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著書: 自由(意志の構造)上
第2部第3章第9節 密度
ああ、濃厚なるもの。熱きもの。迸りでるもの。生々しきもの。密やかなるもの。ドロドロとしたもの。湧き出すもの。さめていくもの。暖かきもの。堅いもの。柔らかいもの。命あるもの。満たされたもの。濃密なるもの。散在するもの。集合せるもの。粘るもの。融合するもの。離散するもの。燃焼するもの。作用するもの。胎動するもの。噴き出すもの。流れるもの。秘められたるもの。固まるもの。空疎なるもの。拡大するもの。集散するもの。脈打つもの。収縮するもの。凝縮したもの。増大するもの。凝固したもの。圧縮されたもの。目に見えないもの。神聖なるもの。密なるもの。薄いもの。上昇するもの。確かなるもの。根源なるもの。靜かなるもの。回転するもの。騒がしきもの。落下するもの。ささやくもの。それは、粒子。それは、波動。それは、爆発。それは、混頓。それは、静止。それは、結晶。それは、構造。それは、空白。それは、情熱。これは、物質であり、活力であり、命であり、エロスである。気体であり、物体であり、液体である。光であり、音であり、時間であり、空間である。この世界は、集まりであり、塊であり、実体であり、空なるものであり、空疎なものである。暗闇に潜む力。光に満たされた器。充溢した力の部屋。濃縮された時間。歪んだ空間。目に見えぬものに真実が隠され。真実の蔭に神が潜む。幻想と妄想。創造と破壊。荒廃と繁栄。生誕と滅亡。観念は常に人を惑わし、人の目から真実の姿をそらす。
物性とは、何か。物体を形成する物は何か。物体は、粒子によって形成されているという説。又、小さい振動であるという説。ある種のエネルギーの塊であるという説。空間や場の歪であるという説。現在いろいろな説が取りざたされているが結局、決定的な説はまだ確立されていない。しかも、物理的な構造が解明されていない以上に生命が物体に宿る原因は解明されていない。近代科学は、物事の本質や真理を取り囲むようにして創り出されたものである。それは、大地の上に人類が文明を築き上げてきたようなものである。いずれは解明されるかも知れないが科学の中で地球の内部は最も解明されていない分野の一つであるが、同様に、真理の内部も未だに解明されていないのである。皮肉なことであるが、自分達の足元の地球の構造が一番解明しにくいのである。同様に科学にとって真理こそ最も解明しにくいものなである。それは、科学が常に仮説や相対的な理論の上に成立せざるをえないという宿命をおっていることを意味しているのである。しかし、だからといってしっかりと大地に根ざしていれば、ちょっとやそっとでは壊れないように、真理に根ざしている限り、科学は堅牢な構造物なのである。しかし、どんなに堅牢な建物でも大地震や火山の噴火といった天変地異の前に脆く崩れさることがあるように、科学も常にその土台となる仮説が搖れれば崩れさってしまう危険性があるのである。物性は、科学的真理を揺るがすほどのエネルギーを秘めている分野の一つであるのである。しかも物体と生命とのかかわり合いはその起爆材となる物である可能性が高いのである。
物質とは何か。空間とは何か。エネルギーとは何か。力とは何か。熱量とは何か。肉体とは何か。生命とは何か。これらは、根源的な問いである。この根源的な問いに対する解答も絶対的な解答はない。だからといって存在しないのでもない。ただ、観念によってこれを説明することができないだけである。ただ、それではこれらを識別したり、活用することができないので、対象を相対的なものに変換し、即ち相対化することによって、これらに便宜的な識別法を与えるのである。この様に物体や物質に対する考え方も相対的なものである。しかし、その根本にある真理や本質は絶対的なものである。現在は、この様な相対的な捉え方は、まだ生命科学の分野では確立されていない。しかし、生命や生物に関していろいろな理念を確立するために、結局この様な相対的な見方を導入せざるを得ないであろう。また、物理的な世界だけでなく経済や政治といった社会科学の分野においても相対的な物の見方を導入することが鍵となるであろう。そのためには、現在物理学や化学といった近代科学の根幹を成立させている理念を正しく知る必要がある。
物体や空間のとらえかたの一つに質と量と密度というとらえ方がある。対象を識別するためには対象を相対化する必要がある。ただ対象を相対化しただけでは対象を分類することができない。対象を相対化するための手段としては、一定の系を定めることによって対象に位置と運動と関係を与える方法がある。しかし、それは、物体を一つの質点としてとらえる考え方である。それ故に、対象を一つの塊として考えた場合、単に対象を質点としてとらえるだけでは不十分である。そこで、対象に位置と運動、関係を与える手段の他に、対象を質化し、量化する手段がある。それが物体や空間を質と量と密度によって捉える見方である。また、位置と運動と関係によって表す言葉は、東西南北、前後、遠近、左右、上下、高低といった位置にかんしたもの、速い遅いといった運動に関するものであるのに対し、質量に関する言葉は、多少、濃厚、軽重といっ多量や質に関したものである。
対象を分類するためには、対象を比較対照できるものに変換する必要があるのである。その手段として対象を質化すると同時に対象を量化するのである。そして、この量と質とを掛け合わせたものが質量であり、質量を一定の単位で割ったものが密度である。現象を位置と運動関係によって分析する手法は、距離と方向が重要であるのに対し、質と量によって対象を捉える分析方法は計量や統計、性質が重要な要素となるのである。
対象の量化は、対象の数量化するための第一歩である。量化する為には、一定の単位を定める必要がある。この様な単位は、空間的なものとは限らず、熱量的なものや、圧力でも、時間的なものでも、電磁気的なものでも、その他、量化されうるものすべてにあてはめることができる。
物質や物体をただ単なる質点と見なすか、中味の一杯詰まったものと見なすか、また、空疎な隙間だらけのものとみなすか。それとも、何等かの要素の集合体と見なすかによって物質の概念が全然違ったものとなってしまうのである。例えば、銀河系宇宙からみれば地球は質点となり、地球物理学的な見地からにみれば物質の塊となり、日常的な生活の中では動かしがたい大地となるという具合いにである。この様に対象を質と量と密度でとらえる考え方も相対的なものである。この様に対象に対する考え方は、常に相対的なものなのである。
空間は、何も存在しない、空虚なものと見なし、物質は、隙間のないものと見なす見方が過去は一般的であったが、今日、科学は、その空虚な空間に、目に見えない気体や力が満たされている場という概念を導入しなければならなくなった。また、一見隙間のない物であるような物体も実はごく小さな粒子の集まりであり、隙間だらけであるという考え方が一般化したのである。この様な考え方は、近代科学が発達する以前は、非常識な考え方であり、神の教えに背くものとして退けられてきたのである。
対象を位置と運動と関係によってとらえるのではなく。質と量と密度によって捉える発想は、物体を単純に一つの塊としてとらえるのではなく、対象を構成する複数の要素を抽出するために効果があるのである。つまり、物体や空間を幾つかの要素の集合体としてとらえることによって、物質を構成するものを分析する事によって対象の性質や構造を特定するのである。
対象を、位置と運動と関係という力学的な現象として捉える場合、対象の相対化は、自己と対象とそして、認識の関係上必然的なものとして生じるのであるが、対象をいくつかの塊としてよって識別しようとした場合、対象の相対化は、対象の抽象化の過程における必然性から生じるのである。対象を抽象化することは、対象の概念化であり、それは、対象を力学的に捉えることよりも、より観念的な傾向が高くなる。それは、対象を物理的に比較する傾向よりも観念的に比較する傾向が高いことを同時に意味するのである。また、自己が間接的な認識対象であることは、対象の抽象化の過程で自己否定と自己肯定を反復させる事になる。この事によって対象を抽象化しようとした場合、対象にたいする認識過程において弁証法的な手段が用いられることは、必然的な事なのである。つまり、弁証法と言うのは認識の過程における必然的な手段であって絶対的な原理とは異質なものである。
密度は、統計確率的な世界である。現象も、本来は、統計確率的な世界である。量的な変化を関数化する過程で近代科学は、発展してきたのである。言い替えれば、自然現象を関数化することによって近代科学は、成立したのである。近代科学によって量的な変化を数式化し、数式化する事によって自然現象における運動の変化や質的な変化を推測する事が可能となったのである。
数式は、出された結果も重要だが、同じぐらい数式そのものや数式を構成する個々の要素の持つ意味も重要である。それは、数式や要素が次元や性質を表しているからである。
近代科学は、数学的論理を背景に持つことによって対象や現象を量化することによって成立している。それ故に、近代科学は、量化できない分野を分析することが比較的苦手である。そのために、近年では、対象を関数的なものとして捉えるだけでなく、確率統計的なものとして捉えようとする傾向が高くなってきたのである。つまり、曖昧なものを科学的に分析しようとした場合、無理矢理に対象を限定するのではなく、曖昧なままに対象を量化しようとする傾向が近年高まってきたのである。しかし、この傾向の根本は、人間の認識の不完全性や曖昧性にあることを忘れてはならない。つまり、人間の観念があやふやだからといって対象の存在をもあやふやだと断定してしまうのは、認識者側の思い上がりなのである。どだい、近代科学の前提は人間の認識の相対性に依拠しているのであり、近年、近代科学が、脆弱な基盤の上に、築かれているのではないのかという、疑問が提示されたことは、それが再認識されたのに過ぎないのである。それは、近代科学が古典力学的世界を一意的に否定していること意味するのではなく、科学がその発生した原点的なものへ回帰していることをむしろ意味しているのである。
対象を質的なもの、量的なもの、密度的なものとして考察しようということは、つまり、対象を一つの全体として捉えることによって個々の要素の運動を解析するだけでなく、全体の動きを傾向として捉えていこうとすることである。この様な対象の認識は、当然その対象の背景についての研究の充実がなければ成立しない。この事がより、科学を空間的次元的なものへと発展させているのである。
質、量、密度の概念は、空間を前提としている。空間は、それを抽象化することによって次元となる。つまり、質、量、密度の概念は、次元の存在を前提としているのである。
対象を一つの塊とし、その塊、つまり、何等かの集合体を解析しようとした時、その集合体の背景となっている空間や次元の性質や特性によってその集合体の性質も変化するのである。つまり、対象を一つの全体として解析する場合、その対象の状態と対象の置かれている空間の状態が重大な問題となるのである。そして、その状態を変化させる対象、及び、空間の性質や原理が問題となるのである。つまり、現象を運動を位置、運動、関係として捉えるだけでなく、一つの状態として捉えていく事が大切なのである。この事は、特に社会科学の分野に置いて重大な意味を持ってくるのである。
空間を占める要素の割合が少ない状態、つまり、密度が薄い状態を粗という。対象の状態を分析するにあたって、対象の状況が高密度であるか粗であるかは、重大な鍵である。
量的な変化は質的な変化を引き起こす。この様な変化は、密度と密接な関係がある。そして、密度は、集合体が存在する空間や次元に密接に結び付いているのである。つまり、量的な変化は、密度の変化によって次元的な変化を引き起こし、それが集合体の質的な変化を誘発するのである。
何の訓練もされず、無目的に集まった群衆と、訓練され、整列した集団とは、自ずとその性格を異とする。また、場所を占める群衆の密度によって群衆の性格も変化をする。
集合体の働きの強弱は、その集合体の背景にある次元や空間に作用する力の性質や量、密度によって決定される。この事は、集合体を維持するために重要なのは、力の均衡であって、個々の力の強弱に左右されるのではなく、また、集合体の力の強弱は、集合体に働いている力の総力であって個々に働く力の量によって決められるのではない事を意味しているのである。
対象の背景となる空間や次元、そして、対象の内部が分裂しているかいないかは対象の状態や働きを考察する上で重大な鍵である。統一的であれば、体止揚を一元的に捉えることができるし分裂していれば、当然、対象は、多元的なものとして捉えなければならず、それだけ、問題は複雑なものとなるのである。
組織の効率を高めるためには、組織の密度を高める必要がある。つまり、組織を量的に拡大するだけでなく、組織を成立させている基盤の整備が必要なのである。
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