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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章  思惟

 真理は深い霧に包まれ。未来は闇の中にある。人の心は千変万化留まる事を知らない。己の視野は小さく住む世界は狭いというのにこの世は広大で宇宙は無窮である。限り有る一生で無限の時を計り。限られた能力で普遍的な真理を探る。どんな金持ちでも命を買うことは出来ず。どんな王侯貴族でも寝るのに必要な面積は普通の庶民と変わらない。心の純潔や高潔な人柄は万金を積んでもあがなう事は出来ず。どんな権力者も若さを自分の思い通りにする事は叶わない。生まれいづる者よ。病に倒れし者よ。まさに朽ち果てんとする者よ。人はなぜこの世に生を受け。なぜ苦しみ。なぜ争い。そしてまた何処へ立ち去るのか。何を悩み。何を喜び。何を嘆くのか。愛とは何か。憎しみとは何か。それでは幸福とは何か。この世に真実はあるのか。ならば真実とは何か。善とは何か。悪とは・・・。恵まれている人と不幸な人がなぜいるのだろう。生まれながらに人はなぜこれほどまで差があるのか。一体誰を信じ何に従って生きていけば善いのか。人が犯した罪とは何か。これから犯そうとしている罪を避けることが出来るのか。この世の掟は正しいのか。人が人を裁くことが許されるのか。自然の摂理とは何か。死後の世界はあるか。なぜ男と女の差があるのか。ああ、自分の行いは正しいのか。もし、自分の行いが間違っているとしたらどうすればそれを知り正す事が出来るのか。この世に神居るのか。人は許されるのか。人々は和解できるのか。どんな体制がいいのか。未来はどんな世界がくるのか。来年の景気はどうだ。子供にどんな教育をしたら良いのか。あの人は私を愛してくれるだろうか。苦しみから逃れる為にはどうしたら良いのか。こんな事をしていて善いのだろうか。なぜ貧富の差が生じるのだろうか。家庭と仕事どちらを優先すべきか。科学文明は人々を幸福にしてくれるであろうか。資源はなくならないだろうか。明日はくるだろうか。謎。謎。謎。謎は深まり悩みは尽きない。
 自分を取り囲む世界を我々はどの様に捉えるべきか、それは難しい問題である。我々が住んでいる世界は茫洋として捕らえどころがない。真実は漠然として判然としない。真理は論理ではない現実である。この世の事は、本来、何もかもが無意味であり煩雑としているのである。最初に我々に与えられているのはこの雑然とした世界と未熟な自我だけである。そして、人は、もの心がつく頃になると我々に与えられているものは、それが全てであることに気が付くであろう。人間の一生は、この未開な世界に、未熟な自我で立ち向かっていかなければ開けないのである。だから、人間は考える。考えて、考えて、考え抜く。考えた末に人間の知恵が生まれる。その知恵が文明を生みだし文化を育む。それが思惟である。
 我々は真理を知らないわけではない。誰もが善と悪とを見分ける能力を持っている。只、一人一人その価値観に差があるだけである。誰もが現実を見分ける力を持っている。しかし、それが、真実であるかどうか確信が持てないだけである。誰もが自分なりの信念を持って生きている。ただ、それを、言葉で言い表せないだけである。誰もが美しいと思う心がある。只、なぜそれを美しいと感じるのかが解らないだけである。人間は死ぬのが怖い。怖いから天国や地獄を思い描く。しかし、天国や地獄の存在を立証するすべはない。それ故に不安にもなり、苛立ちもする。
 解る。確かに解る。しかし、その原因が解らず、たとえ、解ったとしてもそれを言葉にすることが出来ない。自己を越えた存在がこの世には存在する。しかし、一体それは何なのか。どんな姿をして何を考えているのか。その肝心なことが理解できない。だから、短兵急にこれはこうなんだと決めつけてしまいたいのである。
 神など存在するものか!自分に見えるもの、触れるもの、理解できるものだけが真実なのだ。そう割り切ってしまえば楽だ。目に見えるたった一つの事柄だけですべてを否定し、自分を納得させることは、簡単である。確かに、何千年も歴史のある宗教に、一人のくらい破戒僧がいるからと言って、その宗教の開祖まで堕落しているとまで考える者はあまりいまい。教育者が多少羽目を外したからと言って教育の必要性まで否定する者は少ないだろう。世の中全ての矛盾はその時の政府の責任だと考える者はいまい。小説や絵画の作者が変人だからと言ってその芸術性まで否定できないであろう。破戒僧が悪い。教師だって人間だ。政府だって時には間違いをおこす。芸術家なんて奇人が多い。そう考えるのが自然だろう。しかし、果してそうであろうか。ほんの少しの欠点や過ちを許せなくて全ての人格を否定したり、ちょっとした諍いが取り返しのつかない事態を引き起こしたり、小さな矛盾で全てを判断し、社会全体を否定したりしては、いないだろうか。そして、それが、国家や宗教的な問題になると戦争や革命の原因となってしまうことすらある。そう、戦争や革命の原因なんて高尚な哲学や理想なんかではなく。もっと下世話で俗ぽい事なのである。現実的な問題なのである。
 物事を正しく理解するためには、何事に対しても先ず肯定的でなければならない。日本人は、戦後、何事に対しても批判的で、懐疑的で、なければならないと教わった。しかし、その考え方には前提があり、その前提を抜きにしては、真の意味を理解することは出来ないのである。しかし、全ての事に対し否定的で懐疑的なことが民主主義であり、科学的なのだと言う考え方は日本人に行き渡ってしまった。そのために日本人は日本人の民主主義や科学的な発想の根本に重大な歪みがあることに気が付いていない。
 批判的かつ懐疑的でなければならないと言うことの前提は、第一に事実を率直に認めた上で先入観や偏見に対し批判的かつ懐疑的でなければならない言うことなのである。目の前にある世界や事実にまで懐疑的になってしまったらこの世の中を総てに否定的になってしまう。第二には自分の考え方や立場、視点を正しく理解する上で自分の視野の中にあるものに対し批判的かつ懐疑的でなければならない。これも戦後民主主義として日本人が教えられたことに他人の意見を尊重しなさいと言うのがある。これにも前提があるつまり自分の意見を持って他人の意見を尊重しなさいという事である。つまり自分の視点を正しく理解し自分の意見を持ってそれを明確にしない限り他人の意見を尊重することは出来ないのである。第三に自己の固定観念や独断に対して批判的かつ懐疑的でなければならないのである。自分の能力や視野には限界がある。その限界の中で物事を捉え対象を認識している。そのために我々が直接認識できる外的世界は部分に過ぎない。その様な部分的な世界を全体だと考えてはならないしまた部分的な世界の集合である自己の固定観念によって世界を捉えている限り正しい理解は得られない。
 この様な自己の限界を補うためには絶え間なく自己の固定観念に批判的かつ懐疑的でなければならないのである。しかし、何れの場合にせよ事実を事実として認識した上でと言う前提がある。事実を確認もしないうちに先入観や偏見、自分の独断や固定観念で、物事を判断したら、この世の物事全てを、否定し尽くさなければ気が済まなくなる。その行き着く先は、絶望的な虚無の世界である。結局玉葱の皮剥きなのである。現代の日本のマスコミの犯している過ちはこれである。無思想の思想など有り得ないのである。 
先ず眼前の世界を肯定しない限り、否定も批判も出来ない。そうして事実の上に自己の存在や運命を受け入れ、その上で自己の人生について思いを巡らすのである。自分の力ではどうしようもない事を、呪い続けても自分の人生が拓けるわけではない。それよりもどうし様もない事実を素直に受け入れた上でよりよい方向に向けることが大切なのである。自己の眼前の世界を肯定し自己の存在を認め自己の限界を認めることが先ず第一歩である。自分にとって都合の良いことばかりでなく、それが自分にとって厭なこと都合の悪いことであっても、善いとか悪いとか言う前に、事実ならば事実として素直に受け止めなければならない。突き上げてくるような欲望の存在、それに伴う快楽や苦悩、そういったものの存在を感じるのならばそういった存在一切がっさいを先ず虚心に受け止めようではないか。そして、その様な事実を肯定した上でそれを美しいとか、汚いとか醜いと感じる自己の感性や心の存在を同時に認めようではないか。自己の感性や心の存在を認めたならば今度は自己の限界を認めるのである。自分に出来ないこと解らないことを率直に認めない限り真実を見極めることは出来ない。自己の限界を認めることによって自分の限界によって犯してきた過ちを認め、その過ちを改め二度と繰り返さないように反省をするのである。その上で自分の人生を如何に有意義なものにするのかを考えるのである。その様な前提にのとって自己の人生を考えない限り、人間の人生は贖罪の手段を喪失し虚無となるのである。
 さて、それらを前提としたならば、自分の人生を実り多いものにするためには次にその前提に基づいて自分達に与えられているものを如何に有効に活用するかが重要なのである。人間の思惟はその時輝き始める。そこに至るまでは苦難の連続である。なぜならば人間はその根底に確信と自信がない限りその思索は自己否定か自己喪失に陥らせるからである。自分の願望を成就するためにはこの世を肯定しなければならない。この世にいない人に恋をしても始まらない。この世にいる人に恋をして初めて自分の愛は成就する。自分が理想的な女性を思い描くのは結構であるがそれによって現実を否定するのは行き過ぎである。理想や夢は現実の世界の中で成就すべきである。それは現実の世界に無批判に従うことを意味するのではない。この世の中を改革するにせよ、否定するにせよあるがままの世界を直視しない限り不可能なのである。ただおのれの不幸を神や世間の性にして神を呪い世間から逃げ出しても問題の真の解決にはならないのである。大切なのはこの世をあるがままに受け入れた後それにどう対処するかなのである。
人間は先ず自分達にこの様なものや機会を与えてくれた存在に対し感謝をすべきなのである。当り前なことだ当然なことだと思って驕慢になってはいけない。況や自分に与えられたものに不平不満を並べて神を呪ってはならない。その様なことをすれば自分の命すら失うことになる。自分に与えられたものが如何に粗末で貧しく納得いかない不満足なものであったとしてもそれを受け入れない限り自分の人生は拓けない。第一与えられたものに感謝するかしないかは自分の心の問題である。絶対の権力を手にいれ巨万の富を築いたものでも満ち足りないものがいる。逆にささやかな幸せに満ち足りた思いを持つものもいる。与えられたものに感謝し与えられたものを素直に受け入れ与えられたものの中で最善を尽くす。それが人の道だ。そして、人間が生きていくのに必要なものは総て与えられているのである。人間が素直にならず驕慢を通すならば、人間は自らを滅ぼすことになるであろう。その様な結果を招いたとしても人間は何者をも恨む筋合いはない。恨むならば自らを恨む以外にない。人間に与えられたものを素直に受け入れ、与えてくれたものに感謝を捧げる。それが信仰である。だからこそ日々これに感謝を捧げ自分が生きていることを実感した時に、また恩恵を感じたときに静かに祈りを捧げれば善いのである。人々の目の前でこれ見よがしに祈りを捧げるのは真の信仰ではない。
 人間が戦わなければならないのは人間の心である。差別や不幸を生み出す根源である。それは世の中の平和を乱し悲惨や凄惨な状況を生み出す原因である。神を呪い、この世の全てを否定し、只おのれの不幸、不遇の原因の全てを自分以外の者に押し付け。不平、不満に凝り固まっておのれの不幸や、不平、不満をまき散らすものである。自分の欲望が抑制できず行動を放恣なままに委せ。そのくせ自分の欲望の為、人々を犠牲にしても心が痛まない人間達である。私はこの様な人間や体制に対しては自己の存在と尊厳を賭けて戦うであろう。しかし、それは只闇雲に現実や現実の社会現実の体制を否定することではない。その根底には、深い人類愛と神が与えたものを正しく受け入れていく感謝の念が根底になければならないのである。さもないと自分が否定したものに自分はとって替わったのに過ぎないのである。例えば多くの独裁者が辿ったのと同じ様に独裁者を倒す過程で自分が新たな独裁者となるそれは結局悲しいほどの自己否定である。
天、もしくは神が人間に与えし法や宝玉を如何に見いだし、如何に活用するかは、それが人間の知恵である。そこに人間の思惟がある。私がこれから語ろうとしているのもその事である。故に、我々は天もしくは神が与えたもうたものについて語っているのだと言うことを忘れてはならない。故に、いつも何処かで天や神を感じていて欲しいのである。また、自分が感動すること感激することそれは真実でありそれがまた真理なのである。感動する心、感激する心の上に、冷静冷徹な目を養うことそれが栄光への唯一の道であることを覚えておいて欲しい。

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