通の要素や集団を規制する法則を見いだすことであり、集団を確定することではない。現実の対象は、常に、概念とは別の次元に存在するものであることを忘れてはならない。ただ、今日、集合の概念は、数学的な集合の概念の上に立脚している。その意味で、数学的な集合の概念を理解しておく必要がある。
 数学で言う集合は、先ず最初に数があるが、実際の集合は、ものがまず最初にある。物質は、原子の集合、また、人間が細胞や血液、骨の集合である。数学的な集合は、この様な集合体から定量的な側面を抽出したものである。集合体の定量的な側面を抽出する事によって数の概念は形成された。故に、数の概念は、高度に抽象的な概念である。しかし、ここで扱う集合は、数学的な集合だけでなく、より実体的なものをも含む。即ち、我々の対象とする集合とは、ただ、数量化されてものの集まりと言うのではなく、個々の要素が各々属性を持ち、あるいは、個々の要素が働きや、機能、運動を持った集合体をも含むのである。そのうえで、物体を何等かの全体として捉え、個体としての動きからだけでなく、全体としての運動として考えるていくのである。また、更に、集合の概念によって対象を分類、分析するための基礎的な理念を明らかにするのである。
 また、集合は、事物や概念、体系の集まりでもある。集合は、事物だけでなく、命題や法則の集合もある。書物は、言葉の集合である。この様に、集合を構成する要素は、事物とは限らないのである。集合は、それを構成する要素によって性格づけられるのである。つまり、ものの集まりとしての集合のみならず、概念的な集まりをも含めて考えていく。
 集合の働きを知るためには、集合を構成する要素、部分を知らなければならない。しかも、集合の要素を知るという事は、塊としての全体を分解し、抽象化する効果も副次的に派生させるのである。そのために、集合の概念は、対象を分析する重要な概念に発展するのである。全体をいくつかの部分に分解することによって対象全体を解明しようとする手法が、分析的手法である。そして、この様な分析的手法こそ、現代科学の基礎を築いたものである。つまり、複合的な全体をいくつかの単純な部分に分解することによって、複雑なものを単純化する、それが、近代科学の考え方の基本なのである。
 人間は、部分を、最初から、判明で明析なものとして認識するわけではない。人間が最初に外界を認識する時、対象は、色と光の塊に見えるそうである。また、言葉も判別できず、雑音に聞こえると言うことである。自分の母親を最初から母親として明確に認識しているわけではない。つまり、最初は、漠然と、ぼんやりと認識しているのである。
 広場に集まる大群衆を観察した時、一人一人の人間の存在や行動は、判明であるが、全体としての群衆の明確な数や行動を把握することは、極めて困難である。この様に、現実の集合は、部分として判明でありながら、全体は、不明瞭なものが、結構あるのである。点描画の部分を拡大すると色の点の集合にすぎない、しかし、それを離れて見ると一つの絵になる。この様に全体として判明でありながら、部分が不明瞭なものもある。全体から部分を識別する場合、対象を対比し、全体との関係から導き出すのである。故に、部分と全体は、相関関係にあるのである。
 人間は共通のいくつかの要素を持っているが、誰一人として同じ人間はいない。また、人間は、概念や観念によって人間を、識別していてるわけではない。本質的に人間は、直感によって人間を識別しているのである。つまり、人間は、たとえば、太郎さんなら太郎さんを、一つの完成した全体としてまず捉えるのである。そのうえで、他との比較によってより高次の人間として一般化したり、手や足といった部分を識別していくのである。また、対象を一つの塊として捉えようと、集合体として捉えようと、対象を他のものと分割した段階で対象は相対的なものとなる。
 数学において、集合とは、個々の部分が明白に弁別できるものでなければならない。しかし、それは、概念的なものであり、現実の対象は、ここの部分を明白に弁別できるものばかりではないのである。全体から部分を識別する仕方にはいろいろなものがある。その様な識別の仕方の中から集合の概念は形成されたのである。ただ、いずれにしろ、全体から部分を判別すると言うことは、部分をどの様に規定するかによって決まるのである。つまり、数学的な集合とは、あくまでも抽象概念である事を忘れてはならないのである。
 抽象とは、観念に投影された対象の陰影に他ならない。この様な抽象的な概念は、最初は、部分としてではなく、一つの全体として捉えられる。しかも、何を全体とし、何を部分とするかは、任意な意思によって決まる。
 全体と部分は、何を基準にして対象を測るかによって違いがでるのである。故に、全体と部分に対する概念も相対的なものである。集合とはものの集まりである。人を一己の人間として見なすか、組織や社会の一部と見なすかは、その人を問題にしている事柄の性質や目的によって決まるのである。この様に、集合の概念と相対の概念は、相補的な関係にある。
 人間の認識は、対象を一つの全体として捉えることから始まる。つまり、人は、対象を一つの塊として最初は捉えるのである。塊である実体を特定の次元に照射することによって対象の特性を引き出すのである。人間の観念は、この様にして一旦とらえた対象を、他との比較によって、より高次元のものに昇華する事によって一般化し、そして、対象を構成する部分や要素に分解する過程で形成されるのである。集合の概念も、相対の概念もその過程で生じたのである。
 また、概念は、対象を分析する目的によって変化する。対象を一つの塊とみるか、また、ものの集合としてみるかによって対象の捉え方に差がでるのである。人は、一つの塊としての運動か、そのもの自体に関心を持つのである。我々は、人を観察する時、その人自身か、その人の行動に関心があるのである。同様に、運動に関心を持ってば力学的な方向に向かい、そのもの自体に関心を持っては分析的になるのである。つまり、対象を分析する目的とその意味は対象側にあるのではなく、自己の側の問題なのである。つまり、概念は、常に主観的なものなのである。科学は、客観的な概念を土台にしているのではなく、第三者に検証することのできる条件を明確にしているに過ぎないのである。それ故に、どの様に前提に依って対象を分析したのかを、科学者は、常に明白にしておく必要があるのである。
 対象を識別する過程で、対象を条件づけ、いくつかの全体、ないし、部分に分割をする。それは、実際に対象を分解する場合もあるが、観念の上で行うこともある。そして、この様に集められたものを特定する事によって集合の概念は、形成される。この様にして形成された集合の概念は、数の概念と結び付くことによって更に整合化される。
 任意の集合を一つの体系に映し、集合の特性を分析する事を写像という。一つの集合を基準系や次元に写すことによってその集合の特性を分析したり、幾つかの集合に分割し、分類することが可能となる。この様に、集合体を基準系や次元に投影する事を写像といい、また、分割された集合を部分集合と言うのである。二つの集合の間に一方の値を決めると他方の値が決まる一対一の関係が成立する時、両者の関係が関数的な関係にあるという。つまり、二つの集合の元が何等かの規則によって一対一の関係で結び付けられている関係を関数関係と言うのである。また、関数関係によって一つの集合が他の集合に写し替えることを写像と言うのである。
 対象を何等かの次元に写像する事によって集合を単純化し、抽象化する事ができる。単純化、抽象化することによって更に集合を特定する事ができるのである。科学とは、一旦この様に一般化、単純化する事によって得られた結果を還元する事によって対象を理解し、概念を発展させてきたのである。単純化、抽象化を突き詰め、属性を総てはぎ取ると数が残る。数学的な次元まで抽象化がすすむと集合の属性は数値的な性格に限定されてしまう。このように、数学的な次元まで抽象化されたとき、定量的な分析が可能となるのである。このように対象を数量化することによって科学は、数式をその理論の基礎に据えることができるのである。
 任意の対象を特定の基準系に写像すると対象の個性がより鮮明に浮き上がることがある。この様に、認識の次元を下げていき、最終的に対象を単次元的なものに写像することは、対象の分析にとって有効な手段である。対象は、複数の要素の集合体である。多元的な対象をそのまま認識するより、単純な像に写像した方が、対象の性格の輪郭をとらえ易くなる。たとえば、人の顔を平面的な写真や絵のようなものに写し、いくつかの角度から写したものから顔の輪郭を捉える方が、よりその人の特徴を捉えられるようにである。この例からも判るように、認識の次元を必要に応じて下げた方が、対象の個性をより鮮明にする事ができるのである。
 対象の持つ属性が取り払われ、対象が単純化、抽象化される事によって集合を特定化する事ができる。任意の集合が特定されると、集合は、何らかの要素やものの集まりになる。要素やものの集まりとしての集合の概念が成立すると、今度は、逆に、要素や前提条件によって集合を特定する事が可能となるのである。つまり、前提条件や定義によって集合を特定する事ができるようになるのである。帰納法的に求められた集合の性質や定義を基にして演繹的に集合を特定することが可能となるのである。この様にして定義された集合とは、ある特定の性質や定義によって条件づけられたものや要素の集まりである。特定の性質や定義によって条件付られた集合には、個々の集合それぞれ固有の属性を持つ。つまり、集合を定義することによって集合の持つ性格がより鮮明になるのである。対象の持つ属性を明らかに事によって個々の対象は、属性毎にいくつかの範疇に分別され、集合化される。この様に、対象を属性によっていくつかの集合体に分別する事を分類という。前提条件や性格付を高めるほど集合は、細分化され、組分けされていく。この様に組み分けされた組を、体系的に整理する事によって、科学は、進歩したのである。
 集合化とは、対象を抽象化、単純化する過程で、概念を体系的に組み立て、整理する事を意味する。抽象を突き詰め対象の属性を取ると、数という性格だけになる。数は、対象の属性に拘束されない性質である。それ故に、対象を抽象化する事によって科学は、数学という共通の言語を持つことができるようになったのである。単純な次元に対象を写像し、それを還元する事によって対象を、より多元的空間的に捉えることも可能となったのである。また、科学的理論の根幹に集合の概念を用いる事によってより柔軟な体系が構築できるようになってきた。この様に、集合の概念は、近年、科学、数学の基礎理念として再編成されつつあるのである。
 単純な次元を組み合わせることによって対象をより立体的に捉える事ができるようになる。同時にそれは、対象を相対的な次元に置き換えることを意味する。次元を組み合わせることによって相対的な関係を明らかにすることが可能となるのである。この様にして人為的に作られた空間に対象を一体一に対応させる、即ち、関数関係を成立させることによって、対象間の演算も可能となるのである。相対的関係を一次元的基準に置き換え、その基準系を組み合わせて対象を分析することを線形分析という。組み合わせる基準の数で対象を分析する次元の数が決められるのである。例えば、左右、上下、強弱、高低、善悪といったものである。この様に基準系を組み合わせることによって対象を多元的に分析すると共に一次元的な基準に写像することが可能となるのである。お互いに独立した関係の基準系を線形独立という。その基準の中心、または、原点は自己の投影である。つまり、自己を対象に投げ出して客観的視座の中心とした点が原点である。
 現実の対象は、非線形的なものが、ほとんどである。しかし、近代は、線形的な関係を土台にして構築された。理念的に対象を捉え、それを応用するためには、線形的な扱いは、極めて有効だからである。線形的な分析によって導き出された概念を現実の世界に還元することによって近代科学は成立してきたのである。だが、現実の世界は線形的な概念によって全てが定義できるほど単純なものではない。近代的な世界に於て線形的な発想が力を得たのは、科学の法則を説明したり、また、近代の技術革新にとって好都合だっただからである。最近、非線形的な物の見方が見直されつつあるのは、線形的な物の見方だけでは、解決することのできない対象が発見されたからである。それは、現実の対象のほとんどが非線形的な物であることの当然の帰結である。線形的な発想は、即ち、認識者側の便宜上から生まれたものであり、その事を前提としている限り有効な概念なのである。
 対象を単次元的なものに投影することは、対象を分析する為には、極めて有効な手段である。しかし、だからといってその対象と基準系を同一視することはできない。例えば、性的次元に人間の性格を投影する事は、人間の精神構造を分析する手段として有効であることは、立証されている。しかし、だからといって人間は、性的な存在であると断定する事は、間違いである。元々、人間は多元的な存在である。人間を性的という単元的な次元に投影するのは、その人の持つ特性を分析するための手段に過ぎない。その人の実体を知るためには、いろいろな次元を掛け合わせて多元的なものに還元しなければならないのである。
 理念的な集合は、線形的だが、現実の集合は、非線形的である。また、個体の運動より集合体の運動の方が、当然複雑である。なぜならば、集合体の運動は、全体の運動と部分の運動があるからである。それらが、複合されることによって不確定な動きとなるからである。それ故に、現実の集合体の運動の基礎は、確率、統計的なものや蓋然的なものである場合が多い。つまり、再現性のない、不可逆的なものがほとんどである。
 現象は一回かぎり。千差万別な現象から一つの法則導き出すのは、結局、直観に頼るいがいにないのである。人間として変わらなくても同じ人はいない。人間の概念や定義を理解できない幼子でも、一人一人の人間を、識別することはできる。女性をただ、女と一把一絡げに言うことは恐ろしいことだ。そこには、相手の人格が窺えない。雪の結晶の基本形は、六角形をしているが、現実の雪の結晶に同じものはない。現実とは、このように共通な面を持ちながら各々個性があるのである。人は、いろいろな動物の中から人を識別することができる。しかも、指紋によって人が識別できるように、現実の世界では、まったく同一のものと言うものは殆ど存在しないのにである。集合は、明確に区分されたものの集まりだと規定しても、結局、明確に区分しているのは、自己の主体的な直観に他ならないのである。つまり、客観的だと考えている認識でも主観的な直観の支配下におかれているのである。
 線形的な発想は、現象を単純化し、部分化する事によって対象の背後にある法則や論理を解明する事に目的がある。科学は、まさにこの目的に沿って発展してきたのである。つまり、個体の運動を純化することから法則を導き出しているのである。そして、その結果、技術革新がおき、人々の生活様式を根本から変えてしまったのである。確かに、技術革新は、人々の生活を豊かなものにした。一度、文明生活になれ親しんだ人間にとって、産業革命以前の生活に戻る事は、困難であろう。
 しかし、科学の一般化、唯物化、還元主義、単純化が行き過ぎてしまえば、自己の主体性の否定につながることを忘れてはならない。しかも、有機的な存在、生物は、本質的に複雑怪奇な存在である。人は、理性と欲望の間で揺らめき、不確実で、予測不可能な行動をする。世の中には割り切れないものがたくさんある。人間は、感情の動物である。たで食う虫も好き好き。人の心は不可解なものである。人類が好きになる人のタイプを一般化することはできない。その様に、矛盾し、でたらめで、いいかげんで、不安定で移り気なものが、現実の世界である。それ故に、現実の世界は、説明のつかない、そして割りきることのできない現象に満ちているのである。ところが、科学は、この世のなにもかもを単純な世界に還元し、割り切っていこうとする。そのために、自然環境は、破壊され人間の個性派喪失して、精神の荒廃が始まったのである。個性の尊重、自然への回帰、人間性、創造性が叫ばれて久しいのは、この様な科学の弊害に対する警告なのである。現実の世界、特に、集合体は、非線形的な空間、社会であることを忘れてはならない。
 現実の社会や自然は、非線形的なものである。世界の実相は、カオスであり、フラクタルなものである。つまり、でたらめで、いいかげんで半端で、曖昧模糊としたものなのである。現実の集合体とは如何なるものかを、次ぎに、解明していきたい。そうした、現実の実相を正しく直視し、新しい科学を再構築し、民主主義の理念を確立しないかぎり、新しい時代は、迎えられないのである。
 今後は、社会科学の分野においても集合の理念は、重要なものになるであろう。例えば、日本人とか、有権者というものをどの様に定義するかによって政治経済の根本まで変革させてしまう可能性がある。しかも、この事は、国民の権利と義務の及ぼす範囲を特定することを意味することになるのである。日本人、ないし、日本国民と言うものをどの様に定義するかは、日本人という集合を確定することを意味するのである。そして、国籍に基づく権利を基盤とした社会においては、法的に定義される事によって確定される、日本人の集合の範囲が、重要な意味を持つことになるのである。この様な問題を扱う場合、集合の定義を明確にしておく必要がある。ところが、この様な日本人に対する定義によって確定された集合体は、必ずしも、従来、我々が、直感的に捉えている日本人像と同一なものになるとは、限らないのである。
 現代社会は、集合の塊である。しかもいくつものの集合が重なり合い、さしずめモザイクのような状態を呈しているのである。その上、これらの集合は、人為的な集合もあれば、歴史的な集合、自然発生的な集合もあるのである。近代社会は、市民や国民を思想的に、また、論理的に定義し、人為的な集合概念を土台にして築き上げられてきたのである。この様に、定義に基づいた社会は、その定義を実体的なものとするための手続きが重要になるのである。近代社会に於て合理性や論理性が貴ばれるのは、人為的な集合概念を土台にしたことによる必然的な帰結である。
 集合を構成する元の範囲は、定義付けや条件付によって設定される。集合は、定義や条件によって範囲が限定される。言い替えれば、集合は、定義付や条件付によって値域や領域が設定されるのである。値域や領域が設定されることによって論理的な厳密性は高まるのであるが、反面、この事は、対象に対する概念が、対象から遊離し、概念が対象を逆に限定する傾向を生じさせる。つまり、集合に対する定義、つまり、概念付が対象の性格を逆に限定することにもなるのである。特に、数学に於てその傾向は顕著である。そのために、現実の集合を考える時、単純に数学的なものだけに投影することは、困難である。
 従来の数学の集合の概念は、明確に区分できるものの集まりであった。しかし、最近、この様な集合の概念に曖昧なものが加わりつつある。そして、現実の集合は、曖昧なものを多く含んでいるのである。
 自然科学は、定義づけによって物理的に集合の範囲が限定できるものが多い。ところが、社会科学においては、この定義や条件付が曖昧で、そのために、範囲が限定できずに値域や領域の境界線が確定できないものがある。抽象化が難しかったりして、性格的に定義したり、条件付る事が、困難な対象は、集合の範囲を確定することが困難である。例えば、政治的な意味での宗教や民族の定義のような問題は、いろいろな勢力の思惑や歴史的な問題が、絡んで一定の定義を特定することが、極めて困難である。つまり、宗教や民族、人種に関して一つの集合としてくくることができない問題があるのである。一つの集団を、横断的にも、縦断的にも、統一された一つの集合として定義する事が、困難なのである。そのために、社会は、いくつもの集団が複合的に重なりあった社会として見なさなければならないのである。
 集合の概念は、元々抽象性の高い概念である。この様な概念を現実に活用するためには、色々と難しい問題を必然的にはらんでしまうのである。ただ、集合の概念は、論理の基盤を成立させているものである。つまり、集合の概念をしっかり理解しておかないと合理的な発想は、成立しないのである。つまり、個々の概念の定義を明確にすることによって論理の基礎が形成されるのである。ところが先にも述べたように、現実の問題には明確に定義することが困難なものが多くある。できるだけ厳密な定義にしたがって論理を組み立てようとしても、どうしても曖昧なものを含んで定義していかなければならないのが現実である。特に、日本人は、勝手にレッテル張り付けて定義を曖昧にしたままで集団をくくってしまう傾向がある。ところが、現代社会は、曖昧な定義で自分勝手に集団を特定したり、それに基づいて議論を成立させるほど甘くはないのである。そのために、日本の政治や経済の合理的な正当性は、極めて脆弱なものになってしまっているのが、実状である。
 現代社会は、社会を形成する集合や要素を、どの様に定義するかによって築き上げられたといっても、過言ではないのである。人間を、民族を、宗教を、国民を、企業を、犯罪者をどの様に定義するかによって、社会の基盤となる思想が、確定するのである。しかも、近代の法治主義は、従来、我々が、直感によって漠然として捉えていた概念ではなく、法によって明確に定義された集合を、その根拠とするのである。つまり、国民をどの様に分類するかが、近代法の根幹を為しているのである。そして、それに基づいて国民の権利と義務が細かく規定されるのである。例えば、成人と未成年者の権利と義務の差、妻帯者や親の義務は、法的に定義された分類に基づいて為されるものである。この様に、集合の概念は、近代法の基盤を形成しているのである。
 人間性と言う属性以外の属性を排除し、人間性以外の属性を自己の自由な判断に任せるのが民主主義である。国王や独裁者と言った個人、全体主義や国家主義と言った権力機構による支配ではなく、国民という国家を構成する要素、元を最小単位として成り立つ国家体制が民主主義である。この事は、民主主義は、より集合的な世界である事を示しているのである。近代は、科学にせよ、社会、経済にせよ集合の理念を下敷にして発展してきたのである。
 近代社会を構成する四つの要素、即ち、近代科学、近代会計学、近代スポーツ、民主主義は、集合の理念を何れもその根底に抱いている。形而上的な集合の理念によって形而下の現象を理解し、支配しようとする考え方である。
 集合には、形而上のものと形而下のものがある。そして、形而下の集合には、有機的集合と無機的集合がある。形而上的な集合とは、数学や論理と言った観念によって形成される集合である。形而下の集合とは、実体的なものの集合である。今日、形而上的な集合概念が、形而下の集合概念より発達している。また、形而下の集合の働きや運動は、形而上的な力に支配されているという観念が、近代科学の基礎を形成している。つまり、形而上的な集合ではなく、形而下の集合体の働きを考える時、集合体に形而上的な力がいかに作用しているかが重要な問題である。そのために、形而下の集合は、形而上的な集合概念の下位におかれる場合が多い。しかし、現実の社会は形而下の集合体が主である。現実の社会を理解するためには、形而下の集合概念の解明かと確率が肝心なのである。
 形而下の集合概念には、有機的な集合と無機的な集合がある。今日、無機的な集合に関しては、自然科学の発達によって、形而下の集合の概念が確立されていないとはいえ、かなり研究が進んでいる。それに対し、有機的な集合に関しては、まだまだ、研究の過程である。しかし、人間の社会に一番近い集合は、有機的な集合であり、国家や経済活動の解明にとって重大な鍵をこれから握るものと思われる。
 現代社会において法や哲学といった形而上的な集合が、土台となって現実の社会形而下の集合を成立させている。物理的な世界も、法則や数学と言った形而上的な集合の論理が形而下の現象を説明するために用いられている。しかし、形而上の法則も、結局、形而下の現象から導き出されたものである事を忘れてはならない。しかも、現実の集合は、カオスである。無秩序で乱れた運動や状態を常に呈するものが多い。現実の現象は、同じ現象を繰り返すことは稀である。ほとんどが二度繰り返されることがない。自然界には、一つとして同じものはないといっても過言ではない。それは、現象が集合的であるからである。この事が観念によって作り出された集合との違いである。そして、現実の社会は、混乱と無秩序の中にあるのである。この様な、無秩序で乱れたものの中から秩序を見いだし、または、秩序を与え、状態を安定させる事が、社会においては平和を、自然においては環境の保護を維持するために不可欠なのである。故に、現実の社会を問題にするとき、形而上のみならず形而下の集合両面から検討する必要がある。
 形而下における集合の研究は、混沌、混乱、雑然としたものや状態、現象の研究である。近代社会が集合の論理を土台にしているならば、人間の社会の出来事も、自然界の現象も集合的な運動を土台にしているといっても過言ではない。流体や状態の力学は、まさに、集合の力学であり、群衆や組織の心理学は、集合の心理学である。この様に、集合は、自然科学、社会科学の根底を為す現象なのである。それ故に、現実の集合体を考察することは、混沌や乱流、無秩序を考察することでもあるのである。それは、全体としての形、姿勢をどうとらえるかが重大な鍵となる。
 集合体においてその姿と集合体を囲む、ないし、集合体のおかれた状況が重要な意味を持つのは、集合体を全体として捉える関係上必然的な帰結なのである。集合体には、形や、姿がある。そして、集合体の形には、いくつかの基本型(パターン)がある。基本形の特徴は、位相として現れる。
 外的、内的な状況の変化を様相の変化という。
 基本型の中で重要な要素にシンメトリー、対称性がある。多くの集合体には、対照的な部分と非対称な部分が含まれている。人間の顔は、構造や形態からみると左右対称であるが、その様相は非対称である。
 我々の身の回りには、対称的な部分を含んでいる集合体が多くある。この対称性を発見する事は、科学の重要な役割の一つである。好例が、人間の肉体である。人間の肉体は、無数の細胞から成っている。この細胞は、対称型な部分を含んでいる。細胞は良い例だが、人間の体の中には、多くの対照的な部分が隠されている。その対称的な部分を抽象化する作業は、科学の重要な仕事である。
 逆に、多くの部分は非対称である。この対称的な部分と非対称的な部分の関係や様相によって人間は、対象を識別している。 
 シンメトリーに似た概念に自己同形がある。自然界においては、部分と全体が自己相似形である集合体が多くある。また、人間の社会制度は、自己相似形である場合が多い。
 現実の集合体を考察する場合、その背景が重要な要素となるのである。つまり、集合体を成立させている前提が重要なのである。集合体は場の力の作用によって一定の法則や秩序が与えられる。また、状況や環境の変化によって場の力の作用が変化したり、また、構造が変化によって集合体に働く力の作用も変化する。また、集合体内部で働く力や相互の関係によって、同じ構成要素であっても、全体の動きが、まったく違ったものになる場合もあるのである。
 集合体の運動では、個々の運動より、全体の状態が問題である。集合体を構成する要素、元の散らばり、均衡、働き、関係が全体の状態を左右するのである。そして、集合体では、その姿、形、像が重大な鍵を握っていることが多いのである。姿や形、像の均衡や秩序、規則は、その背後にある法則によって支配されている。集合体の集合体としての動きを観察する時、この規則や秩序、均衡は重大な要素である。
 集合体の状態を均一に安定した形で維持することは難しい。規則や秩序は、乱れ易く、しかも、一度、失われると回復しないことが多い。つまり、規則や秩序は不可逆的な傾向の高いものなのである。この様なことをエントロピーの増大という。諸行無常と言うように、一般には、自然状態では、エントロピーは絶えず増大していると言われている。この様に、集合体の姿、形を維持し続けるのは、大変に難しいのである。
 対象の捉え方には、主観的蓋然性と客観的蓋然性がある。好きなものの基準、若いものという基準は、主観的なものである。
 科学は、長いこと、客観的蓋然性という概念に振り回されてきた。しかし、科学は、本質的な主観的な体系である。だからこそ、仮説・仮定を前提としているのである。ところが、科学技術の成果が、科学をあたかも絶対、普遍的な体系として錯覚させた。それが一対一的な論理によって決定論的な体系としての科学認識を定着させてしまった。しかし、集合的な論理は、一対一的な論理ではなく、一対多、多対一、多対多的な論理である。そして、本来の事象の多くは、一対一的なものではなく。一対多、多対一、多対多的なものなのである。
 近代文明の基礎を築いた欧米の思想は、単純化と明析さと実証性を重んじた。つまり、対称を単純で明確なものに還元する事ができると考えたのである。それは、欧米の庭園に端的に表れている。欧米の庭園は、直線と曲線によって描かれた幾何学的なものが多い。しかし、自然界に存在するものは、幾何学的なものは、実際には少なく。むしろ、曲線や不規則な線によって構成されている。そして、特に、日本人は、この様な自然の在りようをそのまま生活の中に取り入れてきたのである。
 人間の社会は、ドロドロとした愛憎の場であり、その人間関係は、単純なものではない。何を是とし、何を非とするかは、主観的問題である。それ故に、人間の社会を非蓋然的なものとして自然科学と同一の次元で語ることはできない。
 集合体にも自律的なものと他律的なものとがある。自律的な集合とは、集合を構成する要素各々が自律的な動きをするものか、集合全体が自律的な動きをするものであり、他律的な集合とは、個々の要素や全体が他の集合の支配化にあるものを言うのである。つまり、自律的な集合体は、自分の姿形を自律的に維持、変化させることのできるものであり、他律的な集合体は、自分の姿形を自分以外のものの力で維持、変化させているものである。
 自律的な存在が集合すると集団化する。集団は、関数的な運動より、確率的、統計的な運動をする傾向が高い。集団には、政治的な次元、経済的な次元、文化的な次元といった複合的な次元に写像することができる。そして、集団や個人を個々の次元に投影する事によって対象の背後にある基本的構造を解明したり、再構築することが可能となるのである。
 民主主義は、論理的な世界である。法治国家において、犯罪は、論理によって決定される。犯罪は、論理的に作られるともいえるのである。論理が違えば、犯罪も違うのである。それ故に、近代的な法治国家では、犯罪を裁く時、原則的に情実は入らない。そのために、善と法との間に微妙な乖離が出始めているのである。つまり、内面の善に法の論理がとって変わろうとしているのである。この事は、人間の価値観の根本が論理的なものに変質してきたことを意味する。人間が、自己の存在や内面の価値観によって自分を律するのではなく、法によって善悪の判断を下す。逆に言えば、法に違反しなければ、また、罰せられたり、ばれなければ許されるのだという意識が、人間の存在そのものから発せられる道徳観にとって変わろうとしているのである。民主主義における重大な危機は、自由な意思の尊重という理念が、実は、法の論理によって主体性の崩壊につながりかねないことである。集団化ら主体性が喪失すると民主主義の根幹を為す、個人の主権と理性の崩壊につながることを忘れてはならない。民主主義が、民主主義の持つ活力を失わないためには、法の論理だけではなく、個人の道徳観や情操を重要視する必要性があるのである。
 社会は、多くの集団、共同体が集まって構成される。その個々の集団、共同体の在り方と、集団、共同体間の関係が、社会の在り方を規定する。個々の集団、共同体を部分と見るか全体としてみるかは、認識上の問題である。相対的な問題である。また、個々の集団、共同体の有り様をどう考えるかによって社会体制の在り方も代わってくる。
 集合を解りにくくしているのは、集合を語る時、集合を論理的にのみ説明しようとするからである。集合こそ、具体的に説明はなければ解らない概念である。
 例えば、人間ついて考えてみよう。人間を分類するのに、いろいろな括り方がある。人種、性別、民族、言語、国籍、言語、思想、宗教、職業、年齢、履歴、学力、資格、特徴、血液型、身長、体重、名前、家族、祖先、さらに、生物学的な分類も必要である。
 この様な分類をしていくとでは、人種とは何かの定義が必要になる。では、人種とは何かの定義が必要になる。また、境界線に属す者が出てくる。そこに集合の概念が必要になるのである。
 論理というのは、それ以前の仮定の話に過ぎない。それに留意して集合は考えなければ理解できないのである。
 家族とは、何か。家族をどのような集合として捉えるか。この様な捉え方をしてこそ集合は、有益なのです。集合の基礎となる要素・命題の定義こそが鍵となるのである。
 家族とは何かを定義していく上では、その下位の次元に、親子とは何か。夫婦とは何か。兄弟姉妹とは何か。また、親族とは何か。共同体とは何か。家計・生計とは何かといった定義が必要となる。また、この様な定義そのものが集合を形成することになる。
 更に、親とは何かを取り上げてみると、父親とは何か。母親とは何か。子供とは何かを命題群によって定義する必要がある。そして、親子間の関係の命題群、父親と母親、子供の働きを現す命題群を定義し、親子間の構造や形態を現す命題群を構築することによって家族という概念の全体像を構築するのである。
 この様な構造の下に、論理を展開していくのが、集合論である。
 そして、定義の範囲、定義を形成する命題間の関係、個々の命題の妥当性、命題を成立させる前提によってその後の論理の展開も違ってくる。そうなると一様の結論を導き出すことは困難になる。故に、肝心なのは、論理的帰結以上に、定義の妥当性だと言う事になる。しかも、命題は、定量的と言うよりも定性的な場合が多い。だからこそ、集合においては、定義を構成する命題間の無矛盾性と命題の妥当性、正当性、検証可能性、それを成立させている前提条件が問われるのである。
 集合論は、数学的であろうとすればするほど現実から乖離していく。数学的な論理は、絶対的なものではない。自ずと限界があるのである。その限界を自覚したところに、数学も科学も成り立っていることを忘れてはならない。
 集合論は、現実の事象に当て嵌めてこそ、その威力を発揮する。数学的分野に限定しているかぎり、一部の専門家にしか役立たない。
 思想や哲学、又は、偏見が入り込むのは、命題や要素の設定と論理の過程である。故に、偏見や差別は、結論にあるのではなく。命題や要素の設定段階や論理的過程の歪みに問題があるのである。
 思想や哲学とは、最初の命題を成立させるための法則や原則、また、その後の論理を展開させる時の法則や原則だと言ってもいい。
 好例が平等に関する定義である。
 元々、認識の基礎となる分析・分類は、判別や区別にある。判別や区別、対象の相違や差によってグループ化する事を否定されてしまうと識別はできない。いわゆる差別というのは、識別され分類された対象に何らかの実体が伴うことによって生じる。副次的なものである。認識上の区別、区分まで否定されたら、識別は不可能である。
 男女同権論には、男女の相違そのものまで否定している者もいるが、それは、認識そのものを否定する事である。男と女の差まで認めないと言われたら、それまでである。犬と猿とは同じだ。動物と言う観点から判断すれば、平等、同等な存在だというのと同じである。それは、犬と猿とが同じなのではなく。分類する際の定義上の問題なのである。つまり、どのような定義、基準によって識別したのかという認識上の基準の問題であり、対象そのものに差がない事を意味しているのではない。
 更に言えば、同等と平等というのも違う。同等というのは、外延的なことであり、平等というのは内包的な概念である。元来が、平等は、存在に関わるものであるのに対し、同等は、外形に関わるものなのである。同等と平等を取り違えることにより、平等の概念は、混乱しているのである。
 以上の点を鑑みると男女同権とは、男と女の違いを正しく認めた上で、どうすれば、平等な関係を築けるかと考えるのが本来の在り方なのである。
 その為には、性別とはどのようなものかを正しく定義することが大前提となる。そこで集合の概念が重要になるのである。
 現在の国境の内のいくつかは、定規で引いたような直線である。しかし、日本のような例外的な国は、別にして、歴史や民族、宗教といった色々な要素が混在し、一本の線で画定されるものではない。
 会計制度や予算、計画、組織もある種の集合体である。
 仕事や計画も集合体である。仕事や計画は、いくつかの次元を持つ集合体である。集合を形成する要素には、作業、時間、人、道具、材料、費用と言った実体的な部分集合と方針、目的、手順、段取り、枠組み、手続き、組織といった概念的な部分集合が組み合わさって成立している。しかも計画は、現実に実行された内容との相互関係によって具現化される。
 また、仕事や計画を更生する個々の作業は、それ自体が一つの動作の集合となる。しかも、個々の作業は、繰り返し現れる作業(定型的作業)と、一回限り、又は、突発的に現れる作業(非定型的作業)とに区分される。繰り返し現れる作業の中には、複数のの作業が組み合わされて出現するものもある。
 自己相似、自己同形、対称的な作業と個々独立した作業から成る。そして、一連の作業には、階層性や時系列と言った順序・段階がある。更に、作業が組織化されると、並列的な作業と直列的作業、つまり、作業と作業の連結や結合が問題なる。また、全体と部分の統一と分散の均衡が大切になる。これらは、集合体を成立させる要素。規則へと発展する。
 さらに、個々の作業は、いくつかの動作の集合である。一工程の作業は、いくつかの基本動作から成る集合体である。
 かつては、全ての作業をバラバラに解体し、それを再構築することで計画や仕事は、建てられていた。しかし、現在検討されているのは、先に一つの全体として計画や作業を捉えるやり方である。と言うよりも、最初は一つの全体として捉える以外に捉えようがないのである。
 スポーツが良い例である。つまり、選手の位置(ポジション)と運動、選手間の連携によって、チームのフォーメーション(配置)を決定する。この様な決定は、個々の選手の動きに対し、一対一の関係で決められるわけではない。全体の在り方や動きに基づいて総合的に決定される。この様な判断が集合論的論理展開である。
 分類や分析は、いくつかの命題によって要素・条件を設定し、その要素に従って全体をいくつかの集合に分割し、その集合に名前を付けることによって識別することである。
 最初に部分があるのではなく、全体があるのである。それを何らかの要素や条件によって分割することによって部分が生じるのである。明確に分割することができる対象であれば、問題ないが、明確に分解することのできない対象だったら問題が生じる。そして、多くの場合、特定の条件だけでは、分割することが困難なのである。そこに不条理が発生する。灰色の部分を多くの事象は含んでいる。むしろ、明確に判別できるものは、特殊な場合に限られている。
 我々は、対象を認識する際、最初から細部まで詳細に識別しているわけではない。はじめは、一つの塊(かたまり)、全体として認識するのである。それを任意の条件や基準によって分解していくのである。ただ、生きた人間を解体してしまうわけにはいかないから、何らかの形で推測や仮定が生じる。また、動物の肉体を調べるにしても解剖するためには、対象を殺さなければならず。その場合、生きているものとは、別の物に変質してしまう。どちらにしても、分析には限界がある。その限界を前提とし、推測や推論の上に理論は成り立っていることを忘れてはならない。
 集合体は、前提や条件、基準の設定の仕方によって姿を変える。故に、前提や条件、基準の設定の仕方が大切になる。場合によったら、出される結果以上に重要になる。
 例えば、条件や前提の設定次第では、全体を一度要素、部分に分解し、その要素・部分から新たな集合を作ると新しい全体が現れるという事もあり得る。つまり、初期設定が重要なのである。現象をキリスト教的視点から捉えるか、仏教的視点で捉える、科学的視点から捉えるか、政治的視点から捉えるか、視点の設定の仕方で解釈の仕方が全然違うものになる。しかし、その大本にある真実、事実は一つである。一つの全体である。
 仕事で言えば要件定義である。最初に設定される要件定義によって仕事の内容はがらりと変わる。仕事の結果が出てからでは手遅れになることが多い。故に、最初に要件定義をしっかりしておく必要がある。
 仕事も最初は、漠然としたイメージに過ぎないのである。それをより、鮮明に、詳細にしていく過程が計画である。しかし、計画が立ったからと言って現実の仕事がその通りに実行されるとは限らない。現実の仕事には、予測のつかない、予期せぬ出来事が、混入してくるのが常である。故に、完全・完璧な計画というのは建てようがないし、建てたところで意味がないのである。
 集合体の典型は、データベースである。データベースは、集合の構造を如実に現している。
 データベースは、全体をいくつかの集合、部分集合に分割することができる。その部分集合は、一つの全体としての集合を成立させることもできる。全体を構成する部分の集合は、それ自体が全体集合を成立させているのである。
 価値観も命題の集合である。と言うより、価値観は、典型的な集合論理・集合体系である。この様な価値観は、一対一的な判断では、適正な評価ができない。科学的、数学的な論理と倫理が不適合を起こすのは、価値観が集合的論理だからである。
 そして、価値基準こそ初期の設定によって行動として外部に現れる結果がハッキリと左右されるのである。だから行為として現れる結果よりも、動機を成立させる価値観が重要になるのである。
 真・善・美も一つの集合である。真とは何かを定義する命題は、集合体であり、一つの命題、即ち一対一に定義されているわけではない。さらに、それが、前夜美と一体になって上位の価値観を形成している。この様に、一つの集合は、部分にも全体にも成る。
 集合的論理は、集合を構成する要素の過不足によって全く異質の集合体に変化する。道徳的基準を例にしてみると、仁義礼智忠信孝悌も一つの集合である。仁義礼智信も一つの集合である。ただし、前者と後者は、明らかに違う集合である。集合を構成する要素が違うのである。
 また、構成要素が同じでも内部構造、順列や組み合わせによっても変化する。集合体というのは、繊細なのである。
 観善懲悪的な価値観が現代社会では通用しない。善ではないものは総て、悪とは言えないし、また、悪でないものは総て善であるとは言えない。つまり、善と悪との間で排中律は成立しないのである。つまり、数学的な意味での集合論では民主主義社会は、成立しないのである。
 こののような勧善懲悪的な価値観に取って代わってきたのが、法よる論理・価値観である。
 勧善懲悪は、悪の栄えたためしなしと言う命題に基づいて、悪を独断的に決め付け、現実の出来事を当て嵌めるかたちで、成立する物語である。この様な展開は、命題の設定や論理の展開の過程に無理があることは明らかである。ただ、解りやすいと言うことで、多くの人に受け容れられてきてはいたが、情報の伝達手段が発達した今日では成立しにくくなった。
 勧善懲悪的なモデルによって現実の世界を捉えることは、物語としては、面白いが、現実の社会を説明するのには、限定的、自己完結的で不適切な部分がある。
 法も一つの集合体を形成する。
 バラバラに要素を分解するのではなく、一つの塊(かたまり)、全体、集合として捉える。論理を独立した一つの命題による一対一の関係して展開するのではなく。複数の命題の集合体の階層的展開によって成立させるのである。
 その典型が法体系である。つまり、憲法という命題の集合体に、民法や刑法という下位の命題の集合体を対応させながら、現実の事件を通じて相互の論理的な矛盾を検証することによって法体系は成り立っている。即ち、法と事件は、必ずしも一対一の関係にあるわけではないのである。
 法においては、命題間の論理的無謬性・無矛盾性が重要となる。
 我々が日常的に接している物のほとんどは何らかの集合体である。その集合体を部分に分解し、更に再構築することによって現代の科学は成り立っている。しかし、それでは、真実を把握しきれない。
 全体は、全体としての働き機能がある。その全体としての働き機能を明らかにしていくことがこれからは求められているのである。
 言葉、言語こそ集合の代表的な物である。
 我々は、文脈や文節によって対象を頭の中に再構築する。一つ一つの単語だけでは、表現される対象に限界が生じる。
 家という言葉には、実際にそれが指し示す実体がある。その実体は、一つの全体である。特定の事物をさす。しかし、家という言葉の概念は、その実体からかけ離れた物である。家という単語だけでは、指し示した実体を表現しきることはできない。その為には、いくつかの命題、文節が必要となる。また、文脈、文法も生まれる。しかもそこには脈絡がなければならない。
 つまり、我々は、物事を解析的に捉えていると言うよりも一つの塊(かたまり)、全体として捉えている。言葉が指し示す対象は、本来、漠然とした物である。明晰な論理ではない。言葉は、物を象徴したものである。はじめに言葉があったのではなく。実体が存在したのである。その実体は、全体である。その実体から、我々は、必要に応じて概念を引き出しているのである。だとしたら、言語体系は、対象と観念、現実と意識の間、狭間にあるものと言える。ところが、我々は、それが一度言語体系の中で対象化されるとそれを現実の存在と錯誤してしまう。そして、そのような仮装現実に振り回されることになる。真実の実体は、分解・解体される以前の全体にあることを忘れないようにしなければならない。
 荘子に、混沌は、九穴を穿つと死んだとある。真理を探求する際、大切なのは、真理の全貌、全体である。真理を明らかにしようとして、対象をバラバラに解体すると、真理は死んでしまうかも知れない。真理を探究する者は、真理を殺さないように心しなければならない。真理を自分で殺しておいて、その屍を真理だ真理だとがなり立てるのは、恥知らずである。科学者は、自らが真理を殺してはいないか、自省すべきである。


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